(1978 92min)
演技によって愛する人間
子供が死んでからも、生きているときと変わることなく、子供を愛し続けていたエヴァ.
そのエヴァの母親は、生きている子供を、愛そうとしない人間でした.
彼女自身が娘のエヴァに言ったように、『自分のことしか考えない、わがままな親だった』のは、描かれたとおりと言うしかなく、
自分の病気の子供に会いたくない.最後には、死ねばいいのに、と言った、この母親は、良い人間の訳がありません.
と考えれば、問題は、どの様に悪いのか、あるいは、悪かったのか?.
母親はピアノが全ての人間だった.
『エーリックが生まれたときは、モーツワルトの録音で忙しくて来られなかった』
『演奏続きで忙しかった』
『指揮者と練習をしたかったから』
『背中を痛めて練習できず仕事はキャンセル続き、絶望してた』
子供がピアノの練習の邪魔をするのは厳禁、そして、子供置き去りにして、長期の公演旅行.彼女ははピアノが全ての人間だった.
さらにエヴァの言葉によれば、彼女の他人を愛する姿は演技であり、それでいて、自分を愛さない者を許すことが出来ず、愛を強要する人間だった.
彼女は、背中が痛いと床に寝て話し始めた.
『昔のことは覚えていない、両親に撫でられた記憶も、ぶたれた記憶もないの』
『私は愛情を知らなかった.優しさも、触れ合いも、ぬくもりも、何一つ』
『気持ちを表現する手段は、音楽だけだった』
『時々思うのよ.自分は本当に生きているのかと』
『誰もがそうなのか.生きるには特別な才能が必要なのか』
『才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?』
『そう思うと怖いわ』
列車の中でマネージャーに、
『私、冷たいと思う?』
『ポール、寝ないで聞いて.評論家は私を褒めてる』
『シューマンやブラームスに、暖かみが感じられるって』
『私、冷淡じゃないわよね?』
彼女はこう言ったのだけど?.
彼女はピアノが全ての人間だった.では彼女のピアノとはどの様なものだったのか?.
『気持ちを表現する手段は、音楽だけだった』と言うように、彼女はピアノを愛していたのかもしれないけれど、
『誰もがそうなのか.生きるには特別な才能が必要なのか』
『才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?』
この言葉から伺い知れるのは、自分のピアノの才能への不安、言い換えれば、自分のピアノに観客が喝采するかどうか、あるいは、評論家の評価を気にする姿であり、つまりは、彼女はピアノの演奏を通して、観客の愛を求めていたのではないのか.
エヴァは母親に嫌われないように、気に入られるように、自分を取り繕って母親に接していたのだと言ったけれど、観客に拍手を求める演奏者も、母親に愛を求める子供も、同じ姿であったのではないか.
今一度書けば、エヴァの言葉によれば、彼女は、自分を愛さない者を許すことが出来ず、愛を強要する人間だったのだけど、ピアノを通しても、やはり、観客の愛を求める人間であったのではないのか?.
俳優としてのイングリッド・バーグマンを、ピアノの奏者に置き換えて、バーグマン自身の人生を描いた映画であり、彼女が映画を通して観客を愛する女優だったのか、あるいは、映画を通して観客の愛を求めるだけの女優だったのか、彼女自身にそれを問う作品であったのだと思います.
付け加えれば、病気の娘は、ママ、ママと母親を求めながら、ベットから転げ落ち、母親を憎むエヴァも、また手紙を書きました.彼女が本来の母親に戻ることは、いつでもできたのだと言えます.子供たちにとっては、彼女が母親としての姿を取り戻して、自分たちの母親であって欲しい人間であるのは、いつまでも変わることはないのだ、と言うべきでしょうか.
描かれた母親は、子供を愛することも出来ず、ピアノを通しても、観客を愛することの出来ない人間であったように思われるのですが、逆に、映画を通して観客を愛する事の出来る人間ならば、子供を愛することも出来るはず.
『私は日々、生きるすべを練習している.問題は自分が何者か分らないことだ』
『答えは見えない.誰かがありのままの私を愛してくれたら分るかも』
病気の妹を引き取って、妹に愛情を注ぐエヴァであった.
そして、エヴァは、ありのままの姿を見せて、母親を愛そうとしたのだけれど.
(母親は演技によって、愛を求める人間であった)
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『私は日々、生きるすべを練習している.問題は自分が何者か分らないことだ』
『答えは見えない.誰かがありのままの私を愛してくれたら分るかも』
イングリット・バーグマンが、映画を通して観客を愛する女優であったのか、映画を通して観客の愛を求める女優であったのか、そんなことはどうでも良いことである.それよりも、演技ではない愛で、母親として子供を愛して行くことが、何よりも大切なはず.
イングリット・バーグマンを、イングマール・ベルイマンは映画監督としての愛情を込めて、映画に描き上げた.
一人の女性として描いたのか、あるいは女優として描いたのか、私にはよく分らないのだけど、しわだらけの顔をアップで、ありのままに描き上げたのですね.
その結果、彼女が生きるすべを見つけたとしたら、イングマール・ベルイマンの映画への愛は、正しいものであったはず.
2013/02/03 追記
演技によって愛する人間
子供が死んでからも、生きているときと変わることなく、子供を愛し続けていたエヴァ.
そのエヴァの母親は、生きている子供を、愛そうとしない人間でした.
彼女自身が娘のエヴァに言ったように、『自分のことしか考えない、わがままな親だった』のは、描かれたとおりと言うしかなく、
自分の病気の子供に会いたくない.最後には、死ねばいいのに、と言った、この母親は、良い人間の訳がありません.
と考えれば、問題は、どの様に悪いのか、あるいは、悪かったのか?.
母親はピアノが全ての人間だった.
『エーリックが生まれたときは、モーツワルトの録音で忙しくて来られなかった』
『演奏続きで忙しかった』
『指揮者と練習をしたかったから』
『背中を痛めて練習できず仕事はキャンセル続き、絶望してた』
子供がピアノの練習の邪魔をするのは厳禁、そして、子供置き去りにして、長期の公演旅行.彼女ははピアノが全ての人間だった.
さらにエヴァの言葉によれば、彼女の他人を愛する姿は演技であり、それでいて、自分を愛さない者を許すことが出来ず、愛を強要する人間だった.
彼女は、背中が痛いと床に寝て話し始めた.
『昔のことは覚えていない、両親に撫でられた記憶も、ぶたれた記憶もないの』
『私は愛情を知らなかった.優しさも、触れ合いも、ぬくもりも、何一つ』
『気持ちを表現する手段は、音楽だけだった』
『時々思うのよ.自分は本当に生きているのかと』
『誰もがそうなのか.生きるには特別な才能が必要なのか』
『才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?』
『そう思うと怖いわ』
列車の中でマネージャーに、
『私、冷たいと思う?』
『ポール、寝ないで聞いて.評論家は私を褒めてる』
『シューマンやブラームスに、暖かみが感じられるって』
『私、冷淡じゃないわよね?』
彼女はこう言ったのだけど?.
彼女はピアノが全ての人間だった.では彼女のピアノとはどの様なものだったのか?.
『気持ちを表現する手段は、音楽だけだった』と言うように、彼女はピアノを愛していたのかもしれないけれど、
『誰もがそうなのか.生きるには特別な才能が必要なのか』
『才能のない者は生きるのではなく、存在するだけ?』
この言葉から伺い知れるのは、自分のピアノの才能への不安、言い換えれば、自分のピアノに観客が喝采するかどうか、あるいは、評論家の評価を気にする姿であり、つまりは、彼女はピアノの演奏を通して、観客の愛を求めていたのではないのか.
エヴァは母親に嫌われないように、気に入られるように、自分を取り繕って母親に接していたのだと言ったけれど、観客に拍手を求める演奏者も、母親に愛を求める子供も、同じ姿であったのではないか.
今一度書けば、エヴァの言葉によれば、彼女は、自分を愛さない者を許すことが出来ず、愛を強要する人間だったのだけど、ピアノを通しても、やはり、観客の愛を求める人間であったのではないのか?.
俳優としてのイングリッド・バーグマンを、ピアノの奏者に置き換えて、バーグマン自身の人生を描いた映画であり、彼女が映画を通して観客を愛する女優だったのか、あるいは、映画を通して観客の愛を求めるだけの女優だったのか、彼女自身にそれを問う作品であったのだと思います.
付け加えれば、病気の娘は、ママ、ママと母親を求めながら、ベットから転げ落ち、母親を憎むエヴァも、また手紙を書きました.彼女が本来の母親に戻ることは、いつでもできたのだと言えます.子供たちにとっては、彼女が母親としての姿を取り戻して、自分たちの母親であって欲しい人間であるのは、いつまでも変わることはないのだ、と言うべきでしょうか.
描かれた母親は、子供を愛することも出来ず、ピアノを通しても、観客を愛することの出来ない人間であったように思われるのですが、逆に、映画を通して観客を愛する事の出来る人間ならば、子供を愛することも出来るはず.
『私は日々、生きるすべを練習している.問題は自分が何者か分らないことだ』
『答えは見えない.誰かがありのままの私を愛してくれたら分るかも』
病気の妹を引き取って、妹に愛情を注ぐエヴァであった.
そして、エヴァは、ありのままの姿を見せて、母親を愛そうとしたのだけれど.
(母親は演技によって、愛を求める人間であった)
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『私は日々、生きるすべを練習している.問題は自分が何者か分らないことだ』
『答えは見えない.誰かがありのままの私を愛してくれたら分るかも』
イングリット・バーグマンが、映画を通して観客を愛する女優であったのか、映画を通して観客の愛を求める女優であったのか、そんなことはどうでも良いことである.それよりも、演技ではない愛で、母親として子供を愛して行くことが、何よりも大切なはず.
イングリット・バーグマンを、イングマール・ベルイマンは映画監督としての愛情を込めて、映画に描き上げた.
一人の女性として描いたのか、あるいは女優として描いたのか、私にはよく分らないのだけど、しわだらけの顔をアップで、ありのままに描き上げたのですね.
その結果、彼女が生きるすべを見つけたとしたら、イングマール・ベルイマンの映画への愛は、正しいものであったはず.
2013/02/03 追記