昨日(元日)の隅田川七福神詣で … 6か所の寺社を巡っていて、お寺と神社が混在していることに素朴な疑問を感じました。
三囲神社には、大黒様と恵比寿様
向島百花園の社には福禄寿
白髭神社には寿老神 (以上神社)
弘福寺には布袋和尚
長命寺には弁天様
多聞寺には毘沙門天 (以上寺院)
そこで、それぞれの神様・仏様の由来を調べてみました。多くが外国産の神仏ですが、長い年月や時の人々の思いにより、神仏が混合されながら日本の神様に定着してきたようです。
今回は「ウンチク」ですので、興味のある方だけ先にお進みください。
七福神信仰の発端は鎌倉時代にさかのぼりますが、室町時代に町民の力が強なるにつれ民衆に広まり、江戸時代後半に現在に伝わる形が完成しました。恵比寿様、大黒様のペアに弁財天が加えられて三神となり、その後布袋様、毘沙門天が仲間入りし、最後に福禄寿、寿老人が後付けされたようです。
隅田川七福神も江戸時代後期に佐原鞠塢(きくう)によって開かれた向島百花園に文人仲間が集まり、佐原の所有していた福禄寿を使って七福神ができないかという話から考えられました。各地の七福神も同じような形で生まれたようです。
では、まず恵比須様ですが … 七福神の中で唯一の日本の神さまで「いざなぎのみこと」・「いざなみのみこと」の三男、夷三郎が恵比須だといわれています。「夷」には「蝦夷」というように東方という意味があり、異郷人を表しています。恵比須様は遠方から福を運んできてくれる神様として信仰されました。鯛を釣る(網を使わずほどほどに富を得る)ということで漁業の神として信仰されましたが、農民や商人にも信仰が拡がり、しだいに商売繁盛の神様になったということです。
大黒様は、その昔、ヒンズー教の「シバ神」が元祖です。仏教に移るとサンスクリット語で「マーハーカーラ」(摩訶迦羅)と呼ばれ、飲食を豊かにする神になりました。そのマーハーカーラを大黒天として日本に持ち込んだのは、天台宗の最澄とされています。そのため、天台宗の多くの寺の台所に大黒天が置かれるようになり、その信仰が庶民にも広まり、台所に大黒天を祀っておけば食べることに困らないと信じられたのです。台所の神ということで、大黒天は主婦の守護神となりました。
ついでに、彼の持つ小槌ですが、槌(つち)は土(つち)に通じ、宝(たから)は「田から」という意味なので、宝は土(田)から出てくるということになり、豊作の神ともなりました。
唯一の女神が弁才(財)天です。弁天と略されることもあります。(吉祥天を加えて女性が2人になる説もあるそうですが)
弁才天はインドの古代神話の大河の神で、サンスクリット語では「水を有するもの」を意味します。水が流れる音にちなんで、音楽の神、弁舌の神(知恵の神)として信仰されていました。日本にやってきた弁才天は、室町時代になると弁財天と書かれるようになり、「才」が「財」にとって変わりました。そこから、弁財天には財産の神としての性格も加わったとのことです。
布袋様は「和尚」のとおり僧侶です。唐の時代、禅僧契此(かいし)は、常に大きな布ぶくろを担いで喜捨(僧や貧民に寄付する)集めて回ったため、布袋和尚と呼ばれるようになりました。次第に神格化され、大きな腹をして福福しい顔をしていたことから、福徳の神とされました。
毘沙門天は、ヒンズー教では財宝福徳を司る神でした。仏教の世界では、護法神となり、四天王の一つとして北方を守る役割を持ちました。右手の槍で災害や仏教を弾圧する権力を退治し、左手の宝珠で人々に福徳を与えてくれるといいます。別名、多聞天とも呼ばれ、知恵の神様としても信仰されたようです
福禄寿は道教の「星の神様」だそうです。しかし、その正体は謎で、中国の仙人が室町時代の画題として扱われ、頭が長いという独特の風貌が絵として面白く、また「福禄寿」という名前がいかにも縁起がよさそうなので、七福神におさまったのではないかということです。
寿老人は白ひげをたらし、杖を持ち、鹿を連れています。この人も、実態はよくわからないのですが、「寿老」の名のとおり、長寿の神様として信仰されたようです。
福禄寿と寿老人は同一人物ではないかという説もあり、この場合、吉祥天が仲間入りするそうです。
日本古来の風習と思っていた七福神たちですが、ヒンズー教、仏教、道教、神道、禅宗の混合チームということになります。「アジア諸国の文化の融合」と言い換えることもできます。宗教にこだわらない日本だからこそ、このような発想が生まれたのではないでしょうか。
以上、七福神のお話でした。いくつかのサイトを参考にさせていただきましたが、特に解りやすかったのは「招き猫大研究」さんでした。ありがとうございました。
新春早々に七福神をお参りしして、「八福」のクッキーを食べて…今年は期待できそうです。