スリーナイン後編です。一応劇場版の感想として始まりましたが、今回あんまり関係ないですね。スリーナイン全般の感想です。
(前回よりつづく)
そんな感じで、私はいつも大体、『主人公 ≒ 子ども』、『敵 ≒ 親、大人社会』、と思って解釈を進めていくことが多いんですが、今回は別の発見をしてしまった。
今頃かよ、というか、発見というか気づいてた人は気づいてただろうし、私も以前から薄々思ってましたけど~。
この機械帝国は資本主義社会の象徴、対して鉄郎に代表される生身の身体の人たちは共産主義の象徴ですよね。
いや、決して作者がなにか特定の思想を持っていたとも持ってないとも主張する気は一切ないんですけど。
意識的か無意識かわからないけど作者の世代的に('37年生まれ)、また連載開始の時代的に('77年)、どこかでそういった世相が反映されてると考えても不思議ではないな、と。
私もその辺の社会運動に詳しいわけでは全然ないので、深くツッコまれると困ります…。なんとなくそう思っただけなんで。
と言いますか、999で描きたいのは、共産主義というより、社会構造に立ち向かうレジスタンスなのだと思う…。
以前、鉄郎とベルばらのロザリーの類似点を指摘したことがあります。
で、そうして考えてみると。上級国民の側に生まれて庶民の生活に触れて帝国を滅ぼそうとする側に寝返るってメーテルは完全にオスカルですね
そして中の人ネタになりますが。プロメシューム役の来宮良子さん。
こちらはベルばらでデュ・バリー夫人を演じてらっしゃいます。
デュ・バリー夫人はアントワネットの義祖父(ルイ15世)の愛人です。愛人といっても決して日陰者ではなく、公妾という立場。当時の西欧諸国の宮廷では正式に認められた制度だったみたいです。
デュ・バリー夫人も女王プロメシュームも、共に最高権力を持った女帝として描かれています。
ああ、そういえば鉄郎役の野沢雅子さん、ベルばらにも出てらっしゃる。アニメにしか登場しない、アコーディオン弾きの息子ですよ。完全に虐げられたる庶民代表ですよ。
そんなつもりなかったのに。前回の冒頭の卵の値上がりの話とリンクしちゃったじゃん。
あとは田島令子さんがオスカルとエメラルダスを演じてらっしゃる。男性と対等に渡り合い冷熱を併せ持つ美女というキャラは被ってるけど、作中の立ち位置はあまり共通点が無いように思うのでこれは参考程度に。
(エメラルダスがメーテルの双子の姉でプロメシュームの娘という設定は後付けで、この頃はなかった)
ベルばらは暗喩でもなんでもなく、ずばり権力者 対 一般ピープルを描いてるし。
主人公が母性を象徴する存在と対立するという構図も類似してるし。
ベルばらの作者は '47年生まれですが、世代も性別も違う作者が似た構造の作品を描くって面白いですね。両作品とも、国や時代を越えた人の世のことわりを描いているということなのかもしれません。
写真AC
銀河と鉄道…
それでいながら、戦中、戦後の空気を知っている世代がまだ身近にいた(終戦が '45年なので、映画公開時は戦後34年)、多分団塊ジュニアから少し上くらいの世代(大体 '64~'76生まれくらいのイメージ)から絶大な支持を集める一方、その空気を全く知らない今の子どもたちにはあまりピンとこないと思われるのも無理からぬことかと思う次第です。
《追悼・松本零士》「SF」と「昭和」が作品に同居する偉大な漫画家の唯一無二の世界観 | nippon.com
劇場版 銀河鉄道999を観て思ったこと。おわり