
NHK教育テレビで放送されていたアニメ『電脳コイル』が、12/1(土)に最終回を迎えた。多くの人がブログで「最近のアニメではNo.1の作品」と絶賛する『電脳コイル』は、その最終回直前の第25回まで、それまでの謎を解決しつつ新たな謎を提示するという、謎また謎のオンパレードで、「こんなんで、最終回の25分でホントに終われるんだろうか?」と、ストーリーとは別にそっちの方も心配だったけれど、それは杞憂に終わった。
確かにやや説明不足の感もなきにしもあらずではあったが、視る者の予測を裏切る展開の中、全ての謎を回収しつつ、これ以上ない、という見事な最終回を見せてくれた。特に、クライマックスでヤサコがイサコに向かって叫ぶ「痛みを感じる方向に出口がある」には、視ていて泣いてしまった
。1分間に100を越える書き込みがあった2ちゃんねるでは、「こういうのを神アニメと言うんだろう」という最上級の賛辞を送る人も。
時は近未来の日本。舞台は金沢にほど近い、大黒市という架空の地方都市。めがね型の電脳端末──ウェラブル・コンピューター──が広く普及し、単にウィンドウを表示させたり、データ検索するだけでなく、電脳めがねをかけている時にだけ見える電脳ペットを飼うことも当たり前になった頃の話。その頃は、電脳ペットの方がむしろ一般的になりつつあり、本物の犬を「なまいぬ」と呼んだりしている。『電脳コイル』は、そんな大黒市の小学校に転校してきた小此木優子(通称ヤサコ)と、天沢勇子(通称イサコ)、の2人のユウコの物語である(その物語の前半部分については、以前ブログに書いた)。
しかし、だまされてはいけない。放送がNHK教育テレビであることも、時間が土曜日の夕方6:30という「子供の時間」であることも、主人公が小学6年生であることも、設定がSFチックであることも、色調がやや淡い優しい感じであることも…
それらは単なる擬態に過ぎない。一見、人畜無害の子供向けアニメを装ってはいるが、その実体は人間の最も深いところ、最も痛いところを、ものの見事に突いてくる、恐ろしいほどに過激で深遠なドラマだ。大人向けドラマでそういったものはあるが、『電脳コイル』の凄いところは、それを子供向けに、しかもそのテーマ性を少しも損なうことなく、やってのけたことにある。
それにしても、前半の地方都市のちょっとほのぼのとした学園生活(と言っても小学校だが)物が、後半まさかこんな展開になろうとは…。前半13回(実際には、+後半2回)をかけてじっくりと準備したさまざまな布石が、後半になって怒濤のごとく動き出していく。仕掛けがあまりに壮大になってしまい、説明的なセリフが多くなってしまったのはちょっと残念だったが、ダレることなく後になるに従って物語が加速して盛り上がっていく、という理想的な展開で、特に第18~20回の面白さは、
もはや神懸かり的。そのテンションを最後まで維持し続けたスタッフの力業には、ただただ敬服するばかりだ。惜しむらくは、最終的に物語がヤサコとイサコの内面世界に収斂していく中で、途中まであれだけ生き生き描かれていた脇役たちの影が薄くなってしまったこと。最終回は、彼らフル・メンバーが活躍するところを見たかった。だが、そうするには、あともう1回は必要だったろう。
NHKのアニメというのは、民放のように派手派手に宣伝しない分、影が薄いが、実は非常に高いレベルのクオリティを持っているものが多い。思いつくだけでも、『プラネテス』『十二国記』『今日から(マ)王』(本当は○にマの文字)『火の鳥』『雪の女王』などなど、珠玉の作品ばかり。そして今回の『電脳コイル』もまた、比類なき1本として、その中に名を連ねることになる。
…というわけで、『電脳コイル』は12/1(土)に最終回を迎えた。それじゃあ、今回のタイトル「『電脳コイル』は終わらない」ってのは一体どういうワケだッ、と思われた方もいるかもしれないので、それについても述べると、実は『電脳コイル』の全話が再放送される
のだ、12/8(土)から(笑)──要するに、最終回の後、第1回からまた始まる、というわけ。上にも書いたが、とにかく仕掛けが壮大なので、「話が面白いのはわかったけど、細かい部分は途中からついていけなくなった」という意見が多い(私も実はその1人
)『電脳コイル』だけに、この再放送は天恵である(笑)。一度も視たことがなかった、という方は、ゼヒこの機会に26回通して視てみることを、お勧めする。また、1/1(言わずと知れた元旦)には『電脳コイル』の特番もやるらしい。NHK、力入れてますな。
そしてまた、『電脳コイル』には小説版もある。執筆は(『エヴァ』のアスカではない、脚本家の)宮村優子。そう、彼女こそ三番目のユウコ…というわけで、『電脳コイル』のHPに「三番目のユウコ通信」を書いている宮村優子だが、過去にもNHKで『六番目の小夜子』『慶次郎縁側日記』などを書いてきた彼女が、単なるノヴェライズなど書くわけがない。小説版『電脳コイル』は、初期段階の設定や主なエピソードをアニメ版と共有しつつ、磯光雄によるアニメ版とは違う、宮村版の『電脳コイル』になっている。大きな違いは、アニメ版では電脳めがねは大人でも使っているが、小説版では小学生の間だけ使うことができること。だからこそ、めがねが使える最後の年である小学校6年という設定に意味がある。そして、登場人物たちがアニメ版より少しひねくれていて卑怯
。
例えば、転校初日にダイチたち悪ガキと電脳バトルを戦い勝利したイサコに、ヤサコが対峙する場面(ここでの語り手はヤサコ。途中省略アリ)。ちなみに、アニメ版ではヤサコとイサコが対峙するのは、それより後になるので、これは小説版だけのエピソード。
「『生きるために来た』」
天沢さんがわたしを見ていた。
「小此木さんそう言ってたわよね。生きるために来た。もうどこにも行かないって」
「言った」
「それはどういう意味」
涙が出そうだった。
その質問には答えられなかったから。でも泣かなかった。子供は泣かない。
「それはこういうことなんじゃないの」
わたしの弱点を見つけたと思ったのか、天沢さんは追撃の手をゆるめなかった。
「そうできなかったせいで、あなたはだれかを、うしなったんじゃないの?」
太くて凍ったなにかが突き刺さる。
「あたしをだれかの身代わりにしないで」
天沢さんが言った。
「いい? 聞いてる? 小此木さん、あたしを、あなたがうしなっただれかの代わりにしないで」
「イサコ」
ぎょっと天沢さんが黙った。
「その代わりにそう呼んでもいい」
「いやよ」
「いやなことされるのがすきなくせに」
だれか、と思った。
だれか、わたしたちを見ていて。わたしたち、小此木優子と天沢勇子はおそらくいま、これから先何十年かを生きていく中で、一秒も抜きさしならない、いちばん「もと」の時間にいる。
小説版は、アニメ版とはまた違う、こういうヒリヒリするやり取りがちりばめられている。現在、アニメの第7回くらいまでに当たる3巻まで出ているが、この分では最終的には12巻以上になりそうな…『電脳コイル』はまだ終わらない。
確かにやや説明不足の感もなきにしもあらずではあったが、視る者の予測を裏切る展開の中、全ての謎を回収しつつ、これ以上ない、という見事な最終回を見せてくれた。特に、クライマックスでヤサコがイサコに向かって叫ぶ「痛みを感じる方向に出口がある」には、視ていて泣いてしまった

時は近未来の日本。舞台は金沢にほど近い、大黒市という架空の地方都市。めがね型の電脳端末──ウェラブル・コンピューター──が広く普及し、単にウィンドウを表示させたり、データ検索するだけでなく、電脳めがねをかけている時にだけ見える電脳ペットを飼うことも当たり前になった頃の話。その頃は、電脳ペットの方がむしろ一般的になりつつあり、本物の犬を「なまいぬ」と呼んだりしている。『電脳コイル』は、そんな大黒市の小学校に転校してきた小此木優子(通称ヤサコ)と、天沢勇子(通称イサコ)、の2人のユウコの物語である(その物語の前半部分については、以前ブログに書いた)。
しかし、だまされてはいけない。放送がNHK教育テレビであることも、時間が土曜日の夕方6:30という「子供の時間」であることも、主人公が小学6年生であることも、設定がSFチックであることも、色調がやや淡い優しい感じであることも…

それにしても、前半の地方都市のちょっとほのぼのとした学園生活(と言っても小学校だが)物が、後半まさかこんな展開になろうとは…。前半13回(実際には、+後半2回)をかけてじっくりと準備したさまざまな布石が、後半になって怒濤のごとく動き出していく。仕掛けがあまりに壮大になってしまい、説明的なセリフが多くなってしまったのはちょっと残念だったが、ダレることなく後になるに従って物語が加速して盛り上がっていく、という理想的な展開で、特に第18~20回の面白さは、

NHKのアニメというのは、民放のように派手派手に宣伝しない分、影が薄いが、実は非常に高いレベルのクオリティを持っているものが多い。思いつくだけでも、『プラネテス』『十二国記』『今日から(マ)王』(本当は○にマの文字)『火の鳥』『雪の女王』などなど、珠玉の作品ばかり。そして今回の『電脳コイル』もまた、比類なき1本として、その中に名を連ねることになる。
…というわけで、『電脳コイル』は12/1(土)に最終回を迎えた。それじゃあ、今回のタイトル「『電脳コイル』は終わらない」ってのは一体どういうワケだッ、と思われた方もいるかもしれないので、それについても述べると、実は『電脳コイル』の全話が再放送される


そしてまた、『電脳コイル』には小説版もある。執筆は(『エヴァ』のアスカではない、脚本家の)宮村優子。そう、彼女こそ三番目のユウコ…というわけで、『電脳コイル』のHPに「三番目のユウコ通信」を書いている宮村優子だが、過去にもNHKで『六番目の小夜子』『慶次郎縁側日記』などを書いてきた彼女が、単なるノヴェライズなど書くわけがない。小説版『電脳コイル』は、初期段階の設定や主なエピソードをアニメ版と共有しつつ、磯光雄によるアニメ版とは違う、宮村版の『電脳コイル』になっている。大きな違いは、アニメ版では電脳めがねは大人でも使っているが、小説版では小学生の間だけ使うことができること。だからこそ、めがねが使える最後の年である小学校6年という設定に意味がある。そして、登場人物たちがアニメ版より少しひねくれていて卑怯

例えば、転校初日にダイチたち悪ガキと電脳バトルを戦い勝利したイサコに、ヤサコが対峙する場面(ここでの語り手はヤサコ。途中省略アリ)。ちなみに、アニメ版ではヤサコとイサコが対峙するのは、それより後になるので、これは小説版だけのエピソード。
「『生きるために来た』」
天沢さんがわたしを見ていた。
「小此木さんそう言ってたわよね。生きるために来た。もうどこにも行かないって」
「言った」
「それはどういう意味」
涙が出そうだった。
その質問には答えられなかったから。でも泣かなかった。子供は泣かない。
「それはこういうことなんじゃないの」
わたしの弱点を見つけたと思ったのか、天沢さんは追撃の手をゆるめなかった。
「そうできなかったせいで、あなたはだれかを、うしなったんじゃないの?」
太くて凍ったなにかが突き刺さる。
「あたしをだれかの身代わりにしないで」
天沢さんが言った。
「いい? 聞いてる? 小此木さん、あたしを、あなたがうしなっただれかの代わりにしないで」
「イサコ」
ぎょっと天沢さんが黙った。
「その代わりにそう呼んでもいい」
「いやよ」
「いやなことされるのがすきなくせに」
だれか、と思った。
だれか、わたしたちを見ていて。わたしたち、小此木優子と天沢勇子はおそらくいま、これから先何十年かを生きていく中で、一秒も抜きさしならない、いちばん「もと」の時間にいる。
小説版は、アニメ版とはまた違う、こういうヒリヒリするやり取りがちりばめられている。現在、アニメの第7回くらいまでに当たる3巻まで出ているが、この分では最終的には12巻以上になりそうな…『電脳コイル』はまだ終わらない。
再放送の第1回も見ましたが、凄いですね。伏線張りまくりです。後で重要な役回りを担う「あの人たち」も既に出ていましたし、ヤサコがオジジから電脳ペットのデンスケを贈られる回想シーンでも、オジジの本棚に並ぶファイルに注目