本丸は東側を除く3方は蓮池濠、乾濠などが築かれたが、東側は二の丸御殿との間に白鳥堀を掘って、本丸と二の丸を画した。本丸と二の丸をつなぐ汐見坂の途中で南方を見ると、本丸の高石垣が続き、その先には高石垣に横を掛ける台所前三重櫓跡の石垣の出っ張りがある。
鉄門は杉の段から三の丸に通じる門で、石段を登りきったところの両脇の石垣上に櫓を渡しその下の石垣の間に鉄板を張った門扉があり、鉄門と呼ばれた。鉄門跡の狭い石垣の間を進むと、三の丸の石垣に囲まれた枡形で守りを厳重にした。
本丸に至る土橋上で振り返ると、二の丸の土橋脇に被爆ユーカリが緑に茂った枝を広げ、その先には二の丸表御門の渡櫓が見える。二の丸は大きな角馬出しのようなもので、本丸の正門を守っていた。二の丸には築城400年を記念し、二の丸表御門、平櫓、太鼓櫓、多聞櫓が復元され、往時を偲ばせる。
天守最上階の望楼から北側を望むと、昭和55年に復元された2重2階の武具櫓、内堀、今治港、さらにその先に瀬戸内海を一望できる。正保年間に画かれた絵図を見ると、中堀の一部に船入となっていて、船を直接海へ漕ぎ出した。現在の今治港は、この船入と同じ場所に築かれ、江戸時代の城下の町造りが今に引き継がれていることに驚く。
天守台跡から見下ろした三の丸には、披雲閣という大きな藩政庁、藩主住居があった。明治5年老朽化により取り壊されたが、大正6年規模を縮小した披雲閣が再建された。三の丸の先には東ノ丸跡に建つ香川県民ホール、さらにその先には屋島が望める。
東西約11m、南北約9m、高さ約15mの3重3階の丸亀城天守は現存する12天守の中で一番小さい。2層の南北、妻壁側には向唐破風、3層の東西に千鳥破風を付け意匠を凝らしている。特に、向唐破風は虹梁や蟇股(かえるまた)などを装飾して格式を高めている。
表御殿跡の西端にある西坂口から急な石段を登ると、山上の西三の丸にたどり着く。西三の丸の門跡は石垣を高く矩形に築き、進路を折り曲げている。外側からは垂直に積み上げられている様に見え、内側からは斜めに積み上げている様に見える。見る位置によって異なった石垣を見ているようだ。
出丸跡の下を通り過ぎ「歴史との出会いの道」を進むと本丸の石垣を見ることができる。大小様々の石材が使われている中に、矢穴痕が残るものも見受けられる。巨岩の表面にくさびを打ちつけた穴を掘り、穴を一列に並べて力を加えると、穴に沿って巨石が割れる。この穴を「矢穴」といい、石垣を注意してみると、この矢穴を見つけることができる。
先週土曜日もいつもの散歩コースをいつものように歩き、マックはご機嫌のようでした。子供の頃は四葉のクローバーを探そうと、目を凝らしたこともありますが、今となってはただ通りすぎるだけです。シロツメグサと言えば、白色の花をつけるものと思っていましたが、最近ではピンク色の花をつけたものを良く見かけます。
先週は出張で米子に出掛け、少し時間が空いたので米子城跡に立ち寄りました。小雨の降る中、湊山山頂の本丸跡まで登りました。山頂からは中腹の内膳丸跡の様子がうかがえ、市街地の先には日本海や島根半島が見渡せました。