講評には評者の思想・信条が浮き彫りになり、人間が投影される。大きなコンクールより、小さなものほど審査員の本音が出やすい。
今年10月17日(金)に行われた、第25回現音作曲新人賞本選会での審査員長一柳慧氏の講評には感銘を受けた:
《作曲する上で、時代や社会と関わりながら提言、発信する姿勢と、そのような関わりよりも音楽そのものに込める、という姿勢があり、どちらも大事だが…「自己表現」とか「自分の個性」などというちっぽけなことに囚われること無く、もっと開かれた世界に向かって欲しい》
昨年の同本選会は聴く事が出来なかった。一昨年の審査員長福士則夫氏の講評は特異に感じられた:
《演奏が良かった作品は、演奏家のこれまでの演奏技術や経験の範囲内で作曲されている証拠。だから独創的なものとして認めない。それを打ち破る作品を期待している。若い時は尖りなさい。現音の作曲賞は、そういうものだ》
その前年の林 光氏は講評を述べられなかった。
講評とは、すぐれた演奏や作品に対する返礼でもある。
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