『女狙撃兵マリュートカ』
1956年 91分
監督 グリゴーリ・チュフライ
女狙撃兵マリュートカ(1956)
SOROK PERVYI
THE FORTY FIRST
メディア 映画
上映時間 91分
製作国 ソ連
公開情報 劇場公開(独立映画)
初公開年月 1957/03/09
監督 グリゴーリ・チュフライ
脚本 グリゴーリ・コルチュノフ
撮影 セルゲイ・ウルセフスキー
音楽 ウラディミール・クリュコフ
出演 イゾルダ・イズヴィツカヤ
オレグ・ストリジェーノフ
ニコライ・クリューチコフ
カザフ人
『ラクダを取られたらみんな死ぬ』
『取るんじゃない、革命のために一時借りるだけだ』
『旦那、ラクダがないとカザフ人死ぬ』
『俺は旦那じゃない.ラクダがないと俺達も死ぬ』
カザフ人は、金をやる、ラクダは命と同じように大切なのだと訴えたが、赤軍の彼らは聞き入れず、証文を書いてラクダを奪い取ってしまった.
困り果てたカザフ人は、ラクダを取り返したい想いから、出来事を白軍に訴えでたのだった.カザフ人にしてみれば将校の事などどうでも良いことだったのだが、結果として将校が赤軍の捕虜になったことが知れて、白軍の追っ手がかかることに.
そして、その追っ手が、食事の世話をしてマリュートカ達を救った、アラル海の畔に暮すカザフ人のを焼き討ちすることになり、更にはマリュートカが将校からはぎ取って娘にあげた肩章が、カザフ人達が赤軍をかばっている動かぬ証拠になってしまった.
アラル海の畔で暮す部族の酋長は、銃殺を前にして『自分には真理がある.お前には無いと』と言った.
赤軍に真理があって、白軍に真理がない、と思えるけれど、そうでは無さそうだ.
人を助けることには真理があるが、人を殺すことには真理は無い、こう思えるがどうであろうか.
ここで一言触れておこう.マリュートカは、赤軍の戦いは『真理の戦いよ』と言ったのだが、本当にそうなのか.人を殺すことに真理はないと思うのだが.
マリュートカと詩
百姓の生まれのマリュートカは詩を書こうとするが、上手くかけないで居た.
戦場で、皆が寝てしまった頃になっても、必死に詩を書いているマリュートカの姿に、将校は心打たれるものがあったのであろう.
『読んでごらん』と、将校は言うが、
『貴族には解りゃしないよ、花や女の詩ならともかく、革命の詩なんだもの』、赤軍の事を書いた詩は白軍の将校には解らないというマリュートカ.
『そうかもしれないが、人間どうしならわかるよ』この言葉に、マリュートカは教育のある将校に、自分の詩を聞いてもらうことにした.
マリュートカは自分たちの戦いを勇敢に讃え、情熱的に綴った詩を読んだのだが、
『後がつづかない、ラクダのくだりをなんとしようか』、最後を書けないでいるのだった.
将校は、一度咳払いをして躊躇いながらも、『情熱的だよ』と、彼女の詩を評したのだけど.赤軍の戦いを賛美する詩を、白軍の将校が評価する気になれなかったのは当然のこととしても、彼が躊躇いながら『情熱的だよ』と言ったのは、果たしてそれだけの理由だったのか?.
詩とは、どの様なものなのか?
『心を込めて書いた』と、マリュートカは言った.そして、将校が『橋を作には勉強が必要な様に、詩を作るにも勉強が必要だ』と言うと、
『橋には学問が必要だけど、詩は胸にあるものよ』と、彼女は言い返したのだけど.
詩とは純真な心の表現であり、この点に関しては、マリュートカの言うとおりであろう.
マリュートカはラクダの出来事を書けずに悩んでいたが、赤軍の都合だけでカザフ人からラクダを奪った行為に、純真な心があったであろうか.ラクダを奪った行為に、真理も存在しなければ、詩に書けるような純真な心も存在しない、詩に書けなくて当然であったと言える.
今一度、重ねて書いておこう.
『人間どうしならわかるよ』と将校に言われて、マリュートカは詩を読んで聞かせたのである.マリュートカも、詩とは『胸にあるもの』であり『人間どうしなら分る』ものと、考えていたはずだ.
『ラクダを取られたらみんな死ぬ』
『取るんじゃない、革命のために一時借りるだけだ』
『旦那、ラクダがないとカザフ人死ぬ』
『俺は旦那じゃない.ラクダがないと俺達も死ぬ』
ラクダを奪い取った行為に、人間どうしが分かり合えるものがあったかどうか?.そんなものはありはしない.
マリュートカと将校
離れ島でマリュートカと将校は二人きりになった.
マリュートカは、ロビンソン・クルーソーの話を夢中になって聞いた.
『僕でも、生まれつき将校だったわけではない』、話し終えて将校は言ったが、マリュートカも生まれつき狙撃へだったわけでもないはず.
子供の頃は文学に夢中だった将校と、詩の勉強をしたいマリュートカ.例え敵であっても、人間同士として話し合えば、理解し合えるものがあった.
愛し合った二人、
『何と馬鹿げたことだ』
『何を言ってるの』
『27年間生きて理想を求めて歩き廻ったが、こんな所でもっとも満ち足りた日が、過ごせるとは思いもよらなかった』
『どんな日?』
『満ち足りた日だよ』
『簡単に言って上げる.私は幸福よ』
例え敵であっても、人間同士として話し合えば、理解し合えるものがあった.
あったはずなのだが.....
好き合った男女が幸せに暮らすこと、それが何よりも大切なこと、それが幸福の基礎なのだけど.
『私は幸福よ』と彼女は言ったが、けれどもマリュートカには幸福とはどの様なことか、本当に分かったのだろうか?
『ずーっとこうして陽に当たっていられたら』
『そんな時代じゃないわ.戦って血を流しているときに』
『未だ戦うのか』
『もちろんよ』
『僕はもうたくさんだ.血と憎しみの数年間.第一次大戦、国内戦争.悪夢だ』
『真理の戦いよ』
『真理、糞くらえ.空虚だ、荒廃だ、滅亡だ.無数の真理、ドイツの真理、ロシヤの真理、百姓の貴族の』
愛し合った二人だったのに、けれども、戦争の話になった途端に喧嘩になって、互いに罵りあった.
馬鹿げたことだ、忘れよう、互いにそう話し合っても、それでも、やはり戦争の話になると喧嘩になってしまった.
『分ったとも、君のおかげだ.まだ老い込むのは早い.生きて行かなくちゃ.歯をとぎすまして食いついてやるんだ』
『分ってくれたの』
『そうだとも、本ばかり読んでいられない.君たちに任せておいたら、どうなるか分りゃしない』
最後には、根負けしたのであろう、将校はマリュートカの考えに理解を示したかに見えたのだが.
けれども彼は、やって来た船が白軍の船だと知ると、喜び勇んで駆け出した.....
良く考えてみると、マリュートカと将校の会話は、赤軍の兵士と白軍の将校の対立ではなく、赤軍の女兵士と戦争が嫌になった一人の男の対立になっている.そして、もう戦争は沢山だと言っていた将校が、マリュートカに根負けして、もう一度戦争をする気になった、その時、船がやって来て、その船は白軍の船だったので.....と言う出来事である.
マリュートカは、もう戦争は嫌だと言う将校に、『それは許されない、真理の戦いをしろ』と責めた.一度は赤軍の言う『真理の戦い』をする気になった将校だったが、彼の言葉によれば、戦争の真理とは、自分を正しいと言い張る為の都合の良い言い草に過ぎず、それぞれの立場毎に無数に存在するものなので、白軍の船と知って駆け出した将校の行動は、立場が変わったがための矛盾のない行動であったと思える.
『自分の真理だけで沢山だ.手を汚したくない』(将校)
『他のやつに汚させて』(マリュートカ)
『好きなやつには、やらせておけ』(将校)
もう一度書こう.人殺しには真理は存在しない.人を助けること、人を守ること、あえて言えば幸せを守ることに、真理は存在するはずだ.
少なくともマリュートカの言う『真理の戦争』には、何も正当性がなく、正しいものは何もない.重ねて書けば、マリュートカの言う真理とは、自分を正当化するための言い草に過ぎないのであり、将校は、もう戦争は嫌だ、やりたいやつがやれと言ったのだけど、この点においては、彼の言っていることは正しいと言わなければならない.
そして、ラクダを奪い取った遊牧民にしろ、アラル海の畔に暮す部族にしろ、彼らは戦争とは無縁の暮らしをしていたのであり、彼らを戦争に巻き込んではならなかったと言える.
銃を持っているならば、銃を持たない者達を守ってやるのは、食べ物を持っている者が、お腹を空かせている者達に食べ物を与えることと同じことだと思うが.
狙撃兵マリュートカ
マリュートカは敵兵を狙撃する度に、『やった』と喜んだ.
『将校を狙え』
41番目、いったんは喜んだマリュートカだったが、打ち損なったことを知って悔しがった.
マリュートカは戦争だから敵兵を撃ち殺すことは当然であり、沢山の敵を撃ち殺したことを自慢に思っていたのであろうが.
彼女は、打ち損ねた将校と愛し合うことになったことを、どう思っていたのであろうか.
『真理の為に戦う』と、彼女は言った.そして『人間どうしなら分かり合える』はずの、詩が好きなマリュートカだったのだけど.
彼女は自分が正しいと信じきっていた.将校の言うことには全く聞く耳を持たなかった.詩が好きな彼女なら『人間どうしなら分る』ものがあるはずなのに、将校の言うことは敵が言うことだと決めつけて、将校が何を言っているのか考えようともしなかったようだ.
マリュートカは自分の行っている人殺しが悪いことだとは、全く考えもしなかった.恋人を撃ち殺してしまってから、やっと人を殺すことが悪いことであり、戦争とは悪いことなのだと気がつくことになったマリュートカだった.
マリュートカは、恋人を撃ち殺して、やっと人殺しが悪いことだと気がついた.
敵であろうが味方であろうが、人を助けることに真理はある.
人殺しに真理は存在しない.
『戦争は善と悪の間で行われる』
.....ジャン・ルノワール『河』より
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川中島の戦い、桶狭間の戦い、関ケ原の戦い、天王山の戦い、
日本の戦国時代の戦、内乱は人里離れた山の中、原野で行われている.
武士、つまり戦争が好きな奴等が、戦争に興味の無い人を巻き込まないように考えて戦っているのである.
普通の人々にとって戦とはどの様なことだったのか?.
殿様が変わるだけの話であり、良い殿様になってくれるよう願うだけである.
1956年 91分
監督 グリゴーリ・チュフライ
女狙撃兵マリュートカ(1956)
SOROK PERVYI
THE FORTY FIRST
メディア 映画
上映時間 91分
製作国 ソ連
公開情報 劇場公開(独立映画)
初公開年月 1957/03/09
監督 グリゴーリ・チュフライ
脚本 グリゴーリ・コルチュノフ
撮影 セルゲイ・ウルセフスキー
音楽 ウラディミール・クリュコフ
出演 イゾルダ・イズヴィツカヤ
オレグ・ストリジェーノフ
ニコライ・クリューチコフ
カザフ人
『ラクダを取られたらみんな死ぬ』
『取るんじゃない、革命のために一時借りるだけだ』
『旦那、ラクダがないとカザフ人死ぬ』
『俺は旦那じゃない.ラクダがないと俺達も死ぬ』
カザフ人は、金をやる、ラクダは命と同じように大切なのだと訴えたが、赤軍の彼らは聞き入れず、証文を書いてラクダを奪い取ってしまった.
困り果てたカザフ人は、ラクダを取り返したい想いから、出来事を白軍に訴えでたのだった.カザフ人にしてみれば将校の事などどうでも良いことだったのだが、結果として将校が赤軍の捕虜になったことが知れて、白軍の追っ手がかかることに.
そして、その追っ手が、食事の世話をしてマリュートカ達を救った、アラル海の畔に暮すカザフ人のを焼き討ちすることになり、更にはマリュートカが将校からはぎ取って娘にあげた肩章が、カザフ人達が赤軍をかばっている動かぬ証拠になってしまった.
アラル海の畔で暮す部族の酋長は、銃殺を前にして『自分には真理がある.お前には無いと』と言った.
赤軍に真理があって、白軍に真理がない、と思えるけれど、そうでは無さそうだ.
人を助けることには真理があるが、人を殺すことには真理は無い、こう思えるがどうであろうか.
ここで一言触れておこう.マリュートカは、赤軍の戦いは『真理の戦いよ』と言ったのだが、本当にそうなのか.人を殺すことに真理はないと思うのだが.
マリュートカと詩
百姓の生まれのマリュートカは詩を書こうとするが、上手くかけないで居た.
戦場で、皆が寝てしまった頃になっても、必死に詩を書いているマリュートカの姿に、将校は心打たれるものがあったのであろう.
『読んでごらん』と、将校は言うが、
『貴族には解りゃしないよ、花や女の詩ならともかく、革命の詩なんだもの』、赤軍の事を書いた詩は白軍の将校には解らないというマリュートカ.
『そうかもしれないが、人間どうしならわかるよ』この言葉に、マリュートカは教育のある将校に、自分の詩を聞いてもらうことにした.
マリュートカは自分たちの戦いを勇敢に讃え、情熱的に綴った詩を読んだのだが、
『後がつづかない、ラクダのくだりをなんとしようか』、最後を書けないでいるのだった.
将校は、一度咳払いをして躊躇いながらも、『情熱的だよ』と、彼女の詩を評したのだけど.赤軍の戦いを賛美する詩を、白軍の将校が評価する気になれなかったのは当然のこととしても、彼が躊躇いながら『情熱的だよ』と言ったのは、果たしてそれだけの理由だったのか?.
詩とは、どの様なものなのか?
『心を込めて書いた』と、マリュートカは言った.そして、将校が『橋を作には勉強が必要な様に、詩を作るにも勉強が必要だ』と言うと、
『橋には学問が必要だけど、詩は胸にあるものよ』と、彼女は言い返したのだけど.
詩とは純真な心の表現であり、この点に関しては、マリュートカの言うとおりであろう.
マリュートカはラクダの出来事を書けずに悩んでいたが、赤軍の都合だけでカザフ人からラクダを奪った行為に、純真な心があったであろうか.ラクダを奪った行為に、真理も存在しなければ、詩に書けるような純真な心も存在しない、詩に書けなくて当然であったと言える.
今一度、重ねて書いておこう.
『人間どうしならわかるよ』と将校に言われて、マリュートカは詩を読んで聞かせたのである.マリュートカも、詩とは『胸にあるもの』であり『人間どうしなら分る』ものと、考えていたはずだ.
『ラクダを取られたらみんな死ぬ』
『取るんじゃない、革命のために一時借りるだけだ』
『旦那、ラクダがないとカザフ人死ぬ』
『俺は旦那じゃない.ラクダがないと俺達も死ぬ』
ラクダを奪い取った行為に、人間どうしが分かり合えるものがあったかどうか?.そんなものはありはしない.
マリュートカと将校
離れ島でマリュートカと将校は二人きりになった.
マリュートカは、ロビンソン・クルーソーの話を夢中になって聞いた.
『僕でも、生まれつき将校だったわけではない』、話し終えて将校は言ったが、マリュートカも生まれつき狙撃へだったわけでもないはず.
子供の頃は文学に夢中だった将校と、詩の勉強をしたいマリュートカ.例え敵であっても、人間同士として話し合えば、理解し合えるものがあった.
愛し合った二人、
『何と馬鹿げたことだ』
『何を言ってるの』
『27年間生きて理想を求めて歩き廻ったが、こんな所でもっとも満ち足りた日が、過ごせるとは思いもよらなかった』
『どんな日?』
『満ち足りた日だよ』
『簡単に言って上げる.私は幸福よ』
例え敵であっても、人間同士として話し合えば、理解し合えるものがあった.
あったはずなのだが.....
好き合った男女が幸せに暮らすこと、それが何よりも大切なこと、それが幸福の基礎なのだけど.
『私は幸福よ』と彼女は言ったが、けれどもマリュートカには幸福とはどの様なことか、本当に分かったのだろうか?
『ずーっとこうして陽に当たっていられたら』
『そんな時代じゃないわ.戦って血を流しているときに』
『未だ戦うのか』
『もちろんよ』
『僕はもうたくさんだ.血と憎しみの数年間.第一次大戦、国内戦争.悪夢だ』
『真理の戦いよ』
『真理、糞くらえ.空虚だ、荒廃だ、滅亡だ.無数の真理、ドイツの真理、ロシヤの真理、百姓の貴族の』
愛し合った二人だったのに、けれども、戦争の話になった途端に喧嘩になって、互いに罵りあった.
馬鹿げたことだ、忘れよう、互いにそう話し合っても、それでも、やはり戦争の話になると喧嘩になってしまった.
『分ったとも、君のおかげだ.まだ老い込むのは早い.生きて行かなくちゃ.歯をとぎすまして食いついてやるんだ』
『分ってくれたの』
『そうだとも、本ばかり読んでいられない.君たちに任せておいたら、どうなるか分りゃしない』
最後には、根負けしたのであろう、将校はマリュートカの考えに理解を示したかに見えたのだが.
けれども彼は、やって来た船が白軍の船だと知ると、喜び勇んで駆け出した.....
良く考えてみると、マリュートカと将校の会話は、赤軍の兵士と白軍の将校の対立ではなく、赤軍の女兵士と戦争が嫌になった一人の男の対立になっている.そして、もう戦争は沢山だと言っていた将校が、マリュートカに根負けして、もう一度戦争をする気になった、その時、船がやって来て、その船は白軍の船だったので.....と言う出来事である.
マリュートカは、もう戦争は嫌だと言う将校に、『それは許されない、真理の戦いをしろ』と責めた.一度は赤軍の言う『真理の戦い』をする気になった将校だったが、彼の言葉によれば、戦争の真理とは、自分を正しいと言い張る為の都合の良い言い草に過ぎず、それぞれの立場毎に無数に存在するものなので、白軍の船と知って駆け出した将校の行動は、立場が変わったがための矛盾のない行動であったと思える.
『自分の真理だけで沢山だ.手を汚したくない』(将校)
『他のやつに汚させて』(マリュートカ)
『好きなやつには、やらせておけ』(将校)
もう一度書こう.人殺しには真理は存在しない.人を助けること、人を守ること、あえて言えば幸せを守ることに、真理は存在するはずだ.
少なくともマリュートカの言う『真理の戦争』には、何も正当性がなく、正しいものは何もない.重ねて書けば、マリュートカの言う真理とは、自分を正当化するための言い草に過ぎないのであり、将校は、もう戦争は嫌だ、やりたいやつがやれと言ったのだけど、この点においては、彼の言っていることは正しいと言わなければならない.
そして、ラクダを奪い取った遊牧民にしろ、アラル海の畔に暮す部族にしろ、彼らは戦争とは無縁の暮らしをしていたのであり、彼らを戦争に巻き込んではならなかったと言える.
銃を持っているならば、銃を持たない者達を守ってやるのは、食べ物を持っている者が、お腹を空かせている者達に食べ物を与えることと同じことだと思うが.
狙撃兵マリュートカ
マリュートカは敵兵を狙撃する度に、『やった』と喜んだ.
『将校を狙え』
41番目、いったんは喜んだマリュートカだったが、打ち損なったことを知って悔しがった.
マリュートカは戦争だから敵兵を撃ち殺すことは当然であり、沢山の敵を撃ち殺したことを自慢に思っていたのであろうが.
彼女は、打ち損ねた将校と愛し合うことになったことを、どう思っていたのであろうか.
『真理の為に戦う』と、彼女は言った.そして『人間どうしなら分かり合える』はずの、詩が好きなマリュートカだったのだけど.
彼女は自分が正しいと信じきっていた.将校の言うことには全く聞く耳を持たなかった.詩が好きな彼女なら『人間どうしなら分る』ものがあるはずなのに、将校の言うことは敵が言うことだと決めつけて、将校が何を言っているのか考えようともしなかったようだ.
マリュートカは自分の行っている人殺しが悪いことだとは、全く考えもしなかった.恋人を撃ち殺してしまってから、やっと人を殺すことが悪いことであり、戦争とは悪いことなのだと気がつくことになったマリュートカだった.
マリュートカは、恋人を撃ち殺して、やっと人殺しが悪いことだと気がついた.
敵であろうが味方であろうが、人を助けることに真理はある.
人殺しに真理は存在しない.
『戦争は善と悪の間で行われる』
.....ジャン・ルノワール『河』より
--------------------------------------------------------
川中島の戦い、桶狭間の戦い、関ケ原の戦い、天王山の戦い、
日本の戦国時代の戦、内乱は人里離れた山の中、原野で行われている.
武士、つまり戦争が好きな奴等が、戦争に興味の無い人を巻き込まないように考えて戦っているのである.
普通の人々にとって戦とはどの様なことだったのか?.
殿様が変わるだけの話であり、良い殿様になってくれるよう願うだけである.