今朝は0.3℃と冷え込みは弱く、晴れ時々曇りの予報通りの天候、最高気温は
午後3時過ぎに11.1℃迄上がった奈良。
11時、8.2℃、54%
今日の誕生日の花は「シダ・羊歯、歯朶 」 英名はFern
広義で、維管束植物のうち、胞子による繁殖を行う段階にある植物の総称で、
注連縄などの飾りに用いられるウラジロ、食用になるワラビやゼンマイを含む
根、葉、茎の区別があり、花が咲かなず種子もできない植物をさす。
Wikipediaより
葉は大葉で、単葉からシダ型4~5回羽状複葉となり、羽葉(frond)と呼ばれる
花言葉は「愛らしさ」
奈良時代末期の最古の歌集「万葉集」でシダ類は二首詠まれるのみ。
そのうちの一首、11巻、2475、36歌仙の一人「柿本人麻呂 (人麿)」が詠む
『我屋戸 甍子太草 雖生 戀忘草 見未生』
『わが屋戸の 軒のしだ草 生ひたれど 戀忘草 見れど生ひなく』
*しだ草(子太草)はノキシノブのこと
*しだ草(子太草)はノキシノブのこと
・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて先日の公民館の講座『奈良にも戦争があった』の中、太平洋戦争で奈良や
京都は文化遺産が多いことから被害を受けなかったとされる=オーナー伝説
美術史家のLangdon Warnerが太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から
外すよう進言した人物とされるが、戦後ご本人はその進言はないとの返事!。
実際は奈良では攻撃対象となる軍需工場などがほとんどなかったためです。
なお大正末期から陸軍歩兵三十八連隊が今の奈良教育大学に駐屯しており、
1937年~1945年まで奈良県の関係者で亡くなった人は26000人と・・・
1945年6月1日、奈良市法蓮町と法華寺町に初めての空襲があり少女1人死亡
終戦までに百毫寺町、JR奈良駅、榛原駅付近、北宇智駅付近、月ヶ瀬・柳生
空爆や機銃掃射を受けている。
このような状況の中、各社寺などの文化財の避難も行われている。
正倉院、奈良国立博物館の地下収蔵庫へ避難
法隆寺、五重塔の大半と金堂の一部が解体される。
多くの仏像は柳生、東山村、大宇陀町などの民家に預けられる。
釈迦三尊像と救世観音像の疎開は拒否し「ともに池に沈む覚悟」
法華寺、本尊は身をもって守り、一部は大蔵寺に移送する準備を
薬師寺、吉祥天画蔵は円照寺に疎開し、他を準備中に終戦
唐招提寺、鑑真和上像の疎開に応じず、「開山さんと運命をともにする」
東大寺、二月堂は拒否され、三月堂の諸仏は奈良国立博物館へ、
回廊を解体し、大仏殿も一部解体中だったと。
本題は興福寺、奈良国立博物館等へ諸仏を避難させ、有名な「阿修羅像」等は
吉野の金剛峯寺の銅鳥居下の民家の蔵に。
そのお話は、舟知家の孫娘さんが説明して下さった。
2009年3月~6月の東京国立博物館「興福寺創建1300年記念 国宝 阿修羅展」で
大変有名になりましたが、戦時中の避難のことは村人はほとんど知らなかった
ようで、2018年11月に新聞記事になり明らかになりました。
1945年7月、十大弟子、八部衆等15体を吉野の舟知家(吉野町長宅)に疎開
多分、JR京終駅・・万葉まほろば線・・JR高田駅・・和歌山線・・吉野口駅
・・近鉄吉野線・・吉野駅、人出(刑務所の協力)で七曲りを登り、舟知家へ。
阿修羅像、興福寺HPより
奈良テレビより
興福寺の国宝「八部衆」は奈良時代の作で特定されておらず、国宝館で展示中
阿修羅像(あしゅらぞう) ・五部浄像(ごぶじょうぞう) ・沙羯羅像(さからぞう) ・
鳩槃荼像(くばんだぞう) ・迦楼羅像(かるらぞう) ・緊那羅像(きんならぞう) ・
畢婆迦羅像(ひばからぞう)です。
興福寺国宝館、奈良テレビより
阿修羅を含む八部衆像8体と十大弟子像のうち6体は奈良時代の像で、興福寺に
現存し、仏師将軍万福が作者で西金堂旧所在とされている。ただ西金堂当初像
ではなく、額安寺(大和郡山市)から移されたものだとする説も?
①奈良も戦争の直接の被害は少いも、戦地で命を落とされた多くの方が
②市民の生活は戦時体制に組み込まれ、情報統制を受けていた
③過去のこととしてよいのだろうか。