前回、学力を高めようとしない学生たちの実態を書いた。それは「この商品、いくらまで値引きしてくれますか?」と訊いてくる手ごわい消費者の態度とよく似ている。
70円で買える商品に100円出す消費者はいないでしょう。そんな事をしたら市場原理が崩れてしまう。消費者は同一商品に対しては、最低価格で購入する権利があるだけでなく、そうする義務がある。
同じ商品を70円で買ったり、気分が向いたら100円で買ったりするようなふるまいを市場で許したら、「神の見えざる手」はもう機能しない。消費者は原則最低価格で商品を購入しなければならない。
今の子供たちは、この「最低価格で商品を購入しなければならない」という感覚を幼児期から刷り込まれて、それが当然だと思っている。でも、その感覚をそのまま教育の場に持ち込んできたら、何が起こるだろうか?
今の学生の大半は、単位や資格や免状を教育商品と捉えている。彼らはその教育商品をミニマムの価格(すなわち最低の学習努力)で手に入れようとする。
だから、124単位取れば卒業できるのに160単位取る勉強好きの学生を見ても「全く無意味なことをしている」と思う。5回まで休めるのに全15週出席する同級生もバカに見えてしまう。
目標が「学士号を手に入れること」であれば、最小の学習努力で目標を達成することだけに意味があると思っている。ほんとうにそのことを自慢する学生がいる。
「授業も出ず、レポートも丸写し、試験もカンニングで、何一つ勉強せずに、大学を卒業しました」という「達成」を満面の笑みで語る青年が時々いる。
彼らは別に皮肉を言っているわけでも、学校教育を批判しているわけでもない。自分が「賢い消費者として、賢い買い物をした」ことを褒めて欲しくて自慢している。
「学校教育に市場原理を持ち込んではならない」という大命題がある。現場にいればよくわかる。学校教育で子供たちに費用対効果を競わせたら、教育はもうおしまい。その競争では「学力ゼロ」で卒業した子供が勝利者として讃えられるゲームになってしまう。
でも、その狂ったゲームが今、実際に行われている。学生も保護者たちも、ふつうにそう考えている傾向がある。平然と「受験に関係ない教科なんか勉強しなくていい」と豪語する。無駄なことはしないと。
だから、受験勉強でも最も効率のよい学習法を血眼で探している。もし「3ヶ月で偏差値10アップ」を看板に掲げる予備校の隣に「1ヶ月で偏差値10アップ」の予備校があれば、そちらを選ぶでしょう。
つまり、学力を高めることは、もはや学校教育の目的でなくなりつつある。そうではなくて、「いかに少ない努力で、いかに多くの報酬を受け取るか」を競っている。
費用対効果を競い合っているうちに、その集団では構成員全員がお互いに足を引っ張り合うようになってきた。子供たちは中等教育の段階に至ると、自分の周りの生徒たちの知的成長を阻害することに努力するようにもなる。
もちろん本人は自分がそんな邪悪なことに熱中しているという「犯意」はなくて、ごく自然に、無意識にやってしまっている。
一度電車の中で中学生や高校生たちがおしゃべりしてるのを立ち聞きしてみてください。彼らが話しているのは、ゲームの話、タレントの話、ファッションの話、スポーツの話‥‥など、それによって話を聞くことで友達のテストの点が一点でも上がらないトピックに限定される。
このような気が遠くなるほど痛い日常的努力の積み重ねの上に、現代日本人の恐るべき「無教養」が構築されているのだ。切磋琢磨とか教養主義という日本人の勤勉さはどこにいってしまったのだろう。
今の子供たちが悪いわけではない。私たち大人がこういう社会システムを作り出してしまった。このようなシステムを健全に変えていくにはどうしたらよいのか、私なりの答えや方向性を持っている。またの機会に続く。
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