先日、仕事関係の研修で、自動車の電子部品(例えば、車のライト・ワイパー・ウィンドウやカーナビなどの情報機器など)はその分野の技術の発展と顧客・消費者のニーズの高まりが急激に進んでいるため、開発工程の数が非常に増えていることが問題になっていること、例えば、開発者の人手が足りていないことなどが問題になっていることを知った。そのため、その分野の世界のメーカーでは、競合他社がその対策には協調して、電子制御部のプラットホーム化(標準化)を各社共同で進めているとのこと。
このように、規格の標準化はグローバルに使用される様々な分野の多くの商品・モノに関して進められているだろうし、歴史的にも過去には規格の標準化という動きは随所で見られる。しかし、これまでに規格が永久的に標準化され、一本に統一されたというモノは意外に少ないように思う。
例えば、カメラの規格。一般的に、フィルムカメラの時代には35mmフィルムカメラというのが一つの代表的な規格になっていた。しかし、これは単にライカが20世紀始めに使用しはじめた受光側のフィルムの大きさに由来するもので、その規格に多くの後発カメラメーカーが準じて、なんとなく世界中の多くのユーザーにカメラの標準規格として認識されたというものである。それ以外の規格のカメラも多く存在している。その後、現在、フィルムカメラはデジタルカメラへとイノベーションを遂げ、そこにフィルムカメラの35mmという規格はデジタルカメラの中にも残っているものの、デジタルカメラにはそれ以外の多くの規格が乱立し始めている。その歴史を見ると、カメラの世界に標準規格などはこれまでに存在していないと言えるし、今後も生まれないだろうと思う。
音楽や動画の分野にも現在、様々な規格があるが、これらは将来統一されるのではなく、さまざまな規格があるもの、として存在していくような気がする。なにも、世界標準、世界規格、というものは必ずしも存在する必要はないし、それを追い求める必要もない。それは、商品・モノに限らず、言語もそうだし、思想・哲学、政治、宗教、芸術、さらには民族などにも当てはまる。多様であれば良いし、多様であるほうが良いのである。
音楽について、メディアは、発信側としてはLP→CD→ネットワーク、録音側としてはカセット→MD→PC/mobile端末、などと変化している。これらの変化はいわゆるイノベーション(技術革新)である。イノベーションが起こると様々な既存のものが壊され、新しいものが作られる。その中で、良いものは残り、そうでないものは新しい時代のものに駆逐される。例えば、LP→CD→ネットワークとメディアが変わるにつれ、その時代でしか通用しなかった音源、例えばその時代のみのアイドルの歌、などは無くなる。規格の変化やイノベーションにより文化がガラガラポンでリセットされる一例である。
歴史的に見て、商品・モノに関しては、このように規格の変化やイノベーションにより、さまざま時代と分野でリセットが起きて、既得権を壊してきた。これを、現在の日本の社会構造に当てはめる必要があるように思う。ここでの社会構造とはその名のとおり社会の構造と、その社会構造により規定される人の行動も含む。日本では、いまだに40年以上前の田中角栄による日本改造計画という規格標準、つまり土木・インフラで日本経済をまわしていくという社会構造を引きずり使用している。商品・モノの規格の事例と同様に、いい加減、リセットし、時代にあった規格を用いる必要があると言うわけである。
人々が何事にもやたら神経質になっている現在の風潮は、古いものがいつまでも残っている社会構造に拠ると考えられるが、この話はまた後日と言うことで。