仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

【ことば】 いのち短し

2009-03-21 21:12:12 | ことば
いのち短し 戀ひせよ乙女・・・

私がこの歌詞を知つたのは、高校1年の秋。
山岳部の先輩の2年生が、京都に修學旅行に行つた時のことを、部員同士で廻してゐるノートに書いてゐた。
以前から思ひを寄せてゐた女性と一緒に京都を歩きたかつたが云ひ出せなかつたといふやうな、他愛ない内容だつたと思ふ。
3年生の先輩がその文章につけたコメントに、
「いのち短し 戀ひせよT(名前)」
とあつた。

その後、黒澤の「生きる」といふ映畫でこの歌が使はれてゐるのを知つた。
しかし、何故か私は、室生犀星の詩にメロディをつけた歌だとばかり思ひ込んでゐた。
いまネットで檢索してみたら、「ゴンドラの唄」といふ歌だと知つた。
なんで「ゴンドラ」なのか?
それはともかく、作詞は吉井勇、作曲は中山晋平、大正4年の作だとか。


1 いのち短し 戀ひせよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを

2 いのち短し 戀ひせよ乙女
  いざ手をとりて 彼の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 來ぬものを

3 いのち短し 戀ひせよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのほ 消えぬ間に
  今日はふたたび 來ぬものを


なんともロマンティックな歌詞である。
これはあくまで相手が乙女だから美しい。
歌詞には特定の乙女の姿は登場しないので、讀者もしくは聞き手が、自分なりの乙女を思ひ描くことができる。
さういふ意味では、「詩」の本質がこの歌詞には現はれてゐる。
作詞の 吉井勇 は、耽美派の歌人として知られてゐるだけあつて、なかなかたいしたものだ。

で、なぜいま「いのち短し 戀ひせよ乙女」なのか?
じつは、「いのち短し」といふ想念から、この歌詞を思ひ出したのである。

自分がいくつまで生きてゐるかなど知る人はゐない。
信長は「敦盛」で「人間五十年」と歌ひつつ、舞つた。
乙女の乙女としてのいのちが短いやうに、乙女ならずとも人間にとつて「旬の季節」は短いのではないか。
五十まぢかな私は、あと何年生きるのか知らないが、乙女同樣、きつと「旬の季節」は殘り少ない。
いや、もしかしたら、もう終つてゐるかもしれないが・・・

乙女ならば戀ひをすればよい。
五十まぢかの私には、いつたい何が出來るだらうか。
それが何であるにせよ、何かをするつもりであるなら、すぐにでも手をつけなくては。

「いのち短し はよせよオヤヂ」



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