世間が万博に沸き返る1970年、長谷川洋一郎が小学校2年生の時に家を出て行った。そんな実父への記憶は淡い。しかし40数年ぶりに知った郊外の小さな街で一人暮らしを続けたすえに亡くなった父親石井信也は、生前に1冊だけの「自分史」をのこそうとしていた。何故?誰に向けて?洋一郎は、遺品整理をしながら父親の人生に向き合うことを決意した。このころ洋一郎は介護付き有料老人ホームの施設長に勤務、入居者たちの生き様を前に、この時代にうまく老いていくことの難しさを実感していた。そして我が父親は、どんな父親になりたかったのだろう?残された携帯電話のアドレスをヒントに父親の知人たちから拾い集めた記憶と、自身の内から甦る記憶に満たされた洋一郎は、父を巡る旅の終わりに、一つの決断をする。・・・表題の「ひこばえ」とは樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。 太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて「ひこばえ(孫生え)」という。人も皆亡くなっていくがその命は世代を超えて繋がっていくということを言いたかった。孤独死、遺骨と墓、父と子、家族を捨てて出ていった父親が亡くなり、骨となった父親はどんな人生を生きたのか。家族の絆と人の愚かさが描かれている。『「赤ん坊や子どもは「育つ」ことが仕事だよな。それと同じで、悠々自適になったお年寄りの仕事は「老いる」ことなんだよ」、「きれいに歳を取っていく人と、それがうまくいってない人がいるのよ」「歳を取るのをよく「枯れる」っていうだろう? 水分とか脂ぎったところがきれいに抜けていって、枯淡の境地になるのが、うまい老い方だと思うんだ」(下:p266)』終活は難しい。家族がいる人も独りのひとも、考えさせてくれたが、相変わらずいい人ばかりの登場人物たちで都合よすぎる展開で感動もチょッとでした。
2020年3月朝日新聞出版刊
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