久しぶりの投稿です。
この時期は、寒さが堪えますが今年は少し暖かいのでしょうか、例年より早くチューリップが
きれいに咲くニュースを目にしました。
月刊『致知』を毎月購読しています。
人間学を学ぶ月刊誌として昭和51年から現在まで月に1度発行されています。
2019年3月号は、特集が 志ある者、事竟に成る
感動する内容をご紹介します。
勝手に思うままに 105 志ある者、事竟に成る
志ある者、事竟に成る ―― 歴史書『後(ご)漢書(かんじょ)』にある言葉である。
堅い志を持つ者は、いかなる困難に遭っても必ずその志を成し遂げる、という意味である
古来、この言葉に感動し、心を鼓舞された人は数知れない。このほどノーベル賞を受賞
された本庶佑さんもそのお一人だろう。ノーベル賞の賞金をもとに後進を育てるべく設立
された財団を「有志竟成」と名づけられたところに、それは明らかである。
本誌もまた、創刊時、部数が伸び悩んでいた時期に渡部昇一先生からこの言葉を教わり、
大きな励みをいただいた。渡部先生ご自身も若かりし頃、この言葉を銘とし、自身を鼓舞
してきたと伺った。
世に志を抱いて生きた人は多い。小社刊『子どもたちが目を輝かせて聞く偉人の話』
に紹介されている人は皆、志に生きた人である。
それぞれが魅力的だが、ここでは伊能忠敬を取り上げたい。
忠敬は一七四五年、上総国(千葉県)に生まれた。幼名は三治郎。一七歳の時、地元の
大商家である稲生家に婿入りし、名を忠孝と改めた。伊能家の跡取り娘ミチ(二十一歳)が
最初に取った婿が急死し、その後婿に忠敬が選ばれたのだ。
忠敬は一男一女をもうけ、家業に精を出して家産を増やし、四十九歳で家督を息子の
景敬に譲った。
そして隠居後は江戸に出て幕府天文方の高橋至時に弟子入りし、天文観測の道に没頭する。
それは、忠敬の生来の夢、志だったのだ。
詳細は省くが、忠敬は最初から地図を作りたかったわけではない。地球の広さを知りた
い、そのためにも子午線一度の長さを算出したい、という思いを募らせた、それが契機に
なって五十六歳の時に蝦夷地の測量に赴くことになる。
これが手始めで、忠敬は七十二歳まで十七年間にわたり、北海道から九州まて、全行程
三万四千9百十三キロを測量。その測量だが、最初の蝦夷地では「歩測」の方法を採り、
一歩を六十九センチと決め、何十キロものペースで歩いたというから恐れ入る。
この測量による地図の完成を見ることなく、忠敬は七十三歳で他界した。
「大日本沿海與地全図」が完成したのはその三年後である。
忠敬が導き出した地球の外周と現在のGPSとスーパーコンピューターで計算した外周の
誤差は、僅か0.1%というから驚く他ない。志を長い年月温め続け、自らの役割を果た
した五十代になってそれを実行、完遂した伊能忠敬の生き方に、学ぶものは多い。
現代にも志に生きた人はいる。折しも『JALの奇跡』(大田嘉仁著)が出版されたが、
JALの再建に七十八歳で無給を条件に取り組んだ稲森和夫氏がその人である。
二兆三千億円の負債を抱え倒産したJALを会長就任一年で千八百億円の黒字に転化させ、
二年で二千億円の黒字を計上、二年八か月で再上場に導いた。
まさに奇跡だが、その軌跡を起こしたのは稲森氏の高い志にあったことが本書を読めばよ
く分かる。仕事に携わる人、必読の書である。
その稲森氏は、「宇宙は知恵の蔵、真理の蔵であり、真摯に努力する者に、天はその蔵
の扉を開いてくれる」と言っている。
真の志には天も味方するということだろう。そういう志に燃えたいものである。 以上
五十六歳から高い志を抱き、大業を成し遂げた伊能忠敬、七十八歳から僅か二年でJALを
立直した稲森和夫氏、正に志ある者、事竟に成るということを学びました。
この時期は、寒さが堪えますが今年は少し暖かいのでしょうか、例年より早くチューリップが
きれいに咲くニュースを目にしました。
月刊『致知』を毎月購読しています。
人間学を学ぶ月刊誌として昭和51年から現在まで月に1度発行されています。
2019年3月号は、特集が 志ある者、事竟に成る
感動する内容をご紹介します。
勝手に思うままに 105 志ある者、事竟に成る
志ある者、事竟に成る ―― 歴史書『後(ご)漢書(かんじょ)』にある言葉である。
堅い志を持つ者は、いかなる困難に遭っても必ずその志を成し遂げる、という意味である
古来、この言葉に感動し、心を鼓舞された人は数知れない。このほどノーベル賞を受賞
された本庶佑さんもそのお一人だろう。ノーベル賞の賞金をもとに後進を育てるべく設立
された財団を「有志竟成」と名づけられたところに、それは明らかである。
本誌もまた、創刊時、部数が伸び悩んでいた時期に渡部昇一先生からこの言葉を教わり、
大きな励みをいただいた。渡部先生ご自身も若かりし頃、この言葉を銘とし、自身を鼓舞
してきたと伺った。
世に志を抱いて生きた人は多い。小社刊『子どもたちが目を輝かせて聞く偉人の話』
に紹介されている人は皆、志に生きた人である。
それぞれが魅力的だが、ここでは伊能忠敬を取り上げたい。
忠敬は一七四五年、上総国(千葉県)に生まれた。幼名は三治郎。一七歳の時、地元の
大商家である稲生家に婿入りし、名を忠孝と改めた。伊能家の跡取り娘ミチ(二十一歳)が
最初に取った婿が急死し、その後婿に忠敬が選ばれたのだ。
忠敬は一男一女をもうけ、家業に精を出して家産を増やし、四十九歳で家督を息子の
景敬に譲った。
そして隠居後は江戸に出て幕府天文方の高橋至時に弟子入りし、天文観測の道に没頭する。
それは、忠敬の生来の夢、志だったのだ。
詳細は省くが、忠敬は最初から地図を作りたかったわけではない。地球の広さを知りた
い、そのためにも子午線一度の長さを算出したい、という思いを募らせた、それが契機に
なって五十六歳の時に蝦夷地の測量に赴くことになる。
これが手始めで、忠敬は七十二歳まで十七年間にわたり、北海道から九州まて、全行程
三万四千9百十三キロを測量。その測量だが、最初の蝦夷地では「歩測」の方法を採り、
一歩を六十九センチと決め、何十キロものペースで歩いたというから恐れ入る。
この測量による地図の完成を見ることなく、忠敬は七十三歳で他界した。
「大日本沿海與地全図」が完成したのはその三年後である。
忠敬が導き出した地球の外周と現在のGPSとスーパーコンピューターで計算した外周の
誤差は、僅か0.1%というから驚く他ない。志を長い年月温め続け、自らの役割を果た
した五十代になってそれを実行、完遂した伊能忠敬の生き方に、学ぶものは多い。
現代にも志に生きた人はいる。折しも『JALの奇跡』(大田嘉仁著)が出版されたが、
JALの再建に七十八歳で無給を条件に取り組んだ稲森和夫氏がその人である。
二兆三千億円の負債を抱え倒産したJALを会長就任一年で千八百億円の黒字に転化させ、
二年で二千億円の黒字を計上、二年八か月で再上場に導いた。
まさに奇跡だが、その軌跡を起こしたのは稲森氏の高い志にあったことが本書を読めばよ
く分かる。仕事に携わる人、必読の書である。
その稲森氏は、「宇宙は知恵の蔵、真理の蔵であり、真摯に努力する者に、天はその蔵
の扉を開いてくれる」と言っている。
真の志には天も味方するということだろう。そういう志に燃えたいものである。 以上
五十六歳から高い志を抱き、大業を成し遂げた伊能忠敬、七十八歳から僅か二年でJALを
立直した稲森和夫氏、正に志ある者、事竟に成るということを学びました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます