少し間が開いてしまったが、変わらずに信濃川について調べている。
信濃川発電所について調べることは、コロナ禍下の巣ごもり状態でも継続できる趣味対象であって良かった。今年は新潟県下の雪も多く、時に新潟県内の全てのJR線が終日運休する程の雪が降っている程だ。また首都圏を中心に緊急事態宣言も発令されているため、現地での調査もままならない。しかし、これまで蒐集した手元の資料を読んでは雪解けの時期を待ちわびている。
今回は石橋のデルタ線について見付けた記事を簡単に紹介したい。
この分岐については今までも考察を述べている限りである。1948年頃、米軍撮影の空中写真にもその様子がはっきりと写っていることも、ここまで述べてきた通りである。下右の写真でポンチ絵として緑色の〇で示した箇所である。
私が現時点で主張している説は、石橋から千手方面への短絡線は千手から先の上野・真人方面への輸送が主となった三期工事以降に整備されたもので、一期・二期工事で既に整備されていた材料運搬線を短絡したためにデルタ線となったというものである。
なお、一期・二期工事の頃の石橋付近の材料運搬線は小泉(浅河原・宮中方面)へと向かう本線と、石橋でスイッチバックして千手の信濃川電氣事務所やサージタンクへ向かう線路のみであったというのが私の考えで、これは当時の工事が上流側に偏っていたことと、雑誌の記事に掲載された平面図に短絡線が描かれていないこと、郷土資料に軽便が石橋でスイッチバックしていたという証言集を元にしている。
紹介した空中写真は1948年頃の撮影である。そのため、連合軍総司令部民間運輸局(C.T.S Civil Transportation Section)に信濃川発電所工事の着工が認められ、三期工事が本格的に着工した年でもある。
今回紹介するのは、土木学会誌37-1,昭和27-1 国鉄小千谷発電所工事について ON THE CONSTRUCTION WORK OF OJIYA POWER PLANT J.N.R 藤井松太郎(信濃川8代所長) に掲載されている図である。三期工事について当時の所長によって書かれた文章であるが、昭和26年には小千谷発電所が発電を開始しており、その同時期か直後に書かれた文章である。
そして、そこに紹介されている概要図、いわゆるポンチ図に目が留まった。
あるぞ!デルタ線があるぞ!
緑〇で示した通り、しっかりとデルタ線として描かれている。ポンチ図であるが、ポンチ図にすら描かれる程度に確かに存在した線路であると言えるのではなかろうか。
材料運搬線と水路隧道の位置関係とか適当な図だけど、ポンチ絵なので、概要図なので!
それでも当時の空中写真と現地の軌道跡と思わしき位置に残る切取りから推測するしかなかないために状況証拠のみで私は石橋のデルタ線を主張してきた。そんなデルタ線の存在を後押しする貴重なポンチ絵だ。とは言え、国鉄関係者が土木学会誌に寄せた記事にしっかりと材料運搬線はデルタ線として描かれていることが嬉しい!デルタ線として書かれている頂点の内、浅河原調整池方面に残っている部分は小泉車庫へ向かう線路だからこの当時も残っていたはずだ。工事の本流が千手の下流に移り、小泉を経由してスイッチバックするより直接千手方面へ抜ける線路が整備される点に疑問は無い。材料輸送を担う軌道の性質上、工事需要に応える新設工事に疑いようが無い。無駄な距離やスイッチバックによる鉄道輸送の運転取扱いはできるだけシンプルにして材料輸送を円滑に行いたいと当時の工事用材料の輸送関係者が考えたとして、それを私は自然だと思うからだ。
以上、デルタ線の整備時期と、そもそもそれが存在していたかを証明するための資料の紹介とする。
今回は 国鉄小千谷発電所工事について ON THE CONSTRUCTION WORK OF OJIYA POWER PLANT J.N.R 藤井松太郎 の結言を紹介して締めたい。
以上を以て国鉄小千谷発電所の計画及び工事の主要問題には一応触れたつもりであるが、紙数の制限のため極度に図面及び説明を省略し、充分其の内容を伝える事が出来なかつたのは遺憾である。目下小千谷発電所工事誌を編纂中であり、本年初頭には刊行の運びとなるものと思われるので、詳細は同書を参照していただきたい。
将来国鉄が自己の経営合理化のため、安心して鉄道電化を進めて行くためには、必要な自家発電所を自ら所有し、電力会社の経営政策に捉われることなく、低廉確実な電力を自ら供給する事が絶対に必要である。我国経済復興の為には、電源開発をあらゆる施策に先行して行わなければならぬ事は、周知の通りであるが、その開発に当つては、自ら其の力を有する者が、自己の電源を開発して行く事が、開発を進める所以でもあり、又我国経済復興に資する方途でもあると筆者は考えている。かかる時期に於いて、国鉄が終戦後いち早く、戦後最大の発電所を完成した事は、極めて意義の深いものと考えざるを得ないのである。本稿を終るに際し、小千谷発電所の計画及び工事に関し、終始教示を賜つた前信濃川工事事務所長阿部謙夫氏に謝意を捧げる。
信濃川発電所について調べることは、コロナ禍下の巣ごもり状態でも継続できる趣味対象であって良かった。今年は新潟県下の雪も多く、時に新潟県内の全てのJR線が終日運休する程の雪が降っている程だ。また首都圏を中心に緊急事態宣言も発令されているため、現地での調査もままならない。しかし、これまで蒐集した手元の資料を読んでは雪解けの時期を待ちわびている。
今回は石橋のデルタ線について見付けた記事を簡単に紹介したい。
この分岐については今までも考察を述べている限りである。1948年頃、米軍撮影の空中写真にもその様子がはっきりと写っていることも、ここまで述べてきた通りである。下右の写真でポンチ絵として緑色の〇で示した箇所である。
私が現時点で主張している説は、石橋から千手方面への短絡線は千手から先の上野・真人方面への輸送が主となった三期工事以降に整備されたもので、一期・二期工事で既に整備されていた材料運搬線を短絡したためにデルタ線となったというものである。
なお、一期・二期工事の頃の石橋付近の材料運搬線は小泉(浅河原・宮中方面)へと向かう本線と、石橋でスイッチバックして千手の信濃川電氣事務所やサージタンクへ向かう線路のみであったというのが私の考えで、これは当時の工事が上流側に偏っていたことと、雑誌の記事に掲載された平面図に短絡線が描かれていないこと、郷土資料に軽便が石橋でスイッチバックしていたという証言集を元にしている。
紹介した空中写真は1948年頃の撮影である。そのため、連合軍総司令部民間運輸局(C.T.S Civil Transportation Section)に信濃川発電所工事の着工が認められ、三期工事が本格的に着工した年でもある。
今回紹介するのは、土木学会誌37-1,昭和27-1 国鉄小千谷発電所工事について ON THE CONSTRUCTION WORK OF OJIYA POWER PLANT J.N.R 藤井松太郎(信濃川8代所長) に掲載されている図である。三期工事について当時の所長によって書かれた文章であるが、昭和26年には小千谷発電所が発電を開始しており、その同時期か直後に書かれた文章である。
そして、そこに紹介されている概要図、いわゆるポンチ図に目が留まった。
あるぞ!デルタ線があるぞ!
緑〇で示した通り、しっかりとデルタ線として描かれている。ポンチ図であるが、ポンチ図にすら描かれる程度に確かに存在した線路であると言えるのではなかろうか。
材料運搬線と水路隧道の位置関係とか適当な図だけど、ポンチ絵なので、概要図なので!
それでも当時の空中写真と現地の軌道跡と思わしき位置に残る切取りから推測するしかなかないために状況証拠のみで私は石橋のデルタ線を主張してきた。そんなデルタ線の存在を後押しする貴重なポンチ絵だ。とは言え、国鉄関係者が土木学会誌に寄せた記事にしっかりと材料運搬線はデルタ線として描かれていることが嬉しい!デルタ線として書かれている頂点の内、浅河原調整池方面に残っている部分は小泉車庫へ向かう線路だからこの当時も残っていたはずだ。工事の本流が千手の下流に移り、小泉を経由してスイッチバックするより直接千手方面へ抜ける線路が整備される点に疑問は無い。材料輸送を担う軌道の性質上、工事需要に応える新設工事に疑いようが無い。無駄な距離やスイッチバックによる鉄道輸送の運転取扱いはできるだけシンプルにして材料輸送を円滑に行いたいと当時の工事用材料の輸送関係者が考えたとして、それを私は自然だと思うからだ。
以上、デルタ線の整備時期と、そもそもそれが存在していたかを証明するための資料の紹介とする。
今回は 国鉄小千谷発電所工事について ON THE CONSTRUCTION WORK OF OJIYA POWER PLANT J.N.R 藤井松太郎 の結言を紹介して締めたい。
以上を以て国鉄小千谷発電所の計画及び工事の主要問題には一応触れたつもりであるが、紙数の制限のため極度に図面及び説明を省略し、充分其の内容を伝える事が出来なかつたのは遺憾である。目下小千谷発電所工事誌を編纂中であり、本年初頭には刊行の運びとなるものと思われるので、詳細は同書を参照していただきたい。
将来国鉄が自己の経営合理化のため、安心して鉄道電化を進めて行くためには、必要な自家発電所を自ら所有し、電力会社の経営政策に捉われることなく、低廉確実な電力を自ら供給する事が絶対に必要である。我国経済復興の為には、電源開発をあらゆる施策に先行して行わなければならぬ事は、周知の通りであるが、その開発に当つては、自ら其の力を有する者が、自己の電源を開発して行く事が、開発を進める所以でもあり、又我国経済復興に資する方途でもあると筆者は考えている。かかる時期に於いて、国鉄が終戦後いち早く、戦後最大の発電所を完成した事は、極めて意義の深いものと考えざるを得ないのである。本稿を終るに際し、小千谷発電所の計画及び工事に関し、終始教示を賜つた前信濃川工事事務所長阿部謙夫氏に謝意を捧げる。