内田樹が10年ほど前に書いた『下流思考ー学ばない子供たち、働かない若者たち』(講談社文庫)の中に、興味深い事がいくつも書かれていた。
その中に、「オレ様化する子供たち」というサブタイトルの部分がある。そこで、諏訪哲二という80年代から90年代にかけて長く公立高校の先生をされていた現場の方が書いた本のタイトルが「オレ様化する子供たち」である。
80年代から90年代にかけて、日本の学校教育の様子がからりと変わってしまった、子供の中に大きな変化が生じたと書いておられたというのである。いろいろ現場の例が挙げてあり、いかにもそういうことがありそうだなと分かるのだが、どうしてそういうことになったのか、は説明しにくいという。
例えば、先生が教室に入っていくと、私語をしている生徒がいる。授業を始めても、横を向いて私語をしている。教師が「私語をやめなさい」と注意する。すると、「うるせえな、聴いてるよ」と振り返って言う。ほんとうに怒っている。
「何で聴いているのに注意するんだよ」と噛みついてくる。教師は、「だって私語しているじゃないか‥‥」と思うのだけれど、生徒本人はあくまでも「授業は聴いている」と言い張る。
同じく80年代以降に全国の中高で見られ始めたことなんだそうだけれど、生徒がトイレでタバコを吸っている。それを教師が見咎めて、「こら、煙草吸っただろう」と言うと、煙草をもみ消しながら、「吸ってねえよ」と言う。今、目の前で吸っていたのに、「吸っていない」と強弁する。
明らかに、昔の不良とは違う。昔日の不良少年たちは、悪いことをしているという自覚があり、それを摘発されれば、とりあえず「悪いことをした」という事実関係については争わなかった。
それが違ってきた。現に目の前で起きていて、教師も生徒自身もその事実を現認しているにもかかわらず、「そのようなことはなかった」と平然と否認する。
こういう言い訳の仕方が、ある時期を境にして全国的に広まったという。誰も教えているわけでもないし、そういうことが流行しているとメディアが取り上げたわけでもない。わずかな期間のうちに、全国の中高でそういう言い方を生徒たちが一様にするようになったという。
この傾向は最近では、もっと年長の世代にまで広がっているように思われる、80年代後半に高校生だった諸君も今や50代に近いくらい大人になってきてるのだから。
最近よく不祥事を起こした企業責任者や芸能人が釈明をするというニュースを目にする。たいてい最初は「よくわからないのでコメントできません」と木を鼻でくくったような返答をする。
告発や証拠が出始めても最初のうちは「そのような事実があるとは聞いていない」と突っぱねる。申し開きのできない証拠が提出されると、一歩ずつ後退して、一つずつ非を認め、最後に「申し訳ありません」と全面降伏して頭を下げる‥‥。
そういうプロセスをテレビで見飽きるほど見せられてきた。組織の信頼性を早く回復するためにも、司法に余計な手間ひまをかけさせないためにも、さっさと「すみません」と言ってしまえばよいものを、どうしてこんなに引っ張るのだろうと不思議に思う。
彼らにはそれができない。好きでやっているわけじゃなくて、おそらく子供の頃から、どんなに動かぬ証拠が示されても非行を咎められても、とりあえず「やってねえよ」と突っぱねるかところから交渉を始めるということを習慣としてきたので、もうそれ以外の対応ができなくなってしまった。そういうことではないかと思う。
学校の話に戻すと、諏訪さんも内田も、子供たちの変貌について、いったいどうしてこんなことになってしまったのか、面白い洞察と議論を考え抜いている。
そのヒントになるキーワードだけ列挙しておくと、「家庭内労働の消滅」、「教育サービスの買い手」、「それが何の役に立つの?」、「クレーマーの増加」、「自分探しのイデオロギー」、「未来を売り払う子どもたち」など。
内田樹の推論や見方、問題の切り口は凄いと思う。人文科学、社会科学の深い洞察力なくしてはこのように語れない。興味のある方は、内田のこの本を読んでみてください。目から何度も鱗落ちる面白さです。
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