◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

宮中取水堰堤の下流にて

2021-07-24 07:24:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線






右岸堰堤の一部が立ち上がった工事現場を視察に来た工事関係者。 出典元:十日町市・中魚沼郡(川西町・津南町・中里村)・松代町・松之山町,十日町・中魚沼・松之山郷今昔写真帖 保存版,郷土出版社,2002年09月


私はこの日、宮中ダムを改めて観察しに来た。7月の午前中の太陽光が橋脚にどういう当たり方をするのかを確認したかったこともある。そして、段丘崖を降りて河原から見上げるような宮中ダムを感じたかった。それだけ。

しかし、河原に降りた瞬間に、まさかというものが転がっていた。



どう見ても、軽便レールである。宮中ダムの直下に、軽便レールが転がっているのだ。半信半疑で近づく。

 



どう見ても軽便レール。錆に錆びて側面に記されるはずの由来を示す刻印なども残っていないが、このレールの細さは軽便レールだ。
もっとも、これが工事専用線のレールかどうかは分からない。現場のトロッコ軌道のためのレールもこれくらいのレールを使用しただろう。むしろ、そっちの方が可能性が高いかもしれない。判断する材料がない。とは言え、こんな場所にレールが転がっている理由として、堰堤工事に関係したものであろうことは想像に難くない。いつ、どういう経緯でこの河原に打ち上げられたのかも分からないが、おそらく鐵道省の工事関係で使われたものだろう。なんにせよ、宮中で鉄道や軌道を想起させる材料としてのレールを見付けたことが嬉しい。

宮中取水堰堤工事(小原インクライン)

2021-07-23 07:23:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
これまで、宮中取水堰堤右岸工事における小原詰所から信濃川右岸河原までの河岸段丘はインクラインで克服したことを紹介してきた。
そして、その輸送設備は確かに宮中ダム右岸部段丘崖の斜面にあったのだ。以下に、その根拠を示していきたい。

 

 
出典元(いずれも):栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月


これまで、宮中取水堰堤右岸部工事における小原のインクラインについて、私は大体の位置は推測してきたものの、正確な位置は示せていなかった。
これまで小原のインクラインに関係する記事投稿当時の私が知っている所は以下の記事でまとめている。

信濃川発電所材料運搬線 一期・二期工事時代まとめ

記事中盤の ・越後田沢駅~小原までの材料運搬線について の辺りを見てみて欲しい。

改めて当時の材料運搬ルートを紹介すると 飯山鐡道越後田沢駅→小原専用線→インクライン→取水堰堤右岸 となっていたようである。これまで、出来るだけの資料を探してきたが、このインクラインについては記述として残っている資料を見付けられていない。小原のインクラインとして紹介されている写真だけが残るのみで、それを元に段丘崖に設けられていたであろう小原詰所から信濃川河原の右岸部堰堤工事現場へ材料を降ろす設備として妥当な位置だろうという程度の推測で紹介してきた。
まったく、雲を掴むような話で、設備自体は写真が残っているから存在したことは確かだろうという程度が正直なところなのである。鉄道省が各工事段階で土木学会誌等で発表していた記事の材料運搬諸設備の項にも記述が無く、現地でそれらしき痕跡も無く、いったいどこにあったのだろうかと常に後ろめたさが付きまとう設備なのだ。そもそも、小原にインクラインがあったのかという存在自体を疑うべき状況だ。当然、郷土史などでも宮中取水堰堤工事の写真はかなりの枚数が紹介されており、その中から右岸部を写した写真の段丘崖は舐めるように探したが、それらしきものは見出せていなかった。

そうした霧の中を進むような小原のインクラインの調査であるが、私は以下の資料を手に入れた。

「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」 栗原組 昭和12年刊行

栗原組が昭和12年に刊行した写真集である。唐突に出てきた栗原組とは、まさに宮中取水堰堤の工事を起工から竣工まで鉄道省から請負った業者である。栗原組の請負については鉄道省の入札を経て契約されている。宮中取水堰堤工事の入札について十日町新聞等で伝えられているから以下に紹介しよう。

・右岸部工事請負
十日町新聞 昭和七年二月十五日
信電堰堤工事 栗原組に落札 六十一万五千八百圓で 竣功期間廿一ヶ月
鐡道省信濃川発電工事中大規模な工事の一つである田澤村地内における信濃川堰堤の右半分の工事請負入札は指定入札で十日行はれ六十一万五千八百圓で秋田栗原組に落札した。竣功期限は着手より二十一ヶ月間で入札者は栗原組、大倉組、飛島組、鐵道工業、高鳥組、鹿島組等で最高は六十八万四千七百圓であった。


十日町新聞 昭和七年三月二十日
堰堤では日本一 宮中の堰堤に着工 栗原組も気込む
先般秋田の栗原組に落札した貝野村宮中地先堰堤の起工式は去る十六日栗原組によって現場で行はれいよいよ工事に着手、現場監督の鐵道省小田技師は田沢詰所詰となった。同工事は大規模の点において全国にその例がないので注目されてゐるが請負額六十一万五千八百圓で竣工期限は昭和八年十二月十五日である



・締切工事請負
十日町新聞 昭和八年十一月十日
信濃川 締切工事 愈々来月から着手
一昨年三月以来栗原組請負の下に鋭意工事をすゝめてゐた信濃川発電所取入口右岸部堰堤工事は大体竣工したので信電事務所では左岸部折半の工事にかゝるべくその前提として本流〆切工事をこの程三十四万七千八百圓で栗原組に請負はしめた。栗原組では来月から工事に取りかゝることになつてゐるが名に負う大川信濃川の川瀨全部を現在出来上りつゝある右岸部溢流堰堤に移し現在の川瀨は完全に断水させやうと云ふ工事で信電工事中の難物の一つと見られてゐる



・左岸部工事請負
十日町新聞 昭和九年十一月廿日
左岸部堰堤 請負不調 豫算超過で
信電工事中本年最終の大ものとして土木業界から注目されてゐた田澤村地内信濃川取水口左岸部堰堤工事の請負入札は十八日信電事務所内で行はれ指名入札者は大倉土木、佐藤組、飛島組、西松組、星野組、栗原組の七名にして栗原組が最低であったが豫算超過の廉で不調に終り信電では本省へ指令を仰いだ


十日町新聞 昭和九年十一月卅日
堰堤工事 再入札 また豫超で不調!!
鐡道省信濃川發電所取水口左岸部堰堤工事の再入札は前回同様栗原組外六組を指名、去る二十七日行われたがまた〱豫算超過のかどで不調に終わり信電事務所では再び本省へ指令を仰ぐことになった
去る昭和六年信電着工以来五十万圓以上の工事の請負に附されたものは前後九ツあるが豫算超過で不調となった前例はない。同所は川瀨は新設の溢流堰堤に移されたが舊川敷の上へ堰を造るもので信電の成否がかゝると云ふ程重要性を帯びる工事だけに経費もかさみ請負業者も工費を相当高くつくと見てゐるらしい


十日町新聞 昭和九年十二月五日
問題の堰堤工事 六十五万三千圓 栗原組請負ふ
鐡道省信濃川發電所取水口左岸部堰堤工事は既報の通り栗原組外六名を指名、二回にわたって入札を行ったが豫算超過のかどで不調になったが鐡道省では最低入札者の栗原組と協定し六十五万三千圓で同組と工事施行契約をなした


以上により、各入札を経て堰堤部工事の全域について栗原組が請負ったことが分かる。
右岸部 六十一万五千八百圓 栗原組
締切  三十四万七千八百圓 栗原組
左岸部 六十五万三千圓   栗原組(豫超)
計   百六十一万六千六百圓

工事規模の参考までに、以下に主な工事の請負金額と業者を示す。
沈砂池  九十九万八千圓 佐藤工業
浅河原調整池 直轄
壓力隧道 上部 直轄
     中部 三十六万三千圓 鹿島組(豫超)
     下部 四万一千圓 大倉組(豫超)
水圧鉄管基礎工事 三十一万五千八百圓 大倉組
發電所基礎工事 四十七万七千圓 大倉組(豫超)
發電設備 四百万圓 日立製作所 
放水路  五十九万五千圓 西本組

これ等を比較すると、宮中ダムの工事の金額はかなり大きいことが分かる。金額が分かる限りで比べると、発電機等を据える発電設備の金額にこそ及ばないまでも、取水堰堤工事には相当な請負金額が組まれたことが分かる。
また、土木学会誌にも、当時の主な工事請負業者が記載されている。


信濃川電氣事務所(昭和8年) 鐵道省信濃川發電工事概況 土木学会誌 第十九巻 第五号 昭和8年5月発行 p411

私は栗原組について詳しくないが、秋田県の会社で各地で鉄道建設を請け負っていた業者のようである。ネットで調べたところ、栗原源蔵氏なる方は昭和8年に秋田県建設協会の初代会長に就任する程の人物だったようだ。
また、いずれの業者も今に至るまで名前を聞いたことがあるようなゼネコンが請負っている。

なお、宮中ダム工事は大きく三段階に分かれており
一、右岸部工事 右岸部締切、無溢流堰堤、魚道、右岸部溢流堰堤
二、左岸部締切 信濃川左岸部の流れを締切り、先に完成した右岸部溢流堰堤へ河水を流し、信濃川の左岸部を締切る
三、左岸部工事 残る左岸部溢流堰堤
の三段階から成る。
これは請負入札もその様になっていたことが十日町新聞の記事から分かる。各工事で順を追って請負入札を出している。一つのダムに対する工事の入札としてよくある請負の形なのかは私は分からない。請負ったは良いが業者にケツをまくられるリスクを考えてのことなのか、鐵道省としても前代未聞の工事のため設計や工事進捗、予算などを睨みつつ各段階で分けたのか、私はその理由が書かれた資料を確認していないので分からない。とにかく、同堰堤工事の竣工が鐵道省信濃川発電所一期工事における発送電開始の時期を決定し、一期・二期工事の中でも浅河原調整池に次ぐほどの大規模で困難な土木工事であった。それを請負ったのが先の栗原組である。今回紹介する資料は、その栗原組による宮中取水堰堤竣工記念写真帖に掲載されている写真であり、冒頭の写真も同写真帖のものだ。

前置きが長くなったが、その写真帖に掲載されている写真を紹介していこう。


インクライン(諸材料捲下シ) (昭和7年6月10日) 出典元:栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月

これまでも紹介してきた、郷土史に掲載されていたインクラインの写真である。そして、郷土史で「小原小丸山のインクライン」程度に紹介されていたに過ぎない設備だったが、栗原組の堰堤工事写真帖に掲載されていることで、宮中ダム工事の現場にインクラインがあったことの確度がぐっと高まった。私が先に述べた”そもそも、小原にインクラインがあったのかという存在自体を疑うべき状況。”を脱することが出来た瞬間である。

 
溢流堰堤根堀鐡矢板打込及無溢流混凝土ヲ望ム (昭和7年11月2日) 出典元:栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月

そして、見える。段丘崖の斜面をまっすぐ河原へ降りて行く線が。間違いなくインクラインだ!まだ堰堤も無溢流堰堤の心壁コンクリート(混凝土)しかないが、インクラインの位置も確定した。無溢流堰堤の数十メートル上流方の位置に設けられたことが分かる。堰堤とは付かず離れずという位置で、材料を降ろして集積するだけのスペースを設けてそうだ。現在、河原の建物群があった場所は野球場になっているが、その野球場の三塁ベースの辺りにインクラインの着地点があったのだろうと推測される。参考までに現地の写真を以下に示す。

 

 

上の写真は無溢流堰堤上でダム本体(信濃川)を背に右岸部を撮影したものである。ポンチ絵は参考として、この辺りにインクラインがあっただろうというのを示したものだ。なお、私は現在の斜面に同設備の痕跡を見付けることが出来なかった。当時の写真を見る限り、インクラインはガチガチのコンクリート構造物で固められていた様子もないため、軽便線の橋台のように遺構と呼べるものの存在はかなり望み薄だろう。更に、インクラインがあったと思しき斜面は道路脇に3m近いコンクリート製の擁壁が築かれており、写真右手の上流側の斜面に至っては後年になってかなり手が加わった地形なのが明らかである。

 
左岸高台ヨリ溢流堰堤締切ヲ見ル (昭和7年12月19日)  出典元:栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月

昭和7年11月2日から更に一カ月半後の写真である。最も大きな変化は、本格的な積雪期を前に、インクラインはスノーシェッドで覆われた!輸送路をスノーシェッドで覆って、冬期も工事を進める気満々である。信濃川では他にも軽便線などにスノーシェッドを設けて冬期間に備えていた現場があることは分かっているので、ここも積雪期対策を施したものと考える。また、この宮中ダム工事は特に冬期の工事が肝となる。というのも、冬期は信濃川の水が減るからで、信濃川の水量が低下する時期に合わせて、現場を川から締切る計画だからだ。それを反映してか、この写真では締切区画から信濃川へ排水している様子が観察できる。更に、段丘面上の小原詰所の建物群もかなり大きなものが建築されていたことが分かる。


右岸部堰堤工事場夜景 (昭和8年3月8日)  出典元:栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月

輸送手段も確立され、冬期も昼夜兼行で堰堤工事は続けられた。夜間も煌々と照らされる現場は、当時の当地の住民にはどのように映ったのだろう。

 
左岸ヨリ右岸部堰堤工事場ヲ望ム (昭和8年11月7日)  出典元:栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月

更に夏を経て秋。右岸部堰堤もかなり形になっている。そして、構造物が形になったことでインクラインの位置がより鮮明になった。ここまでくれば堰堤上の道路の少し上流方にあったことが分かろう。工事に関して言えば、右岸部堰堤の大部分はほぼ完成している。これより、左岸部締切を行い、工事の中心が左岸部堰堤へと移っていくのは先に紹介した十日町新聞の記事での請負入札の状況を見ても明らかである。

 
右岸部堰堤工事場ノ積雪 (昭和9年1月31日)  出典元:栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月

しかし、三ヶ月もしない内に積雪期に突入し、そして雪に埋もれたにしてはインクラインはスノーシェッドを含めて所在が分からなくなった。これだけの積雪があるとは言え、スノーシェッドがあればもう少しそれらしい様子が分かると考えられる。しかし、それらしき雰囲気が見られない。冬期も昼夜兼行で行われてきた右岸部工事であったが、とうとうそれも一段落したということだろうか。インクラインは主要な輸送手段ではなくなったのかもしれない。だとすると、僅か1年半の活躍だったのか。判断材料に乏しいが、思ったよりあっけない最後だったのではと思う。その後、どうなったのか。

 
左岸堰堤第五號「エプロン」混凝土施工(第一回) (昭和11年5月10日)  出典元:栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月

更に2年ちょっとが経ち、左岸部工事が本格化した頃、インクラインは跡こそ残っているが荒廃しているように見える。昭和9年時点で雪に埋もれていたので疑ってはいたが、既に輸送的使命を失ったか、かなり限定的なものとなったのだろう。左岸部工事となれば、千手・小泉方から通された軽便本線での輸送がメインになることは必然であろうから、輸送の主体がそちらに移っていても疑いはない。なお、無溢流堰堤に直結するようなスノーシェッドが現れているが、詳細は不明だ。輸送設備と言うより、詰所と現場を結ぶ歩行者用の階段のようなものだと考えている。この数年で段丘崖上の小原詰所の建物群はむしろ増えているように見えるが、それらが撮影時点で有効に活用されている施設かどうかは分からない。あくまで写真から分かるのは建物があったということまでであり、施設の使用実態までは分からないからだ。一方で、なかなか詰所の詳細は工事には直接関係がないために資料に乏しく調べにくい話題なので私は分からない。もっとも、詰所と輸送系統が必ずしも一致するものでもないだろうからということで、ここで深く掘り下げることはしない。ここで言いたいのは、左岸部工事の時期になると小原のインクラインも役目を終えている感があることだ。
ここまで書いておいてなんだが、宮中堰堤工事の輸送の主体が軽便本線に移ったとしたら、これまで軽便本線に執心していた私としてはいよいよ軽便本線の本領発揮かと喜ぶべきだろう。しかし、一方で飯山鐡道から分岐する田澤専用線と小原詰所からのインクラインが役目を終えたような様子には寂しさを覚えるのも事実だ。工事の輸送路としての役割に過ぎない鉄路に対する哀愁というか、あくまで事務的に輸送路としての役割を終えたら線路を剥がされる。


鐵道関係者の視察も活発に行われており、特に取水堰堤視察時の写真は気にして観察していた。どこかにインクラインが写っている可能性があったからだ。


右岸堰堤の一部が立ち上がった工事現場を視察に来た工事関係者。 出典元:十日町市・中魚沼郡(川西町・津南町・中里村)・松代町・松之山町,十日町・中魚沼・松之山郷今昔写真帖 保存版,郷土出版社,2002年09月

十日町市・中魚沼郡(川西町・津南町・中里村)・松代町・松之山町,十日町・中魚沼・松之山郷今昔写真帖の写真の撮影は昭和八年ではあるが、それ以上の詳細は不明。あくまで私が写真の観察をして、同写真における背景の山の植物や陽射しから夏のように見える。昭和八年の鉄道関係者の視察の中でも、夏に宮中ダムを訪れたことが確認されたのは昭和八年七月三十日の久保田鐵道次官一行の視察なのである。主なメンバーは久保田鐵道次官、飯田電氣局長、黒河内工務局長(大正期の信濃川電氣事務所所長)、木村仙鐵局長である。この時の行程は十日町新聞でも記事になっている。


十日町新聞 昭和八年八月五日 信電明年度豫算 四五百万圓か 私鐵乗入は根本策考究中 久保田次官は語る
上記は十日町新聞に掲載された鐵道次官の現地視察の写真である。十日町新聞にその時の記事が掲載されており、郷土資料に掲載されている写真と、十日町新聞記事から読み取れるその時の一行の行程を下に記す。

この記事に記されている一行の行程は早朝に自動車で長岡を出発、八時半に十日町来町、直ちに田澤村に赴き、越後田澤駅から小原詰所までモーターカーに便乗し、右岸部堰堤、沈砂池を視察とされている。8時半に十日町に着いて直ちに田澤村に赴いたのなら、宮中ダムの視察は9時~10時くらいになろう。一方で写真から判断すると、堰堤の橋脚部を見るとほぼ真正面に日を受けている。堰堤は南東を向いており、こちらを向いている橋脚左側にも若干日が当たってそうなので(影になって黒く潰れていないので)、橋脚の真正面より北側に太陽があるのだろう。これ等の条件から、少なくとも午前中の早い時間に現地を訪れたことが分かる。なお、1933年7月30日10:00の太陽は高度約50°(48°)、方位約100°(104°)である。以上の条件に当てはまるのは、やはり昭和八年七月三十日の久保田鐵道次官一行の視察である。なお、この他の鉄道関係者の視察で確認できたものは同年十一月のものであるから、光線的にも植物的にもそちらではないだろうと考えている。

なお、十日町市・中魚沼郡(川西町・津南町・中里村)・松代町・松之山町,十日町・中魚沼・松之山郷今昔写真帖の写真に注目頂きたいのは、左端に少しだけ写っている段丘崖の斜面に沿う設備である。実は私はこの写真を見た時に、これこそがインクラインだと考えていた。それは栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月の写真の数々を確認する前であったので、確証がなかった。そもそも、インクラインにしては線が太いのだ。これらの経緯を踏まえた上で、栗原組の写真帖に載っている写真を確認したところ、昭和八年当時のインクラインはスノーシェッドを被っていたことが分かったのだ。まさに私の疑問が氷解した気分だった。この写真に微妙に写っている施設もインクラインで、線が太いのはスノーシェッドで覆われていたためだったのである。

 
参考までに、現在の7月中旬の午前8時頃の宮中ダムの写真を示す。太陽はまだまだ東(左岸部)の空にあり、2時間後にも橋脚の左岸部側に太陽光が当たっているだろう。これにより堰堤橋脚部に当たる光線から推測した時間帯もあながち間違ってはいないと考えられる。そして、インクラインは無溢流堰堤(魚道の奥にある盛土部分)は向う側にあったことが分かった。


結論として、宮中ダム右岸の小原にあったとされるインクラインは何処にあったのか?という、私の数年間の疑問は請負業者栗原組の写真帖に掲載されている写真より判明した。小原詰所から右岸部工事現場に至るインクラインは、無溢流堰堤の上流部に設けられていたのだ。鐵道省は上越線・十日町線・飯山鐡道を経由して越後田沢駅から分岐した鐵道省信電専用線で運ばれてきた工事用資材は小原詰所に集積され、インクラインで信濃川の段丘崖を克服し捲き下ろされ、右岸部工事現場に至ったのである。


以下は信濃川水力発電工事の資材輸送を調べる上では余談になる。
現代の小原詰所跡の写真を示す。約90年前には、この平場に小原詰所の建物がひしめき合っていた。かつて、当時の信濃川水力発電工事の最重要工事区が設けられた、段丘面上の平場である。なお、ここには昭和12年に請負業者である栗原組が建立した慰霊碑がある。また、参考までに、インクラインがあったろう位置にポンチ絵を描いておく。

 

 

 


今も公園として整備され、請負業者の栗原組が建立した慰霊碑が残っているのが歴史の繋がりを感じる。なぜ歴史の繋がりを感じると言いたいかというと、栗原組はこの慰霊碑の建立に当たって三百圓を基金として田澤村に寄付し、利子でこの慰霊碑を維持して欲しいとしたからである。未だにこうして草が刈られて公園とされていることとその基金が繋がるかは分からないが、将来に亘ってこの施設を造る際に生じた犠牲を伝えて欲しいという思いは繋がっているものと思われる。
慰霊碑建立の経緯は、昭和11年9月に栗原組が関係者からの寄附による慰霊碑の建立を決定し、田澤村に維持基金として三百圓を寄付した。当初、栗原組組長栗原源蔵氏は自費で慰霊碑を建立しようとしたところ、組員七十九名の寄付金は合計で四千三百圓にも上ったようだ。そして、昭和12年8月10日午前10時から関係者及び遺族を参加者とした慰霊碑の除幕式及び追悼祭を催行した。延八十万人の人夫を使役してて完成した宮中取水堰堤の完成の裏で犠牲となった二十一名の霊祭供養を将来に亘って約束したのである。今も例祭が行われているかは分からないが、現地の慰霊碑建立の経緯は以上の通りとなる。
(なお、慰霊碑に関わる金額や犠牲者数は当時の十日町新聞の記事による)


出典元:栗原組「鉄道省信濃川発電堰堤工事 竣工記念写真帖」,北越新報社,昭和12年8月


2021年7月某日撮影


宮中取水堰堤について、特に輸送手段であるインクラインについての話であった。ここまで書く上で、宮中取水堰堤工事は輸送手段以外にも余談として書きたいことが多すぎるくらいに濃い話が多い。それらも書きたいのが私の現状の気持ちである。そのため、まったく鉄道や輸送に関係ない部分で、今後も宮中取水堰堤工事に関する記事を書くこともあるだろうことをここに断っておくし、本記事も特に断りも無く必要に応じて訂正を行う場合があることを承知していただきたい。



(除雪作業風景)信濃川発電所材料運搬線

2021-06-28 21:06:28 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
「信濃川水力設備要覧 鐡道省東京電気事務所 昭和十五年三月二十日発行」より、更に写真を紹介する。なお、必要に応じて私がトリミングを行っている。


材料運搬線の除雪も、人夫を使っての人海戦術である。キャプションには、”材料運搬線除雪”程度にしか書かれていない。

豪雪地域故、軽便線の沿線は冬になれば数メートルは雪が積もる。なお、軽便線は積雪期は運休となっていたようで、4月下旬に運転を再開していたようである。というのも、十日町新聞でも冬期は軽便線が運休で十日町からの通勤もバスによることを伝える記事や、毎年四月二十日前後に軽便線客車列車の運転時刻が掲載されていたからだ。圧倒的な降積雪を前に、軽便線による冬期輸送は考慮されていなかったようだ。軽便線が冬期は運休というのは、戦後の工事でもそうであったようで、そのために各現場には冬期の工事で使用する分のセメント等を貯蓄しておくための倉庫を建築したとされる。


さて、上の写真も運転再開時期を反映するかのように、春の気温が緩んできた頃の様子であろうことが分かる。こんなに雪が積もっていても、これは冬の景色ではないことは雪の質感などから分かっていただけると思う。四月、新たに雪も積もらなくなり、軽便線の運転再開に向けて人夫を使って除雪作業を行っていたのだろう。
そして何より、この写真がどこで撮られたのかが気になる。見た限り線路の右手が山側であるから、左手に信濃川が流れているはずだ。つまり、信濃川上流方を見ている景色と言える。かなり深い切取りの底を、そこそこの勾配で線路は登ってきている。更に、右側斜面の上辺を前方の左カーブの先まで追っていくと、途中で途切れていることが分かる。掲載した写真だと分かりにくいが、途切れた先で中腹から生えているだろう杉の木が頭を覗かせている。連続した地形なら、杉がそんな風に生えるわけがない。つまり、カーブの先で崖に落ち込んでいる地形なのである。
写真から観察される条件から、私が考えた撮影地点は「鉢沢橋梁の高島方(千手方)」である。

 

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスよりUSA-R1338-79である。ここから、写真で撮影された区間を赤塗する。



おおよそここだろうと。空中写真からも鉢沢橋梁を渡ってすぐに切取りをカーブしながら川側に進路を向け、しばし直線で登っていく様子が確認できる。そして、想定される鉢沢川橋梁の高さと高島方の河岸段丘上とはかなりの高度差があるため、このような切取りで克服していたと推測していることは再三述べている通りだ。その大規模な切取りこそ、今回紹介した写真に写っている光景なのではないか。なお、この切取りは現在、土砂で埋め戻されている。なんとなくの痕跡は残っているものの、この光景は今は見られない。ましてや、当時の路盤は地中にあって辿ることはできない。こうして、当時の写真を見付けては、往時の様子を知ることが出来るのみである。

 
最後に、現在の現地の写真を見てみよう。左の写真は、当時(右)の写真の線路の直線上の右側の斜面の上から撮影したと言えそうだ。
特定への判断基準となるだろう背景の山が写ってないので比較することが出来なかったため、次に現地を訪れる際には山の形と睨めっこしながら、確認したいと考えている。

信濃川発電所材料運搬線(浅河原調整池南側)

2021-06-21 22:35:32 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
まず、紹介するのは浅河原調整池と小泉付近の土堰堤工事地区をトリミングした空中写真だ。元画像は「USA-R1907-28 撮影日1948/10/12(昭23) 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」である。

 
例によってポンチ絵で材料運搬線のおおよその部分をトレースしている。小泉車庫構内の側線は端折った。今回はそこについて深く言及するわけではないので。

更に、本記事で書きたい部分を示すと、以下の右図の赤線部分である。
 

赤線部分が鐙坂手前で見切れているけど、この戦後の米軍撮影のUSA-R1907-〇〇シリーズはここで切れてしまっているのである。個人的には浅河原調整池を中心とした当時の写真が欲しい所だけど、インターネットで見られるだけでも時代の恩恵がすさまじい話なので、ありがたく使わせて貰っている次第である。


さて、浅河原調整池の南側である。

この区間はこれまでも当ブログではどうやって材料運搬線が崖を克服したか明言を避けてきたはずだ。かなりの推測で逃げてきた。

まず、私がそう判断した理由を、googleのストリートビューで現地を紹介して示したい。


連絡水槽を左手に見つつの、鐙坂へ向かう坂道だ。相当な急坂で、とても蒸気機関車というか鉄道で抜けられる勾配に思えない。ましてや、ここは十日町から宮中方面に向けて材料を満載した貨車が登る筈の坂だ。急こう配は空転による輸送障害を産むことは鉄道輸送ではよく知られた話である。それに対して、信濃川発電所材料運搬線を調べれば調べる程に、現地調査をすればするほどに、材料運搬線の線路の勾配の克服に心を砕いてきただろう設計者の本気を感じていることは、これまでの記事でも示せていると思う。信濃川発電所工事の材料運搬のために軽便線を敷設して、材料運搬を担わせるなら、線形(勾配)による輸送障害はあってはならないのだ。線形に起因する輸送障害が生じるならば、線形を決定した設計者の責任になりかねず、国家事業にそれが許された時代背景だったろうか。かようならば、鉄道としておおよそ常識(25‰以下の勾配)らしい線形になる筈である。しかし、当地の現道の勾配はそれより遥かに急なのである。こんなところを鉄道が通っていたとは考えられない。

とまで考えていたのだが、当時の当地の解像度の良い写真を手に入れて、おおよそそうらしいと言えるようになった。 写真の出展元は「信濃川水力設備要覧 鐡道省東京電気事務所 昭和十五年三月二十日」である。なお、必要に応じて私がトリミングを行っている。

 

材料運搬線は何処ですか?私が推測したのは以下のポンチ絵の通りだ。

 

私は桟橋の上を材料運搬線が通っていたとほぼ確信している。斜面中腹に桟橋を設けても巧みに勾配を克服していたと、私は言いたい。こういう位置関係で材料運搬線が敷設されていたと言うことに迷いはない。現時点で私の主張は、上記で示した位置に材料運搬線があって、浅河原調整池南側の線路は斜面中腹を桟橋で克服していたとする。現時点では、そう言う他ない。


※私は発電所工事関連の当時の証言や資料の提供を募集しています。そうでなくとも地元の方からコメントを頂けると、私は本当に嬉しいです。些細なことでも良いです。親から聞いた程度の話も貴重です。工事当時の話について、私にとっては何でもない話はありません。当時の生活の話でも何でも、私にとっては嬉しい情報です。

【再訪】千手河原高城澤間軽便本線探索

2021-05-23 05:00:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
一週間をおかずして、私は現地を再訪していた。前回発見した橋台跡を改めて観察するためだ。興奮醒め止まぬままではあるが、今回は橋台に注力するつもりで来ている。
またしても夜明け前から現地入りをして、観察を行う。この時、気まぐれに橋台の側に生えていた笹を引っこ抜いたら、根が張り巡らされているはずの地面があっさりと剥がれた。地面が剥がれたと言うのは、文字通り笹を引っ張ったら根と地面ごとベロッと剥がれたのである。その感触には覚えがあって、その下にコンクリートか岩盤か、何かしら土も無く根が張れないものが存在しているという感触である。

 


そこら辺に散乱している枝を一本手に取り、私はそれで地面が剥がれた跡の土を払って行く。下にはコンクリートが顔を覗かせている。

 




ボルトが飛び出ている。そして、一部欠損しているものの、コンクリートには何か形成された痕跡がある。明らかにここにガーター橋として主桁が載っていただろう形状だろう、このディテールは。
主桁と橋座はここに飛び出ているボルトで接続されていたはずだ。これほどの痕跡は初めて見た。にしても、数十年は湿った地面の下に埋もれていたにもかかわらず、むしろ埋もれていたからか、エッジが効いたディテールが綺麗だ。




前回、ガーター橋が載っていたと言った部分も必要な構造物だと思われるが、こちらにはそれらしき造形は一切無い。ただ、中心に線路方向の溝が掘られているのみである。これを書いている時点で、私は溝の用途については分からない。類似例を調べている。また、こちらの構造物は川石が表面に浮いているのが特徴だ。橋台と比べると明らかにセメントと川石の配合率が違うように見える。用途によって変えていたのかも知れないが、それを示す資料については見付けられていない。もっとも、私は素人なのでコンクリートに詳しくない。単に風雨による劣化具合の差なだけかもしれない。

 



ガーター橋であるなら橋座も対になっているはずだから、山側も同じような形状をしていると推測される。しかし、いくら笹を引っこ抜けば地面ごと剥がれるとは言っても、これだけの土を除けるのに躊躇した。いや、同じような構造が土の下にあるとは思う。しかし、正直なところ、発掘するのが面倒くさくなった。我こそはと言う方、是非、発掘して欲しい。私はその後でまじまじと観察させていただければ良い。
とは言え、対岸(高城澤方)にも橋台跡はあるしということで、ある程度観察して、さっさと対岸へと移動した。


以下の写真の中ほどにある沢の右手が先ほどまで私がいた斜面だ。これから、沢の左手になる正面の段丘崖を登る。つい先日登ったばかりの斜面なので、何処をどう登って橋台跡へアプローチすれば良いかを知っているだけ、今回は気楽なもんだ。

 


途中、中腹で橋台下のコンクリートを改めて観察する。全容は全く掴めない。ただ、ガーダー橋なら、特にこの位置に橋脚なりを設ける必要も無かったろうし、単なる土留めなのかもしれない。位置的にもコンクリートの劣化具合的にも軽便線関係の構造物だとは思うのだけども。

 



なお、このコンクリートの塊は以下の写真のような場所にある。右手が発電所方で、沢へと落ち込んでいる谷の縁である。谷底の沢まで3m以上はあるため、落ちたら痛そうだ。足で上に載った土を少しばかり落としたものの、殆どの部分を木の根が覆っており、何も見付けることは出来なかった。




そして、少し登って橋台跡に辿り着く。こちらの橋台も同様の構造だと想像し、橋台そばの植物を引き抜こうとすると、またしても地面ごとベリッと剥がれた。
そこから何だかんだで1時間くらい発掘作業を行い、以下の写真のような状態まで露わになった。

 




木々の成長具合に時代を感じる。正面に立つ。本当によくぞ残っててくれたと感動した。「ここに鉄道ありき」と言うのに十分な光景だ。それにしてもコンクリートが綺麗な表面を保っている。



   


橋座はしっかりと一対の構造物として残っている。こちら側も桁と接続されていただろうボルトが残っている。あぁ、ここにガーダー橋を載せてみたい。なお、橋座の構造物の幅は20cm程度で、橋座間の距離は100cm程度だった。
こちら側もエッジが効いていて、ディテールは大きく損なわれていない。先ほどまで見てきた千手河原方のそれと同じ造形が残されている。



  

 

 




また、橋台の上部には切り欠きのような跡がある。これは明らかに後になってコンクリートで埋められた様子が見て取れる。丁度、軽便のレール幅程度の位置にあるものだから気になったものの、よく分からない。改めて、各種ガーダー橋を観察して類例を探していきたい。

 

 




軌道上の位置、真上から見下ろすとこのような感じだ。ここに軽便のガーター橋の桁が載ってた。

 


改めて盛土を眺めると、往時の様子が偲ばれる。現役時代に積まれただろう石積みの盛土が非常にそそられる。段丘崖の中腹から盛土の向こうに信濃川を眺める。これぞ信濃川電氣事務所の材料運搬線といった景色だ。これらの積まれた石たちも、目の前の信濃川の河原から持って来られたものかもしれない。ここに積まれて約90年、よくぞ持ち応えてくれた。








ここにいたのは何時間だろうか。気が付けば太陽が高く登り、頭の上にあった。去り際に、最後に一枚と。



興奮醒め止んで、ガーダー橋の構造について勉強して、また訪れたい。