◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

信濃川発電所材料運搬線(比較)

2021-11-30 17:35:36 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
 

どちらも一期工事の材料運搬線について書かれた資料の一部である。左が昭和10年、右が昭和14年。
具体的には以下に示す資料からの引用である。
鐵道省信濃川電氣事務所長 釘宮磐, 鐵道省信濃川水力發電工事, 工事画報 昭和十年七月号, 土木学会, pp.15
鐵道省信濃川電氣事務所(昭和十四年八月), 鐡道省信濃川發電工事概要及現況, 鐵道省, pp17

ここで私が注目したいのは、昭和14年の「鐡道省信濃川發電工事概要及現況」に示されている其他側線である。其他側線として軌間762mmの側線で4km200m、軌間1,067mmの側線が5kmと計上されている。



こんなにも長い側線がどこにあったのか、まったく見当もつかないのである。

なお、昭和14年の「鐡道省信濃川發電工事概要及現況」は私が持っている一期工事の資料としては最も最近のものだ。正直、私は一期工事当時の信濃川水力発電工事現場一帯の何処にそれだけの軌道を敷いたのかが見当もつかない。

特に1,067mmは本線と同じ軌間であり、主に変圧器や水車などの大型機器輸送に使用される線路だと認識している。そのため、その線路を5kmも必要とする現場があったのかが疑問となっているのだ。

以上、工事の進捗により材料運搬線も変化するという認識を整理するため、昭和10年~昭和14年の5年間でどういう工事が着工されていったのかを以下に示す。

昭和6年  4月 信濃川電気事務所 再設置          4月~ 堀越清六 初代所長
      8月 一期工事 着工 (第三隧道着工)
     12月 第一隧道 着工
昭和7年  3月 宮中取水堰堤 着工 第二隧道 着工
昭和8年  3月 宮中沈砂池 着工              4月~ 長屋脩 二代所長
昭和9年  6月 圧力隧道 放水路 着工           8月~ 釘宮磐 三代所長
昭和10年10月 千手發電所 着工
昭和10年11月 連絡水槽着工
昭和10年12月 鉄管路着工
昭和11年 6月 宮中取水堰堤 竣功
                          昭和11年7月~ 倉田玄二 四代所長
昭和11年 7月 調圧水槽着工
                          昭和14年7月~ 阿部謙夫 五代所長
昭和14年11月 一期工事竣功 千手発電所発送電開始
昭和15年 4月 二期工事着工

昭和10年~昭和14年までに新たに着工したものとして、千手発電所、連絡水槽、水圧鉄管、サージタンクが挙げられている。これ等の現場を全て結んだとしても、5kmにも満たない。工事の着工を整理した所で、やはり見当もつかないのである。
そのため、何か知見がある方のご意見を頂きたく、この記事をしたためた。軌間762mmの側線が4km200m、軌間1,067mmの側線が5kmの内訳はどうだったのか。

信濃川発電所材料運搬線(概要)

2021-11-23 23:23:23 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線


信濃川水力発電工事の資材輸送を担った材料運搬線は、3つの時期に分けて考えることで理解できる。
1.大正期(魚沼鉄道平沢駅~宮中間(762mm))
2.一期工事(十日町線十日町駅~千手発電所間(1,067mm)、十日町線十日町駅~千手発電所~石橋~小泉~浅河原~姿~宮中間及び石橋~信濃川電氣事務所間(762mm)、飯山鉄道越後田沢駅~小原詰所間(1,067mm)、その他支線(762mm))
3.三期工事(飯山線十日町駅~真人沢(市之沢)間(762mm)、上越線小千谷駅~小千谷発電所間(1,067mm)、その他支線(762mm))

材料運搬線とは工事に伴う資材の運搬を目的とした鉄道なので、水力発電工事の計画によって様相が変化する。鉄道省が計画着工した信濃川水力発電所工事でも材料運搬線が活躍した。しかし、その工事の期間の時間的長さ、工事区間の物理的長さがあいまって、分かりにくい。そのため、簡単に概要を話したいと思ったのだ。以下にそれを示して行く。

1.大正期
まず、最初に材料運搬線が敷設されたのは大正期である。これは大正8年頃から調査及び準備工事が開始された際に敷設されたもので、魚沼鉄道の平沢駅から分岐し、宮中まで工事が行われた。この時の信濃川発電所は一段発電で、越後鹿渡付近で取水し、小千谷発電所で発電するという計画であった。準備工事は大正11年にほぼ完成し、大正12年には少なくとも千手村付近までは線路の敷設や機関車の試運転も行われたと伝えられている。しかし、大正12年の関東大震災による影響で、水力発電所工事自体が中止となった。大正14年には信濃川電氣事務所も解散している。また、後の一期工事ではこの時の路盤の一部が再整備の上で利用されている。

2.一期工事
紆余曲折を経て、いよいよ昭和6年、信濃川水力発電所が着工された。工事の大枠として宮中で取水し千手発電所で発電、更に千手発電所で利用した放水を小千谷発電所でも利用する二段発電となった。また、鉄道の朝夕ラッシュという電力需要に対応出来るよう、浅河原と山本の二箇所に調整池を設ける計画となった。工程は一期・二期工事で宮中ダム~浅河原調整池~千手発電所~放水路、三期・四期工事で取水口~山本山調整池~小千谷発電所と四期に分けることも決定された。材料運搬のために沿線に軽便線が敷かれることも決定した。この軽便線の区間は大きく三つに分かれる。十日町線十日町駅~千手発電所間、千手発電所~小泉~浅河原~姿~宮中間及び小泉~信濃川電氣事務所間(千手村内)、飯山鉄道越後田沢駅~小原詰所間の三つである。この軽便線の敷設で特に大工事となったのは、十日町~千手発電所間の信濃川を渡る鉄橋の新設である。当時、当地の道路橋は木橋で信濃川の洪水により度々落橋していた。そんな時代にコンクリート石積製の橋脚を備えた永久橋として建設された。また、発電機や変電設備など特大貨物の入線も視野に入れて、軌間も設備も本線並の規格とした。更に、十日町~千手発電所間の軌間は1,067mmと762mmの三線軌条とされ、軌間762mmの千手発電所~小泉~浅河原~姿~宮中間及び小泉~信濃川電氣事務所間(千手村内)は十日町駅から直通運転を行っていた。また、飯山鉄道越後田沢駅~小原詰所間も1,067mmの専用線が敷設され、飯山鉄道から小原詰所へ引き込まれている。小原詰所とは宮中ダム建設地に設けられた詰所である。特に一期工事では宮中ダムの建設が最も困難な工事かつ発電開始のためには同ダムの完成が絶対だったこともあり、材料運搬も手厚くされたと考えられる。また、大正期の路盤跡を改修して整備されて来る762mmの軽便線も、沿線の工事の開始に間に合っていないことも背景にあるはずだ。越後田澤駅から小原詰所迄の距離も1kmちょっとと短く、専用線を敷設するのにもちょうど良い。同線が昭和6年の工事開始と共に現地の測量を開始され、すぐに整備されたことが宮中ダム工事にいかに貢献したかは想像に難くない。ここでは信濃川を渡る索道も設けられ、小原詰所~軽便線宮中停車場間を結んだ。これにより、軽便線開通により環状輸送路が確保された。

3.三期工事
三期工事の紆余曲折は改めてここでは書かない。戦時中に着工され、各種準備工事も細々とやりながら、各隧道も導坑をほぼ掘り終えて工事を休止している。本格的な着工は戦後、連合軍最高司令部の民間運輸局の許可を得て着工したものである。戦時中から既に資材輸送のメインは自動車に取って代わられ、三期工事で使用されたのは飯山線十日町駅~真人沢間(762mm)、上越線小千谷駅~小千谷発電所間(1,067mm)、その他支線(762mm)となっている。十日町~真人沢間(762mm)についても、大正期の軽便線の跡を利用しようと考えたものの、吉平・塩殿付近の荒廃が激しく断念した。同地は軽便線も河岸段丘の断崖絶壁を克服した区間ではあったが、特に荒廃が激しく、また冬期の雪崩等の対策と輸送上の不安材料が大きかった。また、魚沼橋の開通等の道路状況の改善により、自動車輸送が成り立つと考えられた。そのため、戦後の軽便線は真人沢水路橋の工事区までとされた。国鉄の資料では終点は市ノ沢とされているが、ここでは真人沢としている。真人沢とした方が理解しやすく、実際の材料運搬先として真人沢の水路橋以外に考えられない為である。軌間762mmの軽便線は数本の支線があったが、いずれも水路隧道の作業坑へ向かうものだ。現場付近の材料置場へ線路を引き込んだものである。そして、三期工事の材料運搬線で最大のものは上越線小千谷駅~小千谷発電所間(1,067mm)である。またしても、信濃川を渡る橋を架けた。これも当然、本線規格。重量物の搬入はまだまだ鉄道を利用するしかなかったのだ。なにしろ、小千谷の旭橋も、上流の魚沼橋も想定された重量物に耐えられない木橋である。こうして、三期工事では軽便線と自動車のハイブリッド体制で輸送に臨んだ。そして、信濃川水力発電所工事材料運搬線の最後の活躍の時代であった。四期工事の頃には自動車輸送がメインとなり、軽便線も鳴りを潜めるしかなかった。

以上、材料運搬線の概要である。工事時期によって変化する工事現場に対応するべく、材料運搬線は各時期で活躍した区間が変遷して行った事を示した。

【追々記】宮中取水堰堤工事(越後田澤驛~小原詰所)

2021-10-03 10:03:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線

鐵道省信濃川水力発電工事 釘宮磐 鐵道省信濃川電氣事務所所長 第2図 信濃川発電水路平面及縦断面図 工事画報 昭和10年7月発行 p10 より抜粋

上記は鐵道省の示す、当時の設備のポンチ絵だ。これを描いた元の地形図らしきものがある。


Interactive index to the map set for Japan 1:50,000 (Chikeizu). Green index grids indicate maps from this set that are in the Stanford collection and available to view and download, red grids indicate maps from this set that are not in the Stanford collection. http://purl.stanford.edu/sg202mf2661 スタンフォード大学のサイトで公開されている昭和6年の地形図である。信濃川の工事が始まる直前である。

私はスタンフォード大の公開している地形図に信濃川の痕跡を見つけられずがっかりしたが、よくよく鉄道省の資料と見比べてみた時に、アレ?と思ったのだ。



鐵道省の資料は地形図にポンチ絵を描いたものではないか?地名等の文字の位置も一致する。



ほぼ一致している。ここから、同地形図に描いたものと判断している。更に、信濃川のポンチ絵は昭和13年のものも公開されている。

 
鉄道省信濃川電気事務所に於ける圧力隧道内張鋼板工事に就て 佐藤豪,岡部幸四郎 図-1.水路平面図 土木学会誌 第二十四巻 第十一号 昭和13年11月発行 p1181 より抜粋

 
左が昭和10年、右が昭和13年。微妙に専用線の位置が違う。
なお、「架空索道」は昭和10年のポンチ絵にも描かれているが、私のポンチ絵では割愛している。昭和13年との比較でようやく読めるレベルの文字の潰れ具合だ。ただ、小原~宮中間の索道は昭和10年当時既にあったものである。

 
以上の地形図から、更に USA-R1338-75 や yahoo地図 上にポンチ絵を落書きしたものが上記二枚の図となる。紫色の線が昭和10年、橙色の線が昭和13年の図から想定される材料運搬線の位置だ。私は地図のプロでは無いから落書きと思って欲しい。昭和10年と昭和13年の図では「干溝」の文字が描かれている位置が異なっているものの、「沼」の描かれた位置は同じであるという前提で描いたポンチ絵だ。それにしても、信濃川電氣事務所が示している図にも関わらず、材料運搬線の位置がこうも異なっているのは意外だった。改めて比較してみて気が付いたに過ぎないが、明らかに違うことが分かる。

ここから考えられる水路平面図が示す材料運搬線の位置について、以下の2点が浮かぶ。
・概略図であるから、図の作成者や時期により図上の諸設備の描かれ方に多少のズレが生じる
・材料運搬線の線路の付け替え
上記2点が考えられる。

私は後者については否定的だ。線路を付け替える理由がなく、十日町新聞等にもそのような記述もなく、昭和10年~昭和13年の間に同材料運搬線に関する請負工事等の情報も無い。
まぁ、おそらく前者だろうと思われる。諸設備の位置を詳細に示すためのものではなく、おおよそここにこういう設備がありますよ程度のものだろう。概要が分かれば良いのだ。ましてや、材料運搬線は発電設備ではないから・・・。




ちなみに、私が USA-R1338-75 から材料運搬線の位置を推測してきた線を緑色で落書きすると上記のようになる。これまで本ブログで示してきたものである。比較すると昭和13年のものに近いか?くらいには言えようが、どちらにせよ正確な位置なぞ正確と言える資料がないのだから議論にはならない。それでもまだ、小原の専用線を解き明かしたい気持ちは萎えていない。ひとえに、戦後の空中写真ですらその痕跡が希薄で、廃線跡として当時の痕跡が残っていない区間、ですから。

【追記】宮中取水堰堤工事(小原詰所)

2021-09-15 21:16:56 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
本文は 宮中取水堰堤工事(小原インクライン) の追記となる。

そもそも、小原詰所は何処にあったのか。以下の記述を参考にしていく。

十日町新聞 昭和七年三月二十日
堰堤では日本一 宮中の堰堤に着工 栗原組も気込む
先般秋田の栗原組に落札した貝野村宮中地先堰堤の起工式は去る十六日栗原組によって現場で行はれいよいよ工事に着手、現場監督の鐵道省小田技師は田沢詰所詰となった。同工事は大規模の点において全国にその例がないので注目されてゐるが請負額六十一万五千八百圓で竣工期限は昭和八年十二月十五日である


上記、十日町新聞昭和七年三月二十日付の記事に出て来る鐵道省小田技師こそ宮中取水堰堤の担当技師である。
同氏は昭和7年2月から昭和11年8月まで信濃川電氣事務所小原在勤を命ぜられ、取水堰堤、沈砂池、水路隧道等の構造物築造の担当技師兼詰所主任である。昭和7年2月と言えば右岸部堰堤が栗原組に落札された頃であり、昭和11年9月には栗原組により宮中取水堰堤工事殉職者の慰霊碑が建立される。つまり、取水堰堤に関する土木工事について着工から完成にわたって小原詰所在勤として付近の工事を監督した人物だ。

そして、日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌.P84の1 に小田技師の寄稿した文章が掲載されている。そこでの小原詰所の記述は以下の通りである。



小原詰所は現場近くの田圃の中にあって行き止まりになっているから、ここに用のある人の外には誰も通らない。若い職員が多いから青春の気自ら都会にあこがれ、文化の匂を嗅ぎたがるものがあるが、文明の音としては轟々というミキサーとクラッシャーの音響以外に何も無い。従ってレジャーを楽しむためスポーツや、他の詰所との交際が盛んである。

まず、十日町新聞の田沢詰所とは小原詰所のことだろう。そして、その小原詰所は小田技師いわく「現場近くの田圃の中の行き止まり」にあるという。小原は越後田沢駅の北にあたる。そして、行き止まりとあるは、段丘面の端、段丘崖上の際にあったと考えられる。
更に、鐵道省東京電氣事務所(1940.3).信濃川水力設備要覧には以下の図が掲載されている。


鐵道省東京電氣事務所(1940.3).信濃川水力設備要覧 信濃川水力設備図

田澤専用線の終点、段丘面のきわにごちゃごちゃっと建物が描かれている。これこそが小原詰所だろう。段丘崖の真上に位置している。まさにインクラインの上の建物群が小原詰所と言えよう。
当然、小原詰所と言っても請負業者の栗原組の建物もあったろうから、具体的にどの建物が鉄道省の小原詰所の建物かも分からない。それは大きな課題ではなく、確かにあの辺りが小原詰所であったと言えれば私は満足だ。


なお、信濃川でのスポーツは野球、テニス、スキーなど多彩である。特に野球は地域対抗で、信濃川は詰所ごとにエントリーして地元チームと戦っている。時に信電チームは地域リーグで優勝したりしている。小原詰所チームがあったかは分からないが、貝野工事区チームや姿工事区チームも組まれるほどに野球は盛んだった。それは当時の十日町新聞でも戦績が記事になっており、この辺の信濃川掛の余暇の楽しみはおいおい書いていきたい。


そして、この信濃川水力設備要覧の信濃川水力設備図は私個人的にはツッコミどころがある。それは、本ブログでも度々出てきた十日町~千手発電所間の軽便線が描かれておらず、田澤~小原の軽便線が描かれている点である。本資料の刊行は1940年、つまり昭和15年の資料にも関わらず、十日町から分岐して千手発電所に至る専用線が描かれていない一方で、既に竣功して数年が経過した宮中ダムへ向かう田澤の専用線が描かれているのだ。昭和14年に千手発電所は発電を開始していたし、昭和15年は二期工事が着工された頃である。宮中ダムに残工事があったとしても田澤専用線はほぼ活用されていないどころか、下手したら線路すら剥がされて水田に戻っていてもおかしくない時期だ。あれだけ信濃川電氣事務所が各方面に示した信濃川を渡る十日町~千手発電所間の軽便線が描かれていないのはツッコミどころがある。描かれていない理由は分からない。そもそも計画段階の設備が描かれている一種のポンチ絵だろうというのは、二期工事着工前の資料なのに二期水路隧道が描かれている点からも判断できる。あくまでポンチ絵。しかし、田澤専用線の終点、段丘面のきわにごちゃごちゃっと建物が描かれている。これこそが小原詰所だろう。


信濃川発電所三期工事(材料運搬線:小千谷駅~小千谷発電所間)

2021-08-15 08:15:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線




出展元,USA-R446-48 撮影年月日 1947/11/01(昭22),地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院

米軍撮影の戦後の小千谷付近の空中写真を冒頭に示す。今回は、この写真に写っている小千谷駅~小地谷発電所間の材料運搬線について改めて机上調査を行った。なお、現地調査については「信濃川発電所 専用線」などで検索すれば先輩諸氏の現地調査レポートが出て来る。信濃川発電所工事において、小千谷が関係してくるのは小千谷発電所を建設する三期工事以降、三期工事の本格着工は戦後昭和23年8月である。にもかかわらず、昭和22年当時の写真に三期工事に向けた専用線が上越線(東)小千谷駅から伸びているのである。信濃川右岸は線路の様子がはっきりとしており、停車場や材料置場のような広場も見られ、信濃川には橋脚のような物が残され、左岸部でも盛土によるスイッチバック構造が見て取れる。まるで「工事中」とばかりの様子だ。

実は戦中の昭和19年3月に三期工事は一度着工されている。しかし、この戦中の三期工事は郷土史などでも資材・人員の枯渇によりすぐに工事は中止となったという程度の記述のもので、大した工事は行われていなかったと推測していた。実際、着工から約一年後、翌昭和20年2月には三期工事は中止され、再着工は戦後の昭和23年8月を待たねばならなかった。以上の認識で私は考えていたから、冒頭写真が撮影された昭和22年11月時点で材料運搬線が完成間近の様子であることに違和感を感じていたのである。

三期工事については、日本国有鉄道信濃川工事事務所〔編〕信濃川水力発電工事誌に詳しい。改めて三期工事について同書で調べてみた所、以下の様に書かれている。

  (前略)信濃川発電第3期工事は、太平洋戦争中軽金属増産に寄与するため、2箇年完成の目標の下に
  昭和19年3月一斉に工事に着手したが、戦局不振のため資材が続かず、戦力培養工事なる名目の下
  に辛うじて命脈を保っていたが、間もなく工事を中止し昭和20年2月工事請負契約を解除した。
   終戦後昭和21年10月25日、失業救済の名目の下に工事を再開したが、これ叉時期尚早の故を以て
  翌22年4月再中止の已むなきに立至った。
   しかし乍ら第3期工事の完成は、終戦後漸次立直って来た東京近郊の輸送を賄う上で、国鉄とし
  ては欠くべからざるものであったため、関係方面とも種々折衝を重ねた結果、昭和23年8月2日に
  認承を得て、昭和23年10月20日に工事に再々着手した。
   その後工事は比較的順調に進み3箇年弱の工期で、山本調整池以外の工事は総て竣功し、昭和
  26年8月1日50,000kWの発電を開始した。

  日本国有鉄道信濃川工事事務所(1952.3). 信濃川水力発電工事誌.P2

これによって、三期工事は戦中に二回も着工と中止を繰り返していることが分かった。そして、終戦から約一年後の昭和21年10月に二度目の着工を迎えながらも、僅か半年後の昭和22年4月に再度中止となっている。昭和22年11月に撮影された上記空中写真における材料運搬線に「工事中」感があるのは、この二度目の着工当時に昭和22年4月まで材料運搬線の工事も進められていたからなのだろうか。更に材料運搬線に関する記述を引用する。

  この下部構造は昭和19年1月工事に着手したがその後種々の情勢の変化により昭和20年2月解約
  し昭和21年9月再着手、同23年打切り竣功にし昭和23年10月3度目の着手で同24年漸く竣功したの
  である。これに引続き上部構造の鉄桁架設に着手下路構桁2連はケーブルエレクションによつて又
  鈑板6連は手延式により何れも順調に進行して同年7月竣功した。

  日本国有鉄道信濃川工事事務所(1952.3). 信濃川水力発電工事誌.P549

これにより、発電工事全体と材料運搬線の工事時期に数か月のズレがあるが、三期工事として昭和19年~昭和20年、昭和21年~昭和22年、昭和23年~と着工と中止を繰り返していたことが分かる。
特に「昭和21年9月再着手、同23年打切り竣功にし」という記述から、戦後から一年ちょっとで二回目の工事着手があったことが分かった。上部構造を橋桁のことを言っていることから、下部構造とはおそらく路盤や橋脚のことだろうと推測される。二度目の着工自体は「翌22年4月再中止」とされているため、材料運搬線の工事がその先の「同23年打切り竣功に」するまで行われていたかは定かではない。仮に「同23年打切り竣功に」するまで工事が細々とでも行われていたのだとしたら、上記空中写真の昭和22年11月撮影時に工事を進行させていたと言えるし、私が感じた「工事中」感もあながち間違ってはいないと言える。

更に、この戦争終盤から戦後にかけて採算着工中止を繰り返された三期工事については、日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌に当時の工事関係者の手記が残されている。それらの記述から、当時の状況を垣間見ることができる。仮説に少しでも肉付けしたいため、当時の状況を示した部分をいくつか引用したい。

  阿部謙夫(5代所長、昭和14年7月~昭和20年5月)
  (前略)第3期工事は戦時中、隧道、水槽、鉄管路、発電
  所基礎、放水路の工事に着手し、隧道は導坑はほゞ全線貫通したが、戦争の形勢不利となり、国内
  情勢も工事の進行を許さなくなったので遂に中止した。その後その出来高払の決定が厄介であっ
  た。それは、戦争の終り頃は、物価が日々に上昇する故、一応定めた単価が、10日位たつと、極め
  て不合理なものの様に思われ、果しがなかったからである。最後に施設局長室の会議で、自分が悪
  者になって、この問題に終止符をうった様に記憶する。

  日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌.P32

  伊集院久(6代所長、昭和20年9月~昭和21年)
  (前略)信濃川地方施設部は第2期工事を既に竣功し千手発電所は送電を開始しておりました。尚残工事
  がありましたので跡仕末程度の工事を続け一方第3期工事は着々として準備せられ一部無理乍ら着工した
  箇所もありましたが、太平洋戦争のため11月中止に決定致したのであります。従って私の在任中は見るべ
  き工事もありませんでしたが国鉄関門隧道は勿論のこと当信濃川水力発電工事も続行すべしとの意見もあ
  り内々準備的工事は進めたのであります。21年秋頃から再着工となりましたが私は本格着工を見ずして
  下関地方施設部へ転勤を命ぜられたのであります。

  日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌.P33

  岡本港(7代所長、昭和22年4月~昭和24年6月)
  (前略)昭和22年~24年といえば、敗戦の傷手が最も身にしみた時で、何かと戦後の虚脱状態からはい上
  がろうともがいているのに、一方引揚者は益々増して来るし、食糧問題は深こくで、好転の兆しは見えそ
  うも無かった。例の2月1日のストライキは時の至上命令で中止になったが、了解に苦しむ様な事件が相つ
  いでおこり、何時如何なる事態に立ちいたるか、誠に暗たんたるもので、しかもこれに対して何等するこ
  となく、ただ手を拱いてじり貧になって行くのを待っているような情ない有様でした。
   時の鉄道は連合軍最高司令部民間運輸局(C.T.S.)の督監下にあり、占領軍の進駐に必要な以外はすべて
  禁止で、線路も道路も戦争のために破損した所を必要最小限度に復旧することだけが辛うじて許された。
  又このC.T.S.はなかなか頑固で、或時鉄筋コンクリート桁にゲルバー式を持出した処。何としても許可に
  ならない。考えて見れば米人のきらう独逸式の設計を持出したことはうかつといえば、うかつだったかも
  しれないが、これを許可しなかった頑固さは相当のものだ。それよりも之を納得させるには少なからぬ勇
  気が必要だったのは今にして思えば笑止の沙汰であります。
   以上の様な状況の下で、当時あらゆる公共事業にさきがけて、信濃川第3期がよく着手までこぎつけた
  ものだと思います。当時の電気局、施設局の方々に敬意を表します。後からきいたことですが、事実C.T.S.
  に対して、戦災復旧に明け暮れしているようなことでは、何時になっても、日本の鉄道はたちなおらない。
  建設も改良もない鉄道は結局消えて行くのを待つ様なもので、今新規工事を着手するとすれば信濃川第3期
  工事が、最も手つとり早く、直ちに効果がある。というわけで、或は頑強に抵抗し、或は哀訴嘆願したこ
  とは、当時の様子を知っているものでなければ、想像することもむつかしい事で、現在脚光を浴びている、
  東海道新幹線を着手するよりも、ちがった意味の困難性があったわけです。

  日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌.P34

上記、戦中から戦後にかけての3人の所長の手記からも、当時の工事の困難が伺われる。その中で、6代所長の記述に気になる点がある。戦後すぐに着任した同氏であるが、その中に「当信濃川水力発電工事も続行すべしとの意見もあり内々準備的工事は進めたのであります。21年秋頃から再着工となりましたが私は本格着工を見ずして下関地方施設部へ転勤を命ぜられたのであります。」という記述がある。この方はまさに「終戦後昭和21年10月25日、失業救済の名目の下に工事を再開した」時の信濃川事務所所長だ。そして、「内々準備的工事は進めたのであります」とある。この内々に進めた準備的工事がどの期間で行われていたのかは一切分からないが、準備工事が第三期工事着工・打切とは別な時間軸で進められていた可能性を示唆している。準備工事とはあくまで附帯設備の工事のことであり、今までの信濃川水力発電所工事でも材料運搬線の工事は準備工事の一つとして紹介されてきている。これらのことから、二度目の三期工事が「翌22年4月再中止」とされているものの、小千谷駅~小地谷発電所間の材料運搬線についてはその先の「同23年打切り竣功に」するまで細々と行われていた可能性は十分にあると考えられる。〇期工事と言われているものは、あくまで水路隧道や発電所などの大規模な工事を指すものであって、その陰で準備工事等の工事は細々と続けられていたと考える方がしっくりくる。戦争に翻弄されながら、鉄道も信濃川の面々も来るべき再着工の希望を捨ててはいなかったはずであるから、三期工事再着工のために準備工事を進め、いざ再着工となった際にすぐさま工事に取りかかれる環境を整備しておくことはあり得る話だと思う。




最後に。上記空中写真では、左岸部(小千谷駅側)の軌道路盤上に、トロッコのような四角い物が3つ連なっているのが見て取れる。これが何なのかは分からないが、何らのものが軌道上路盤上にあるのだ。
まさか、工事が行われていない状態で放置されたものでも無かろうが、真相は私には分からない。