づれづれ気儘日記です

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時代の移ろいと共に

2019年05月09日 22時00分02秒 | 日記

 ブログを登録していると、一年前の記事が自動的にメールで送られてくる。

ほぼ10カ月間なんの記事も書かなかったのに、キチンと送ってくる。うまくできている。

機械的とはいえ、一年前の記事を見ると、懐かしい気持ちになるし、

再開のきっかけにもなりそう。


 ただ、一年前と決定的に違うのは、

花の咲く時期だとか、実った果実たちのみのり具合とか、起こった出来事の違いではなく、

ほぼ四六時中一緒にいた愛犬、スミレがいなくなったこと。


 丁度2カ月前。いろんな病状が重なって、わずか二日でスミレは逝った。

12歳と4カ月、短い命。

クルミが亡くなって2年。スミレの不調はクルミの死以降、いろいろと続いていた。

クルミという相棒がいなくなって、調子が悪くなったのだろうか。

人間よりも繊細なところがあるのかな、と毎日スミレの体調や顔色をうかがっていたのだが。

今年に入ってくらいからは、腹水がたまってきたり、ひどい下痢が続いたり・・・。

お医者さん通いで、腹水がおさまり、一時は小康状態だったんだが・・・。


 亡くなる前、数か月間は、いろんな好きなもの、食べたいものをあげていた。

柔らかいパンや牛肉、ハムやビッツウインナー、鶏のささみを軽く塩味で炒めたもの。

それでも食が進まない時は、ゴハンとおかずを噛んで、口移しであげたり、

犬用ミルクで牛肉や、鶏肉を煮たり・・・・。

毎日、夫婦で悩みに悩んで、結局スーパーで買う食材がスミレ用のものが半分以上になることもあった。



でも、好きなものを食べさせて、少しはそれで、気もすんだ気もする。

とはいえ、なんとかできなかったものだろうか、といまだに思いは、辛く重たいものがある。



 日にち薬、という言葉をよく言われるが、これはなかなか難しい。

ふと気づくと、スミレのいない空間を思い、涙が出る。

居ない姿を思い出すと、空虚とか虚ろってこんなことを言うのかな、と

ことばの重さを思い知らされる。

仕事でもしていれば気が紛れて、少しは楽になるんだろうけど、

隠居の身では、そうはいかず、スミレの姿を追ってしまって、ついつい涙が溢れる。

のがれようもない。

毎日涙を流さない日はなく、人間の涙はいったいどの位身体ににあるのか、と思う程。

情けないが、これが現実で今のところ如何ともしがたい。

忘れようがない現実は、避けることができないものだなと思う。


もし言葉が喋れたら、どこが痛い、ここが変、としゃべることができるんだったら、

なんとかしようがあったんだろうけど、犬とはそれができない。

一生懸命目を見たり、動きを見たりして、分かろうとしても限界はある。

だから、ペットに対する思いは、人間に対する思いより以上に深くなるのかもしれない。

そんな気がする。

そして、その悲しさ、虚しさに、涙が流れて仕方がないのかもしれない。




 クルミの3回忌が終わった、と思っていたところの、スミレの死。

ペットロス、という体験をしているおおぜいの人たちが、

同じような辛い思いをしているんだろう。立ち直るのはむつかしい。

一番頑張っているのは、立ち直ったふりをすることなんだろう。




でも、時代も変わった。

出戻りの娘が、一緒につれ帰ってきた犬もいる。

また、日中の面倒を見る羽目になってしまっている。犬との縁は切れないのかな、と

少し自虐的に運命的なことを考えなくもないが、所詮飼い主は娘、と思い込むことにしている。

それはそれで、違う犬の姿を見ることも悲しさを思い出すこともあるのだが・・・。



 日常のリズムが変わってきて、どこか区切りをつけないといけないかな、と

自分の中でいろんな葛藤が出てきているのも事実だ。そこで、ブログを再開しようか、と思う。


あまり力を入れずに。


    <少し前、今年咲いたリンゴの花>
    



4日ぶり

2018年07月08日 21時51分30秒 | 日記

 4日も散歩に行かなかったことは、この数年なかった。

雨が続くときでも、ヤフーで雨雲の動きを見ながら、

なんとか雨の止み間を見つけては、スミレの散歩に行っていた。

それが今回は全く止み間もなくて、散歩に出れず・・・。

それほど今回の雨は長く、ひどかった。



 特に広島、愛媛県の方の被害は甚大だったようで、自然の脅威を感じる。

いろんな要因があるんだろうけど、地球環境のせいだといわれると、

これから先の自然の脅威に思いっきり身構えてしまいそうで、生きにくい気がしてくる。




 とはいえ、久し振りの散歩道。

半夏生やギボウシ。
     

 7月も半ばになろうとして、季節がまた一つ進んだ感がする。

わずか数日の間のことだが、時間は確実に前に進むものと心得ねば、と思う。

これも自然。恵みの草花たちだろうか。


 そして、うちのホウセンカ。雨の水滴に濡れて、ぼちぼち花も終わりに差し掛かってきたかな。
     

 それにしても、地震に大雨。次は何だろう、と少しだけネガティブになってくる。

目の前の自然の草花たちを見ながら、少し時間の進み具合を遅くしてみようか。




はつもの2

2018年06月25日 10時48分54秒 | 日記

 アマゾンで注文していたサクランボが届いた。

佐藤錦、山形・庄内産大玉2L。5月に注文した500グラム。

今年のはつもののサクランボ。色合いは少し紅味が勝っているかな。

もう少し桃色が勝っている方が美しさは際立つかも。でも、美味しそう。

     

 味わうと、程よい肉厚、柔らかさ。そして、酸味と甘さがさわやか。

夕食後のデザートとして少しだけ味見。幸せな気分になった。

     


 ビワのときは、自分ちのものだったが、サクランボは本場の産地のもの。

やっぱり本場のものは違うな、というのが正直な感想。

半端な産物ではなく、キチンと作っているんだろうと思う。


 これで150日くらい、寿命が延びただろうか。

 自然の恵みと、作ってくれた農家さんに感謝。


地震

2018年06月24日 18時05分19秒 | 日記

 夏至が過ぎ、地震からも6日が経った。

当初は、毎日あれだけヘリコプターが飛び回っていたのが

ようやく静かになってきた。テレビの放送も落ち着いてきたけど、

政治家の災害訪問が多くて、これはなんとも嫌な気分。


 お隣の瓦が何枚かうちの方に落ちてきてたのを

境界のブロックの上に並べていたが、

一昨日ようやくその瓦を片付けてくれて、なんとか落ち着いた。

それとともにお隣は、屋根をブルーシートで覆って、雨漏りを防いでいる様子。


近所でも数軒、ブルーシートを掛けている。

       

お聞きすると、瓦自体がないそうで、とりあえず業者さんにブルーシートを掛けてもらってるそうだ。

道路際の塀にも、

       



 阪神淡路のときは、同じ市でも西側の方に住んでいたので、

結構揺れた。そして、今回は市の東側に引っ越して、震源から数キロの距離で、

かなりきつかった。

別に不運とは思わないけど、地震が怖いと、心から感じる。


 ただ、個人的にどっちが怖いかと聞かれれば、

阪神淡路、とこたえると思う。

揺れの大きさは、今回の方がきつかったのかも、と思うけど、

なんせ人生初めての大きな揺れを経験した阪神淡路。

人間の怖い記憶に深く刻まれた経験は、やっぱり心から離れなくて、

増幅してしまっているのかもしれない。

それに激震地の方での被害の甚大さは、今回の比ではなかったから、

その光景が瞼に焼き付いているのも大きいかもしれない。

 恐怖の記憶は、実際の科学的な揺れの度合いというよりも、

感覚的に揺れの恐怖を最初に感じた時の刻まれた恐怖のほうが、

より鮮明に残ってしまうように思う。


 とはいえ、今回の地震の余震は、本当に怖さを感じてしまう。

食器が飛んで割れ、本棚が倒れてガラスが粉々になった家の中。

ようやくガラスの恐怖が去ったものの、今回の地震の特徴、

予兆のない、いきなりの爆発のような揺れは、恐ろしい。

人間、歳と共に保守的になってしまうけど、余震が続いていると、

家に居たくなくなるほど、怖い。



 早く落ち着いて、余震がなくなってくれることを願っている。





関ケ原

2018年06月14日 13時03分13秒 | 日記

 このところ映画(DVD)があまり観れていない。

忙しいということはなくて、ただばあさんとの時間がうまく合わないというだけなんだが、

月4本のDVDのレンタル契約が勿体ないような気がしてくる。


そして、ようやく日曜に観たのが『関ヶ原』。

相変わらず邦画しか観てない。というか、観れない・・・。字幕が苦手で治らない。

この映画はまだ去年の映画で、結構な大作なのだろうが、

感想としては、今一つ面白くなかった。

年齢のせい、という訳ではないと思うが、セリフ回しが早すぎるのと、

ストーリーの展開が早すぎて、ついていけなかったというのがその原因。

わざとそういう手法をする映画なのかな、とも思ったりしたが、

なにせ聴き取れなくて、何を言っているのか分からずに物語が進んでいく。

DVDなので、巻き戻しながら、セリフを確認してみてもいいんだが

そんな映画って、あっていいわけもないし。

巻き戻しをするのはやめて、集中して観る。だが、

段々と場面の意味が分かりにくくなってくる。

諦めて理解が深まらないまま、流して見ていると、

血が流れる怖さだけが際立ってきて、なんとなくつらくなってきた。


映画って、理解できなければ、どんなにいいことを描かれていても、

なにも響かない。

せっかくの司馬遼太郎さんの原作も、キチンと昇華できてなければ、

なんのこともない、単なる学芸会のようなものになってしまう。

垂れ流しの演劇ほど見ていて面白くないものはない、と思う。


 大作のような感じの映像、場面の迫力は感じられたけど、

せっかく時間とお金を掛けるんだったら、もっと違う作り込み方があったんじゃないのかな、

そんなことを観終わって思った映画だった。