我々夫婦の間で、『シャトー』というと、昔お城であった建物が老人ホームになり、そこに昨年11月より義父が入居した施設のことを言う。
昨日そのシャトーに義父を訪ねると、案外元気というか、いつもより言葉がなめらかにスラスラ出るようだった。
おしゃべり好きな義父は、喋りたい事が次から次と頭に思い浮かぶ、が、いざ喋る段になると、その場所名だったり人名が口から出てこない…
そんな自分に大いに失望するのだが、それでも諦めること無く『・・・』と間をおいては、話せる箇所を話し続ける状態だ。
私なんかは、彼より20歳近く若いのに、日本語とフランス語の狭間で愚脳が、日常的に炎上し炎症しているのだろう、
ことに、会話の最中に人名が出てこなくて、イライラする結果、亀頭を甲羅に引っ込める亀の如く、『引きこもり』を良しとする
諦めの境地から観ると、義父の決して諦めない頑固さに、私は内心『あっぱれ!』・・・と思っているところだ。
そんな義父であるから、思っていることを何でも口に出すのであるが、
たった一人の孫娘が産んだ、男の子の赤ん坊の写真の(小さな額に入れて、彼が入居した部屋にいつも置いてある)
大きな『瞳の視線』が、どうも気になる・・・というか、恐れているようなのだ。
私はそんな義父の気持ちがよくわかる気がする。
いつであったか電車の中で、見知らぬ赤ん坊にじっと見つめられて、私はたじろいでしまった事をよく覚えているからだ。
赤ん坊の無垢な、大きな眼でじっと見られると、何もかも見透かされれいるようで、恐ろしい・・・気がするのは誰もが身に覚えがあるのではないか?
いやいや、私のように自分の『汚れ』を心のどこかで自覚している人間のみが、『無垢な視線』にたじろぐのであろう。
とにかく、義父は90年以上生きてきて、『初ひ孫』という生まれたての、赤ん坊を身近に観る機会を得て、そんな感想を抱いたのであろう。
いつか彼の『恐れ』が鎮まって、『ひ孫の瞳』をあらためて観た時、それは素晴らしいメッセージであることに気づくのだと思う。
三日前、湖畔を散歩している時に出会った『子雪だるま』・・・のメッセージ
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