カメラを片手に

奈良町の稀豪・吉村長慶が残した石造物②

雲一つない東の山の端から冷たい空気を切り裂いて陽の光が
射し込んできました。最低気温は6.3℃とシーズン最低です。
9時

幕末生まれの奈良町の稀豪・吉村長慶が残した石造物②
今回は吉村家の菩提寺・徳融寺を出て奈良町を御霊神社そして
十輪院まで歩きます。


『御霊神社』は薬師堂町にあり、長慶が住んでいた家に隣接する。
五十代桓武天皇の勅命により御創祀され、御祭神の井上内親王、
他戸親王、早良親王、伊予親王、藤原吉子、観察使、橘逸勢、
文屋宮田麻呂ら非業の最期を遂げた御霊を祀り、御霊を慰める
ための社です。時を経て元興寺の鎮守社としての役割をも持ち、
庶民に広く信仰され、奈良県一の氏子地域の氏神様です。


  

鳥居前の狛犬の足首には、“足留め”の紐が巻かれています。元の願いは
「家を出ていかないように、また家に戻ってきて欲しい」から変じて
現在は「縁結び」「恋愛」の神様として女性を中心に人気を集める。


話がちょっと寄り道しましたが、本殿の右奥に『夫婦戎大黒の百石

昭和14年の作で、山形三角形の巨石を富士山に見立て、戎大黒の夫婦が
家の中にいるように彫られ、向って右の大黒は米俵の上に、左の戎は
小舟の上に蹲踞された姿勢で睦まじく並ばれている。
右には小さな草深い所に庵、左に賛『祈夫婦和楽 家庭圓満』と線刻される

裏側は、碑文「無菴吉村長慶謹誌」で冒頭には
「この戎大黒石は吾が居宅の尻より発掘セル霊石なり。・・・」で大要は
「元興寺門内の尼寺跡から出た霊石で、6年前に嵯峨二尊院小倉山に
 隠遁して6年位なるけれども、喜寿に至りこちらに奉斎する。』
多分元興寺創建時の礎石の一つで、水谷川で取られた春日砥(かすがど)と
いう粘板岩とされる。

もう一つ、同じ昭和14年喜寿で『五葉松献木碑』が、でも松はない。
「吾が超命を記念し此の五葉松を献植す。東隣住人吉村長慶誌」

さあ直ぐ北隣の元興寺・塔跡へと回り込むと上街道沿いに小さな門が


道脇には『入口道標』があり「大正七年建立」と「元興寺」と刻印
 
その奥にも門、その前に住宅と接して『道標・三山呑倉』昭和3年建立、
『三山呑倉入口倉主宇宙菴』と実は吉村長慶の四字が消されている。
三山呑倉とは布教活動のため設けられた小講堂の名前(三山を呑みこむ
ほどの倉持という意味)で講堂に元興寺側から入れるように建てられた。


ちょっとここで寄り道、元興寺・塔跡へと足を踏み入れると、
江戸末期まで大塔・五重塔(推定55-57m)が建っていた跡、
大和図会より
10月16日では桜の紅葉はまだだったが、今は人も少なく穴場的かも




長居は出来ませんので・・・
十輪院へと東へ向かうと、道筋に吉村???と大きなお宅が・・
そして『十輪院』の重要文化財の南門から境内に入ると国宝の本堂が

その脇を抜け、南東側、魚養塚(なかいずか)の手前に『大日如来石』がある。
粘板岩製で昭和14年、長慶晩年の作、宝冠を載き、印を結ばれた女性的な
如来像が彫られ、下部には如来道を刻む。


如来はネックレスをつけ、二重円光をバックに座られ、姉様風で
その下に碑文があり「富人は富人の如く貧者に博愛施せ」と刻まれる。
この碑文は石面に直接長慶が下書きし、石工・新谷伝重郎信正がなぞり彫った。


訪れる方は少なく、前回の十輪院からも参考に
こんな風景も見られますよ。




次回は興福寺・南円堂から北側へ足を延ばし長慶寺まで歩きます。

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