カメラを片手に

幕末生まれの奈良町の稀豪・吉村長慶が残した石造物①徳融寺

昨日は木枯らし一号が吹いた奈良、今朝は青空でこの秋の最低気温と
なる7.3℃、この数日も晴れ模様が続き紅葉も進みそう。
9時

玉葱の中生苗を発注しているのですが、今年は遅れている。
その方が実は嬉しい、というのも小庭の片隅の我が小々畑には、
茄子、オクラとピーマンが一本づつ残り、まだ収穫中・・・。
気温も10℃を切ったので、思い切って朝から倒し、玉葱小畑への
準備にと耕し、肥料も鋤き込んだ。来週中頃には植え付けるつもり。
終われば、あっという間にお昼前で、殆ど汗もかかず良い気候に。

現在奈良市民に「三尺将軍」と云われた『吉村長慶』という名前を
思いだす方はほとんどおられない、私もそうである。「吉村長慶」は
文久3年(1863年)奈良薬師堂町の質屋の長男として生まれ、日清戦争
のバブル景気で北浜の相場で莫大な富を築く。一方市会議員として
社会活動や政治活動に身を投じるも、教義「不平等が天則自然なり
を掲げ「宇宙教」や「如来道」という自前の宗教にて長慶寺を建立し、
長慶死すとも碑文は死せず」の信条にて奈良県内はもとより大阪や
京都そして高野山、耶馬溪などに200に及ぶ石造物を残されたが、
昭和17年(1942年)に没した。
徳融寺所蔵

なお殆どの石造物の石工は「新谷信正」で、長慶よりも少し若く、
小さな文字や文字数の多いものは彼の文字だそうだ。

10月の中頃、二回にわたり石像物を訪ねる講座に参加した。
一日目のコースは奈良町で徳融寺~元興寺・塔跡~御霊神社~十輪院

徳融寺』は融通念仏宗で中将姫伝説で知られる。


ご本尊の「阿弥陀如来立像」(鎌倉時代の作で北条政子の念持仏)や、
子を抱かれる珍しい「子安観音」伝平安時代も


吉村家の菩提寺で、


長慶の最初の生前墓で、梵字は大日如来を表す。


長慶喜寿の壽像
中門を入り右側に昭和14年77歳の洋服姿の等身大の石像
右手に帝国憲法、左手に如来道の巻物、背広の胸下に大きなボタンは埋め痕で
長慶の髪が埋められている。


大日如来坐像」昭和12年の作で、中門を入り直ぐ。
右上に雲の上の太陽、左右に地球と三日月、
賛は「真理が神だ 真理は太陽から 拝まぬ神にたたりなし呵々長慶」
側面は「長慶寺開基 普門吉村長慶誌」


裏面のレリーフは上部に蒸気船の浮き彫り、米俵、鋤、鍬、算盤等を積み
農工商による積極富国を示す。汽船の下には
「普門来た来た 起きよ 今日 日本の昭和 長慶 戯刻」と。


下に消極の釈迦とキリストを揺り起こす長慶を浮き彫り。


説明文

「薬師如来香合」明治29年「薬師如来 吉村長慶 當薬師堂町」もある

徳融寺は長慶さんゆかりの大黒様も飾ってくれました。


                   次に続く

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