正門をくぐり西の丸を内堀沿いに進むと、本丸南側に現存する表二之門に至り、さらにその先には東南隅櫓が見える。
表二之門は本丸大手の桝形門の外門であり、旧式の高麗門で、鉄砲狭間を開いた両袖の土塀と同じ高さで見栄えは今ひとつだ。表二之門は相当に老朽し、鉄骨の補強が施されていた。
正門をくぐり西の丸を内堀沿いに進むと、本丸南側に現存する表二之門に至り、さらにその先には東南隅櫓が見える。
表二之門は本丸大手の桝形門の外門であり、旧式の高麗門で、鉄砲狭間を開いた両袖の土塀と同じ高さで見栄えは今ひとつだ。表二之門は相当に老朽し、鉄骨の補強が施されていた。
犬山城の西側、木曽川に架かるライン大橋の中程からは、天守西面を遠望できる。高さ5mの天守台石垣上に、二重二階の大きな櫓の上に一重二階の物見を乗せた19mの望楼型天守がそびえ建つ。第一層の西北隅には、切妻の屋根を持つ石落としの間が突出ている。三階は破風の間と呼ばれ、大きな入母屋破風の中にも窓が開かれている。
石川門から三の丸、鶴の丸を通り過ぎると、東の丸北面の石垣に至る。この石垣は自然石や粗割りしただけの石材を緩い勾配で積み上げた野面積みになっている。
最上段は東の丸丑寅櫓跡の石垣で、櫓跡からは東方向に兼六園前の茶店が一望できる。現在、兼六園との間は沈床園と呼ばれる庭園や道路となっているが、かつては水をたたえた百軒堀だった。
先週末の2月11日、鳥取城の大手にあたる擬宝珠橋跡の発掘調査現地説明会があり出かけました。内堀の水を抜き現在のコンクリート橋に沿って掘り起こしたところ、江戸初期、末期、明治期の3代に渡る橋の杭が約60本見つかったそうです。杭の材料は主に栗や松で、中には柳などもあったようです。
また、石垣の根元には、垣の崩壊を防ぐための丸太(胴木と呼ばれる)が敷かれていました。
大手門は三の丸の東中央の門で、江戸城の正門であった。土橋を渡ると高麗門があり、高麗門を入ると右に折れて渡櫓門がある。高麗門、石垣、土塀、渡櫓門に囲まれた方形の場を桝形と言い、攻め入った敵兵を石垣上の渡櫓から狙い討った。大手門渡櫓は昭和20年の戦災で焼失したが、昭和42年に復元された。
本丸北側の二の丸に至る石段の途中で振り返ると、天守を間近に望むことができる。天守は三重六階、最上階の外側には廻り縁と擬宝珠を付けた高欄を廻らした。天守から西北(右側)に伸びる矢狭間塀、東多聞ともに現存し重要文化財に指定されている。写真は高欄を修復していた平成17年のもので、養生シートが張られている。
鳥取県域のバス会社2社の名前が、全国規模で大きいことに気づいた。よくあるのは岡山電鉄とか、広島交通とか地方の名前をつけることが多いと思うが、ご覧のとおり、鳥取では「日の丸自動車」「日本交通」のバスが走っている。
昨日は一昨日の備中松山城に続き、山城2連発竹田城に出かけました。竹田城はJR竹田駅背後の山上に、天守台をはじめ三方の尾根に配置した多くの曲輪の石垣が見事でその規模に驚かされました。建築物こそ残っていませんが、とにかくすごいとただただ満足の一日でした。今日は週末の山城歩きのため、下半身の筋肉痛を起こしています。
南堀通りから内堀越しに天守を望むと、本丸月見櫓跡の石垣、樹木の先に天守望楼が見える。月見櫓台は本丸石垣から僅かな出っ張りを設けることで、長大な直線の本丸石垣の強度を高め、横矢を掛けることで防御力を高めた。積み上げられた石垣は、ほとんど加工の跡が見られない大小さまざまの自然石を用いた野面積みだ。