カメラを片手に

笠置山と柳生の関係と般若台とは

10.7℃と暖かな朝、午前中は雲が多かったが、午後からは晴れ間からの陽射し
も見られるようになり、最高気温は18.9℃と。
      13時半、18.0℃、48%

笠置寺の紅葉を伝えていましたが、忘れていたことは柳生と笠置山の関係で、
笠置山は標高288m、北を木津川が流れ、北東西は急峻な山です。
だが南側は柳生からなだらかな深い山となる。
現在はゴルフ場開発で一部開発されているが・・・

              Google Mapより

この天然の要衝を利用されたのが、1331年元弘の乱のおり京の都を逃れられた
「後醍醐天皇」で、この笠置山を南朝の仮皇居にされた。
幕府側の大軍は周囲を取り囲むも、天然の要衝に攻めあぐねることに。
その折兵糧などは山伝いに柳生から持ち込まれ、持ちこたえることになる。
だが半年後、南側からの精鋭の幕府側の兵50人ほどが「石当て地蔵」の地で
老婆に笠置山への山道を尋ねた。
何も知らぬ老婆は道を教え、その山道を通り早朝に急襲され、旧暦の9月29日
に全山燃え落ちることに。
辛くも逃げられた後醍醐天皇も山城の地で捕まり、後に隠岐島へと流される。

柳生古城山で、1331年8月柳生永珍がこの山に立てこもり、後醍醐天皇が潜幸
していた笠置山へ唯一の糧道であった柳生方面を守る山城で、南側での戦で
13人が亡くなる。山頂は平たん、堀の跡が見られる。
      

なお「石当て地蔵」は老婆に似た地蔵が作られ、道行く人が石を投げたとか。
現在は基礎石だけが残される
      
また「コケコの森」には後醍醐天皇が金の鶏を埋められたとの伝説が・・・
      

さて「般若台」とは、笠置寺の南にあり六角堂跡とされる。
      
1193年堕落した南都仏教界に失望した興福寺「解脱坊貞慶上人」は、笠置山の
弥勒摩崖仏を頼って、興福寺から笠置山の般若台に移り住まれ、こんな話が。
”ある日上人が六角堂の縁に座れば、庭の隅の土が盛り上がり人の形に。
上人が「お前は何者だ」と尋ねれば
「私は倶生神(くしょうしん)と申し閻魔大王が人間界にいる貞慶を連れてまいれ
「私と一緒にお越しください」と告げた。
貞慶は「それなら」と一緒に閻魔大王を訪れ、お勤めと説法を行えば・・・
「すばらしい話だ」と褒美に「閻浮陀金(えんぶだごん)」という砂金を授けた。
この砂金は、笠置寺の「解脱鐘」に鋳込されていると伝わる。”と

*解脱鐘は、鐘の基底部が六つに切り込まれた意匠は、日本に一つしかない。
 中国の形式を持った鐘で、源平に合戦時に燃えた東大寺の復興責任者の
 東大寺俊乗坊房(坊)重源和尚の作です。
 重源和尚はこの鐘と中国より持ち帰った紺紙金泥の大般若経600巻を寄進。
 六角堂に納められたが元弘の戦乱で燃える。だが梵鐘だけは残り重要文化財
 に指定されている。
     解脱鐘

今でも両地域同士の婚姻が続いていると。
知らないことだらけ、日本の歴史は面白いですね。

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