映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

戦争を描いた映画

2013年01月27日 15時08分47秒 | 雑記帳
グリゴーリー・チュフライ
『女狙撃兵マリュートカ』
戦争、人殺しに、理念、真理は存在しない.人間どうしで分かり合えるもののない行為である.

ルネ・クレール
『巴里の屋根の下』
どの様にして相手に勝つか、争いに勝つことを考えれば、結果はより悲惨になるだけである.
どの様にして争いを避けるのか、それを考えなければならないはず.

ジャン・ルノワール
『大いなる幻影』
戦争は貴族という特別な人間の役目であった.普通の人間は、平和を求めることを考えるべきである.

『ラ・マルセイエーズ』
(第二次世界大戦を前にして)、今一度、戦争とはどの様なことか考えろ.なんのために戦うのか考えろ.

『自由への戦い(この土地は私のもの)』
教育者が正しい教育を続ける限り、真の侵略はあり得ない.決して民主主義は失われはしない.

『河』
戦争で負傷した方達も、夢、希望を持って生きていって欲しい.

『黄金の馬車』
貴族の権力の象徴であった植民地を、民主主義に時代に普通の国民が欲しがる行為は、欲張りに外ならない.

ルキノ・ヴィスコンティ
『地獄に堕ちた勇者ども』
普通に時代、狂気の時代でないならば、権力者に服従してはならない.
しかし、狂気の時代では、権力者に服従しないと殺されてしまう.
けれども、狂気の時代であっても、権力者に屈服してはならない.
すなわち、自ら狂気をはたらく人間になってはならないのだ.

チュフライの『誓いの休暇』は描かれたとおりで、却って書きにくいのですが、戦争を描いた映画の残りは、後3作、頑張って書こう.

間違っても中国と戦争をしようなんて考えないこと.降服すればよい話です.
経済的侵略、企業買収にあえば、工場の設備だけでなく、特許等の知的財産も相手に渡ることになるのですが、戦争で侵略されても、知的財産は失われることはありません.
どんな時代でも、相手に屈服することはあってはならない、それだけのことのはずです.

ラ・マルセイエーズ (ジャン・ルノワール 1938年 フランス)

2013年01月27日 13時19分22秒 | ジャン・ルノワール
『ラ・マルセイエーズ』
1938年 133分 フランス

監督  ジャン・ルノワール
脚本  ジャン・ルノワール
撮影  ジャン=セルジュ・プルゴワン
    アラン・ドゥアリヌー
音楽  ジョセフ・コズマ

出演
リーズ・ドラマール
ルイ・ジューヴェ
ナディア・シビルスカイア
ジュリアン・カレット
エドゥアール・デルモン
ピエール・ルノワール


愛国心
『国家とは全フランス人の友愛的結合体です.あなたであり私であり、あの漁船の漁師も』
『革命家にとって、平和な行動こそ、銃に勝る武器だ』

まず、ルイ16世から.
『大義名分は捨てなさい.武器をおけば平和な暮らしが出来る.戦えば悲劇が続く』
これは最後まで城を守り続けようとする兵に、降伏を呼びかけるアルノーの言葉でした.
パリの議会の代表が国王に降服を勧告するためにやってきた.貴族たちは『国王万歳..我が王よ.神が遣わせし者よ.君臨する唯一の者』と歌うのだけど、城を守る兵の多くは『国家万歳』を叫ぶ.誰から見ても勝ち目のない戦いであり、戦ってもいたずらに犠牲者を増やすだけの事は目に見えていた.毒蛇しか産まない国民を弾圧する声明書を公表した国王であったのだが、彼にすれば国を愛すればこそ、大義名分を捨て降伏したのでしょう.

スイス人の傭兵に言わせれば、戦いは『勝利か死だ.勝利を信じよう』であった.大義とは、一つには『国家や君主に対してつくす道』らしいのですが、スイス人ならば、フランスという国家に尽くす必要はなく、国王が投降してしまえば、君主に尽くす必要もなかったはずなのだけど?.
スイス人は国王の元に集まった貴族を、戦いの邪魔だと言い、更には国王が投降して気がねなく戦えると言ったのですが、スイス人達は戦うことだけが全ての人間、何も考えることなく、任務を果たすだけが全ての人間であったと言えます.

次は、投降を呼びかけるアルノーの言葉のすぐ後に、撃たれて死んでしまうボーミエ.
『我々スイス人が武器を捨てるのは死ぬときだ.あれは侮辱だ.持ち場を離れないし武装解除もしない』
『俺があんたなら逃げるね.アルプスの山に帰る.俺は山の暮らしを知ってる.三月を過ごしたが楽しかった』
銃声.

彼は腕利きの石大工だと自慢するが、煙突造りは下手だった.女に騙されお金を持ち逃げされる.はたまた、目の前にいる女の子の自分に対する気持ちも分らないでいた.なんとなく間抜けの人間だった.そして見事に犬死にする.彼の死は、戦争には何も役立たなかったのだけど.
『俺があんたなら逃げるね』、彼は、戦争を止めろと言って死んだのあり、戦争を止めるために命をかけたと言っても良いのでしょうか.
恋人のルイゾンの腕の中で息を引き取るボーミエ、彼は預かったお金をデートで使ってしまったことを告白する.彼は自分の悪事を『後悔しない』と言ったのだけど、誰も彼の悪事を責めたりはしないでしょう.
国家とは全国民の友愛的結合体だと、アルノーは言ったのですが、夫婦、あるいは好き合った男女の関係は、友愛的結合体の基本ではないのか.たとえ敵であっても、皆、家族があれば、恋人がいたりもする.戦争で殺し合うことは、友愛的結合体を壊すこと、愛国心とは言えないはずであり、愛国心とは戦争を止める、止めさせる心でなければならないはずである.

解説によれば、この映画はフランス革命を知っていることを前提に撮られたと書かれているけれど、当時でも100年以上前の出来事であり、フランス人でも、事細かに知っている人は限られていたのではないでしょうか.
今の日本で言えば、明治維新の経緯をどれだけの人が知っていると言えるのか?.ある程度の知識は必要としても、ある一面では、フランス人にも分りにくい出来事であったのではないでしょうか?.

『我が国を侵略した軍隊の総司令官が、オーストリア皇帝と、プロシャの皇帝と、私の個人名で発表した声明書の言葉を』、ルイ16世は皆で考えるように言った.彼も毒蛇しか生まない声明書と考えたようであったのだが、けれども最後は王紀に押し切られ、発表してしまったのだった.
マルセイユの集会で、女は、義勇軍に参加した恋人が敵前逃亡で処刑されたと訴えた.指導者が敵に寝返った為だという.彼女は目的がはっきりしない限り、マルセイユから義勇軍を送り出すことは出来ない、断固阻止すると訴えたのだった.
カラスを焼いて食べようとしていた者たちは、やはり指導者の貴族が裏切ったらしい.義勇軍に参加したことは間違いだったと話していた.村人は夫が縛り首になった、誰が私達を守ってくれるのだと文句を言ったのだけど、彼らにしてみればなんのために戦っているのか、分らなくなっていたのではないか.

『なぜ争う?、同じ軍服を着てるのに?』
『お前が共和派で、私が秩序派だから』
『秩序派がなぜ宴会の邪魔を』
『宴会だと、構えろ』
シャンゼリゼの騒動では、アルノーは相手の貴族に、なぜ争うのだと問い質したのだが、話しにはならなかった.

なぜ戦うのか、なぜ戦争をするのかと問うとき、お前が敵だからだ、と言うのは答えにはなっていない.なぜ戦うのか?、戦争の前に今一度問いだ足せば、戦争を行う以外の答えも見つかるかもしれないのだけど、スイス人達のように『勝利か、死か』『武器を置くときは、死ぬときだ』、初めに戦争ありきでは、何も見つかりはしないと言える.

第二次世界大戦勃発前のフランス、ドイツの侵攻を控えて、人民戦線が戦意高揚を計るために、ジャン・ルノワールに依頼して作った映画、と、解説にあるけれど.
ルイ16世の様に、無駄な戦いを避けて降服するのも一つの手段、今一度、戦争とはどの様なことか、なんのために戦うのか、国民に考えるように促す映画であったとしておきます.

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今一度、
『革命家にとって、平和な行動こそ、銃に勝る武器だ』
革命家でなくても、平和な行動こそ、銃に勝る武器である.

『国王万歳』と叫ぶ貴族たちは、ウサギと鯉の関係、到底相容れないドイツの援助で戦争を行おうとしました.
それに対して、革命派の者たちは、『国家万歳』と叫び、国民どうしの融和を前提として、侵略者と戦おうとしました.

国王とロシュフコー公爵
『何かあったのか?』
『市民がバスチーユ襲撃を』
『叛乱か?』
『いえ、革命です』
簡単に言って、良い王様を倒そうとすれば謀反であり、悪い王様を倒そうとするのは革命である.

マルセイユの海で漁をしながら、アルノーはこう言った.
『革命は貴族の金持ちが始めたが、貧乏人の俺達が終わらせるのだ』

日本の明治維新は、大名、武士が始めました.そして、第二次世界大戦に敗戦することによって、アメリカの力で終わったかのようになっているのですが、『貧乏人の俺達が終わらせる』、事にはなっていないようです.
日本人にとっては、明治維新を革命と捕らえる意識すらなくて、幕末の志士達が勝手にやったことであり、坂本龍馬は偉いと言った程度の認識しかないと、言わなければならないのが現状なのでしょうか?
明治の自由民権運動弾圧の時代から、それでも大正末期には、普通選挙法が成立する迄になったのですが、同時に成立した治安維持法によって、それまでの努力の全てが失われて行くことになりました.
まさしく『国王万歳..我が王よ.神が遣わせし者よ.君臨する唯一の者』、その一人のために、治安維持法があったとしておきます.