軽便線(十日町、千手間)千手発電所落成式当時(S14.12.3)
私は郷土史の写真集でこの写真を見付けた時、キャプションから読んで字の如く1939年12月3日に千手発電所の落成式で撮影された写真だろうというのは分かった。しかし、写真が撮影されたシチュエーションを推測することが出来なかった。本記事では、この写真の撮影されたシチュエーション、特に写真に写っている人物に焦点を当てていきたい。
結論から申し上げると、客車に向かってこちらに背を向けている人物が鉄道省信濃川電氣事務所第五代所長阿部謙夫氏、客車から降りようとしている人物が鉄道(逓信)大臣永井柳太郎氏である。永井大臣は信濃川水力発電所一期工事竣工による千手発電所發電開始に伴う落成式の来賓で妻有の地に降り立った。そして、それを出迎える阿部信發所長と言う構図だ。
では何故、それぞれの人物が判明したかと言うと、ある一冊の書籍の記述による。それは、北海道放送社長室編「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」という書籍に依る。
同書にはこの書籍にも冒頭に引用したものと同じ写真が掲載されており、そのキャプションは「同、鉄道大臣永井柳太郎氏の視察出迎え、後ろ向」とある。「同」とあるは、並びの写真に「45才(昭和14年)ころ国鉄信濃川電気事務所々長時代」という写真が掲載されていることから、45才(昭和14年)のことを指しているものだろう。このことから、私は客車に向かってこちらに背を向けている人物が鉄道省信濃川電氣事務所第五代所長阿部謙夫氏、客車から降りようとしている人物が鉄道大臣永井柳太郎氏であると判断した。なお、同じ写真で一方は「落成式」として、もう一方は「永井大臣の視察」としている。どちらかが誤った記述ではなく、永井大臣が落成式のために千手発電所にいらっしゃった事実が記載されている。
では、キャプションと千手発電所落成式はそもそも日付が合致するのかという点について検証したい。
千手発電所 1939年11月 信濃川水力発電第1期工事しゅん功(千手発電所1,2,3号機発電開始)
阿部謙夫 第五代信濃川電氣事務所所長 在任期間 1939年7月11日~1945年9月17日(?) ※後任の伊集院久第六代所長の着任が1945年9月18日のため。
永井柳太郎 鉄道大臣(逓信大臣兼任) 在任期間 1939年8月30日~1939年11月29日(逓信大臣 1939年8月30日~1940年1月16日)
ここでの千手発電所竣功や登場人物の在任期間も一致する。
永井柳太郎大臣こそ鉄道大臣と逓信大臣の兼任が免じられて1939年12月3日時点では逓信大臣である。竣功式とはタッチの差で兼務を免じられており、鐡道大臣ではない。これは裏を取った話ではないが、大臣来訪の事前調整や現役逓信大臣であることから鉄道大臣を免じられたとしても式典には参加する方向で各方面が纏まったのではないかと推測している。なお、私は当時の政治の話は全く分からないから的外れな推測である可能性が少なくない。それでも、永井大臣が千手発電所落成式にご臨席されたのは事実だと思うし、上記写真のキャプションが誤りであるとも考えていない。
なお、千手発電所竣工式はいつ行われたのか。冒頭の写真のキャプションからは1939年12月3日が有力だ。しかし、実際には1939年12月1日~3日までの3日連続で相当盛大に執り行われたらしい。以下にその根拠となる記述を引用する。
まず、竣工式について「信濃川30周年記念誌」の記述を引用する
畑山正平氏によれば「工事の竣功式が3日間も続き多数の来客を迎えたときの皆さんの気持ち」
北村市太郎氏によれば「竣工式は千手の発電所事務所でやりましたが、二等寝台専用列車が、千手の側線迄入って来ましたのも古今未曾有の出来事でしょう。丁度昭和14年は大温水で、豊富、低廉な電気を供給する事を看板に日発が発足した年で、日発は非常に非難を受けた時に、信濃川が発電開始したのですから真にタイムリーでした。それで竣工式も盛大なものでした。」
日本国有鉄道信濃川工事局(昭和37.3)「信濃川30周年記念誌」より一部引用
更に「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」の記述を引用する
杉山寅之助氏によれば「昭和十四年十一月待望久しかった第一期工事が完成し、同年十二月一日に新装になった千手発電所で竣工式ならびに祝賀会が行われ、発電所建設の功労により永井鉄道大臣から表彰を受けられました。私達部下の喜びはもちろんのこと阿部さんの感激は如何ばかりであったでしょうか、もともと阿部さんは技術屋でありながら詩歌の造詣に深い方だと聞いておりましたが、阿部さんは当時の感慨の迸しりを歌に托して表現されたのは当然のことだったでしょう。阿部さん自作の『信濃川発電所の歌』はレコードに吹き込まれて祝賀会の日に発表されました。当時私は会場接待係をしていたのでスピーカーから会場に流れる『みすず刈るちようしなのより越を流れる信濃川・・・』あのレコードの歌声が今でも目を瞑れば聞こえてくるような気がします。」
北海道放送社長室編(昭和48.8)「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」より一部引用
これらの記述から、竣功式は1939年12月1日から3日間行われたことが分かる。永井大臣が十日町の地に降り立った新聞記事を探していないものの、一枚の写真のキャプションの裏取りとして、私は十分満足している。
なお、最後に信濃川発電所の歌とある。これも北海道放送社長室編(昭和48.8)「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」に楽譜ごと掲載されているので引用して、〆たいと思う。
記事中の杉山は私の祖父です。この記念誌も手元にありますが、ここまで掘り下げられませんでした。その祖父も阪神淡路大震災の2日後に鬼籍に入りました。名古屋の学校卒業後すぐ鉄道省から十日町に着任しました。気むずかしい人で、聞きたいことたくさんあったのに半分も聞けませんでした。これからも楽しみにしております。
コメントありがとうございます。励みになります。
杉山さまのご関係の方とは知らず、ご無礼を働いておりましたら申し訳ございません。ただ、今まで頂いていたコメントとご祖父様がこのような形で繋がり、私も嬉しい限りです。
「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」より 杉山氏
私が鉄道省に就職して信濃川電気事務所勤務となったのは昭和十年四月のことです。それから昭和四十二年三月国鉄を退職するまでの三十二年間を幸か不幸か転勤知らずの信濃川暮らしでしたから阿部さんの部下として最も永くお世話になった者の一人であります。
と書かれています。
この事が軽便線に興味を持った切っ掛けでした。他の方も軽便線に興味が有ることを嬉しく思います。
余談ですが、祖父は名古屋を出て工事含めて人生の大半を過ごしましたが、雪は嫌いなようで、雪とはいつも闘っていました。
当時の資料にも材料運搬線について十日町駅から下平までは1,067mmと762mmの併設三粁(km)とあり、その記述通りです。軽便線信濃川橋梁の写真が残ってましたら私は是非とも見てみたかったです。
発電所の傍らにガーターが置いてあったというのは初耳です。宮中から千手・下平にかけての軽便線は各所に橋を掛けたであろう場所がありますから、軽便線が工事の終了と共に役割を終えて、その撤去後のものと推測されます。
属人のお話となりますが、雪がお嫌いにも関わらず当地で30年以上も発電所に従事されたご苦労が想像されます。なお、先に紹介した「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」によれば、昭和十年代に杉山氏は冬期にスキーで越後田沢から当間山を越えたり、土合から清水峠を越えられたりしたそうです。