玄関アプローチで、段菊の紫色の花が咲いています。小さい花ですが、階段状に上へ上へと開花していきます。大変丈夫な花で、ほとんど手入れはしていません。花が終わり葉が落ちると、株元から切戻すだけです。それでも毎年、咲いてくれます。
下乗橋は城内の堀に架けられた木製の太鼓橋で、表御殿への正面出入口にあたり、この橋を渡ると大手門の枡形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていた。橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗物から降りて歩いて渡ったことに由来するする。現在の橋は、1908(明治14)年のものだ。また、今に言う「下馬評」とは、お殿様の帰りを待つ間にお供の者が、ここで交わすうわさ話のこと。
広嘉は1673(延宝1)年、14年がかりで錦帯橋を完成させた。そのわずか7ケ月後、橋は洪水のため流されたが、広嘉は洪水が引くの待って直ちに再建を命じた。その後1950(昭和25)年に台風で流出するまで276年間、技術の高さを誇った。日本3名橋の一つ。
(錦帯橋越しの山上に岩国城が見える)
鳥取県中部の倉吉市の西の外れに、層塔型の三重三階天守がありました。各層に黒く塗られた下見板張りを設け、初層には入母屋破風を飾りつけています。天守台の石垣も、高いところでは2m近くあり、なかなか立派なお城もどきです。
縮景園は、広島藩主浅野家の別邸庭園として、1620(元和6)年に築造された回遊式の大名庭園。園中央に濯纓池を掘り、池中央には跨虹橋が架けられた。裏御門跡からは東へ約500m、広島電鉄白島線沿いにある。
本段南面の石垣は、埋没部分を含めると高さは15mを超える野面積みであり、古式なものとしては全国屈指という。石垣の上には三階櫓が建てられ、下は本丸下の段で以前テニスコートがあった場所だ。南東隅下部が大きく膨らみ丸みを帯びているのは、非常に珍しい。
鬼ノ城は総社市の北に位置する鬼城山(標高397m)に築かれた古代山城で、7世紀後半のものとされる。平坦な山頂を取り巻くように全長2.8Kmにも及ぶ高さ約6mの版築土塁、一部には高石垣が築かれた。この城壁には東西南北4ヵ所の城門が構築され、城壁が谷を渡る6ヵ所には排水のための水門が築かれた。城壁内には礎石建物群、鍛冶工房跡などが残る。(写真は復元された西門付近)
石段を登っていくと左右に石垣が組まれおり、その間に招き入れられる。往時はこの石垣上に大きな渡櫓があり、その下に門を設けた。
門をくぐると、正面には石垣が迫り左へと導かれる。先には現存する三の平櫓東土塀が見える。
(大手門跡手前には往時をしのぶ復元予想図があった)
格子門は二の丸北西隅、肘櫓と本丸の石垣の間に築かれ、二の丸への侵入を防いだ。右手が肘櫓台石垣、左手が本丸の高石垣で、その上には色付櫓が築かれた。
また、肘櫓下は裏下門の石段、枡形が続くところで、上から搦手を固く警備した。(石段を登ったところが裏下門前の枡形)
松江城の東北、北堀橋近くの民家です。二階には、母屋から突き出す形で入母屋破風の一間が設けられ、玄関の屋根も入母屋破風。二階の入母屋破風は、明らかにお城を意識して増築されたのでないかと思います。立派なお城もどきです。