映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

フレンチカンカン (ジャン・ルノワール 1954年 104分 フランス)

2013年01月18日 08時07分17秒 | ジャン・ルノワール
『フレンチカンカン』 (1954年 104分 フランス)

監督  ジャン・ルノワール
脚本  ジャン・ルノワール
撮影  ミシェル・ケルベ
    クロード・ルノワール
音楽  ジョルジュ・ヴァン・パリス

出演
ジャン・ギャバン
フランソワーズ・アルヌール
マリア・フェリックス
フィリップ・クレイ
ミシェル・ピッコリ
ジャンニ・エスポジート
エディット・ピアフ
シュジー・プリム
ヴァランティーヌ・テシエ


恋愛と仕事、と言うより嫉妬と仕事、嫉妬によって仕事が頓挫しながらも、恋愛によって仕事が成し遂げられる成り行き.
恋愛が大切か仕事が大切かは人それぞれ.
夢、希望を抱かせる仕事を何より大切にして生きる者たちを描いた映画.
なのだけど、この描き方で、仕事も恋愛も同じように大切なもの、になるのかどうか?
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恋愛、仕事、お金.

ニニ
洗濯女、つまり夢も希望もなく、ただお金のために働いているだけの毎日.その生活から抜け出すためなら、体を与えてでもダンサーになりたかった.

ローラ
白い女王と呼ばれているけど、パトロンがいっぱい居てお金には困らない.彼女は好きな男ダングラールと一緒に暮らすことに、恋愛にあこがれているのね.

執達吏の助手の男
彼は平凡な執達吏の仕事より、歌手になりたかった.お金に困らない生活より、自分のやりたいことをやる道を選んで、ダングラールの元で仕事をすることにした.

銀行家達
彼らの仕事はお金を儲けること.

何処かの国の王子
彼はお金には困らない.ニニとの恋愛に命をかけたのだけど、うぬぼれていた自分に気づき、我に返って、王の仕事に生きる決心をした.

スリの仲間
まさにお金だけが目的の仕事.

パン屋の彼
彼は平凡な生活、恋愛に生き甲斐を求める、と言って良いのでしょうか.

これくらいで良いでしょう.さてダングラール.
「大切なのは客を楽しませることだ.悲しいのは客が怒るからじゃない.いい団員を失うからだ」彼はニニに、こう言う.客が怒る、お金が入らなくなるのではなくて、いい団員を失う、良い仕事ができなくなる、そのことが悲しい、こう言っているのね.

もう一度書けば、なぜニニがダンサーを選んだかと言えば、洗濯女の仕事から抜け出したかったから.お金だけではない、夢、希望を持って仕事をすること、そこに大切なものがある.勿論、恋愛を選ぶか仕事を選ぶかは人それぞれなのだけど、夢、希望を持って仕事をすることは、恋愛と同じように大切なこと、こう言って良いでしょう.
ニニの彼がパン屋だから悪い、などというものは何も無い.けれども、ニニの友達が才能がなくてダンサーに採用されなかったのだけど、自分の才能を生かした仕事をする、そこに大切なものがある.時としてそれがために恋愛より仕事を選ぶとしても、それを邪魔してはいけない.
恋愛-嫉妬-お金に困る-仕事がとまる.恋愛-嫉妬-仕事が嫌(嫉妬から踊りたくないとすねた).仕事と恋愛は別なこと、嫉妬から仕事の邪魔をしてはいけない.同様に嫉妬から踊ることを拒むのも間違っている.

ニニと王子のデートに絡めて、シャンソン歌手その他、ベテランの芸人が数人描かれましたが、彼らは皆、役者と言う仕事に生き甲斐を求める者たちであった、こう言って良いはず.
主演の女優アルヌールもまた、役柄のフェレンチカンカンの踊りを、映画の中で描かれたように覚え、一ヶ所のみスタントマンの代役、それ以外は自らこなしたことが自慢だそうなのですが、そのこと自体が、仕事に生き甲斐を求める姿そのものと言える.こう考えると、この映画の最後の、フレンチカンカンを踊るシーンは演技ではなく、仕事に生き甲斐を求める役者たちの姿そのものである、役者たちの自分自身を描いた映画であったと言わなければなりません.

貴族が気がねなく娼婦と遊べるとか、女の子がパンティを見せて踊ることとか、飛び跳ねる女の子の下に寝転がったり、決して上品とは言えないのですが.(決して下品に思わせないところが上手い)
決して、高尚な職業と言えないかも知れないけれど、けれども、楽しいことも辛いこともあったけれど、お金を稼ぐのだけが目的ではなく、皆、役者という仕事に、夢、希望を、生きがいを持って生きてきました、と、ジャン・ルノワールは言っているのでしょう.

ジャン・ルノワールは父親の絵を売って、自分でお金を作り『女優ナナ』を撮りました.そして公開した場所がムーランルージュでしたが、評価はさんざんでした.
シュトロハイムの真似をしてひどい目に遭ったと、ジャン・ルノワールは言っています.シュトロハイムは制作者のお金を使い放題に使って映画と撮りました.失敗したら間違いなく破産なのでシュトロハイムは首になったのですが、ジャン・ルノワールは自分のお金で映画を撮り、さんざんな目に遭った思い出の場所が、ムーランルージュでもあったのです.
けれども、彼の作品を観れば解るとおり、エミール・ゾラの影響は大きく、あの時『女優ナナ』を撮ったからこそ、今の自分があるのだ、ジャン・ルノワールはこう考えて、フレンチカンカンを撮っていると思われてなりません.

さて、役者の世界を描いたこの映画、最後のカンカンのシーンは登場する役者たち、自分たちを描く映画と知っているから、皆、楽しそうで生き生きしている.
決して高尚な職業とは言えないだろうけど、愚劣な職業と非難されるかも知れないけれど、けれども皆、好きな仕事、役者という仕事に一生懸命になって生きてきたのです.....











ボヴァリー夫人 - MADAME BOVARY - (ジャン・ルノワール 1933年 フランス 99分)

2013年01月18日 07時09分00秒 | ジャン・ルノワール
ボヴァリー夫人 (MADAME BOVARY) -1933年 フランス 99分-

監督  ジャン・ルノワール
原作  ギュスターヴ・フローベール
脚本  ジャン・ルノワール
音楽  ジュゼッペ・ベッチェ

出演  ヴァランティーヌ・テシエ
    ピエール・ルノワール
    アリス・ティッソ
    エレナ・マンソン


190分の編集の作品が、興業の都合で99分にきられてしまい、辛うじて話の筋書きが分かるかどうか、それすら怪しいと言うべきか.結果として断片的な出来事の連なりだけで、感じた心で描かれた出来事を考える、そうした心の連なりは望むべくもない.これでは映画ということはできず、ジャン・ルノワールの映画、として捉える物は何も無いと思える.
幸いにして、私は原作を読んでいないので、原作に惑わされることはなく、何とか映画を観てと言う観点で書けそうなので、お金を払って買ってしまった、その分くらいは書いておこう.

田舎の娘にしては過ぎた美貌に恵まれた女性と言うべきか、農場の一人娘のエンマは、片田舎では名士と言える、医者のシャルルと恋に落ちる.妻のいるシャルルに色目を使って誘惑したと言うべきなのだけど、盲人の歌にある『たまには晴れた日の陽気が、娘っ子に恋を夢見させるとさ』、この意味で、恋で良いでしょう.
やがてシャルルの妻は病死して、エンマとシャルルは結婚する.
田舎の暮らしよりも、街(都会)の暮らしに憧れ、社交界の華やかな暮らしを夢見るエンマは、金持ちの貴公子ロドルフと恋に落ちる.けれども、夫の破産を予想してロドルフに駆け落ちを持ちかけたエンマは、彼に捨てられる.
ルーアンの街で再会したレオンと、エンマは恋に落ち、毎週ルーアンに出かけ週に一度の密会に明け暮れることになる.レオンは若い美男子、やがて彼は別の女性と結婚することになる、そうした想いを抱きつつも.

出入り商人のルルウに対する負債によって破産したエンマは、レオンにお金の工面を依頼するけれど、敵わず、別れる.若い彼に金の工面は無理、お金の切れ目が縁の切れ目と言って良いのか.
エンマはロドルフを訪れ、彼は再会を喜ぶのだけど、エンマがお金の無心をしに来たのを知ると、態度を変えた.金は無いの一点張りで、取り合ってくれないロドルフに、これは銀、これは金にダイヤモンド、叫びながら部屋の中の調度品を投げつける.
わざと、私は描かれた順序を変えたのだけど.エンマは公証人ギヨマンを訪れる.彼はお金の件は了承したのだけれど、条件は体と引き換えであった.

エンマの女性としての魅力は、ロドルフにとっては全くお金を工面するのに値しなかった.(金は無いの一点張り)
他方、ギヨマンは体と引き換えに、金を用意すると言ったのだけど、エンマは体は売らないと拒否し、自ら死を選ぶ.

エンマの女性としての魅力、美貌は、ある者にとっては一文の値打ちもなく、ある者にとっては、8000フランの価値があったのだけど.
エンマは体は売らないと拒否し、自ら死を選ぶのだけど、彼女の死は、人にはお金に変えることのできない大切なものがあるはず、こう訴えかけると共に、お金によって幸せを夢見た彼女自信が、お金に換えることのできない大切なものを、全く持ち合わせていなかったことを物語る.
彼女がお金と引き換えに身体を与えるのを拒んだのも、以前に関係があった好しみでお金を無心した相手が、お金を拒んだのも同じことである.身体と引き換えにお金を望んではいけないと、彼女自身が言ったのであるから.
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旧態依然とした司祭に対して、例えば薬屋のオメは新しい物の考え方を示す.イポリットに手術を勧めるのも、ある意味でその一つとも言えるのだけれど.
農事共振大会で長年真面目に勤め上げた、老婦人が表彰される.彼女は貰ったお金を全部、教会に寄進するという.決して彼女はお金のためだけに、長年働いてきたのではない.
手術は失敗した.手術前にイポリットは、「何も困ってはいない」こう言っていたのだけど、今の状態に満足しているのなら、無理に手術する必要はなかった.
決して、新しい技術、新しい物の考え方を拒否するものではないのだけど、それよりも、新しかろうが古かろうが、自分の満足の行く生き方を求めること、そこに、お金で買えない大切な物があるはず、こう問いかけているのでしょう.

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2016/02/25 追記

上流階級とは金持ち、上流階級の生活に憧れて、夫人は貴族のプレーボーイと関係を持った.
次に彼女は、若い男に貢いだ.彼女はお金によって幸せを得ようとしたのだが.
お金によって幸せに慣れるかどうか、それは彼女自身が示したと言える.公証人に身体を与えれば、相手は必要なだけのお金をくれると言ったのだけど、彼女は拒否して死の道を選んだのだった.
お金のために嫌いな男と関係をもつのは嫌、お金のために不幸な思いをするのは嫌だった.
こう考えると、実に単純明瞭な答えが求まる作品でした.
『奥様のためです.皆していることですから』、この小間使いの言葉をどう捕らえるか、そんな風に考えると解らなくなってしまうけど.

夫は妻を幸せにしようと頑張って仕事をして、無理な手術を行って失敗してしまった.他方、夫人は夫が頑張れば頑張るほど、上流階級の生活、お金で幸せを求める生活にのめり込んでいってしまった.
『あなたは良い人よ』、今際の際に夫人はこう言う.夫を良い人だと思い、そして自分の過ちを反省したのなら、全ての財産を失ったにしても、二人で生活をやり直す道が残されていたはず.にもかかわらず、彼女は死の道を選んだ.
夫が手術に失敗したときもそうであった.訴えられるかも知れない、損害賠償を求められるかも知れない、そう思った夫人は貴族の男に連れて逃げてくれと頼んだ.
夫人は、お金で苦労をすることが出来ない人間.夫と一緒に苦労して苦難を乗り越えることが出来ない人間で、このような人は夫がどんなに努力をしても、残念ながら幸せにすることは出来ないと言わざるを得ない.
逆に考えれば、共に努力して苦難を乗り越えて行く、そこに幸せがあるはずで、お金が沢山あった方が良いに決まっているけど、お金その物に幸せがあるわけではない.

そして、もう一つ付け加えれば、
お金にしか幸せを求めることが出来ない世の中、あるいは、生活のためにお金を稼ぐことに必死にならなければならない世の中は、不幸な世の中だと言える.

仮面/ペルソナ (イングマール・ベルイマン)

2013年01月18日 06時42分01秒 | イングマール・ベルイマン
(1967 82min)

患者の女はオブジェ、直接的な意味を持って描かれるのは看護婦の女の方.
優しく看護するのだけれど、ともすれば残酷に傷つける.
最初は恥じらいながらも少年との快楽にふけり、結果として子供をおろす.かと思えば一人の男を愛することを、幸せな結婚を夢見る.
どちらが患者でどちらが看護婦か、二人の良く似た女が交錯して描かれる.どちらがどちらでも同じこと.誰でも優しい面と残酷な面を持ち合わせている.一人の人間が持つ二面性、どちらもが一人の人間.

野いちご (イングマール・ベルイマン)

2013年01月18日 05時12分08秒 | イングマール・ベルイマン
(1957 90min)

針のない時計は時を刻みはしない.時が経過しない、年を取らない、つまりは死にはしない.けれども、死にはしないと言うことは、逆に言えば生きているとは言えないことを意味するのでは.

おまえは生きていながら死んでいるのだ、と棺桶のなかの自分が生きている自分に手を伸ばす夢.
野いちごにまつわる恋愛相手の女性への想い.記憶の中にあるその女性は若く美しい姿のままで変わりはしない.悲恋に終わった恋愛の相手の女性を、彼は変わることなく心に抱き続けて生きてきたらしい.時が経過しないもの、変わらないものは生きているとは言えない.つまり、自分の恋い焦がれた若く美しい女性の姿を抱き続けてきた彼の人生は、生きてきたとは言えないのではないか.先に結論が来てしまったようですが、それを考えさせるように、考えさせるように、車の旅の巡り会い、あるいは息子夫婦の出来事が描かれているのね.

私は、若い頃の想い出をそのまま抱いていることが決して悪いことだとは思いません.昔好きだった相手と同じように、今、自分の目の前に居る相手を好きになって生きて行けば、何も悪いことではないはずです.この点が描かれた男は違うようです.失恋の思いをきちんと消化しないで生きてきた.辛いものだと自覚しようとしなかったのではないのか.妻の浮気の現場を目撃しても妻を責めたりしなかった、この事実から、彼は辛い現実から逃避して、おそらくは学術的な研究に没頭することに逃避して、生きてきたのであろうと思います.
失恋によって男女関係に生き甲斐を求めることができなくなった彼は、仕事に、研究にのみ生き甲斐を求め、冷えきった夫婦関係、歪んだ結婚生活を送ってきた.その家庭で育った彼の子供は、彼と同じように医者なのだけど、学費を父親に返済することだけが目的、夢も希望も何も無い人生観を抱いていた.

議論、口論、時にはつかみ合いの喧嘩になることもある.女の子一人と男の子二人の旅姿は、楽しく生きるとはどのようなことか示している.辛いことを辛いと捉え、悲しいことを悲しいと捉えるとき、楽しいことを楽しいと捉えることができる.我慢に我慢を重ねただけの人生が楽しいはずはない.

旅の道連れの女の子、行く先、二人のどちらと一緒になるのだろうか.どちらにしても彼らは彼らなりに楽しく生きている.思い返せば自分の好きだった彼女も、彼女なりに楽しく幸せな人生を送ったように思える(楽しくピアノを弾くシーン).それに対して自分の人生は.

彼とメイドの会話.
「もう何十年も一緒に居るのだから、もっと気安く呼んでくれたらいいじゃないか」
「ご用がおありでしたらいつでもお越しください.鍵はかけずに置きます」
もう、互いに歳なんだからそれを認めて楽しく生きようじゃないか.何十年も一緒に暮らしてきて、実際に夫婦と変わらない生活をしてきたのだから.

女の子の連れの二人、一人は医者の卵で神を信じない、今一人は神学生.この二人がつかみ合いの喧嘩になった.つまり二人とも悪いやつ.神を信じても信じなくても同じこと.
老医師とメイドは、夫婦同様の生活を続けてきた.妻でも、メイドでも同じこと.
あの息子、もうお爺さんになった父親に、学費を返しても、返さなくても?????