前回のブログにあげた曲、中島みゆきの『銀の龍の背に乗って』・・・をまだ引きずっている。
中島みゆきもシャラッ〜っと、『銀の龍』なんて言っているが、これはどう考えても禅の『公案』だろ。
そう、私に言わせれば、この世は『公案(禅問答)』に満ち満ちているのだ。
ただ『禅の公案』は自己が死ぬまで、腑に(不二)落ちるまで『問』と向き合い続けるが、娑婆の『問』はほんの数秒〜数分で忘却される。
この違いが『天と地』ほどに違う事が、『禅』が『禅』である真面目でもある。
日本という国は、そういった『公案(問)』の象徴に満ちた国であることが、世界でユニークだと評価されている原点のように思う。
例えば『結界を表す鳥居』。例えば『禅寺の庭』。例えば『芭蕉の俳句』。例えば『頂きますの合掌』。例えば『いらっしゃいませの挨拶』
だのに娑婆では人は忙しすぎる・・・せっかく暇が出来てもバカンスだなんだと言って、自己を本質の処から自ら遠ざけ
せっかく素晴らしい『公案』と出会っても、猫の眼のように、ひと時も『心』はそこに留まらず、気を散らす。
たとえ警策を持った坊さんがすぐ目前で見張っていても、初心者の『坐禅』は雑念+妄想が嵐の如く渦巻いている。
あの蒼ざめた海の彼方で 今まさに誰かが傷んでいる まだ飛べない雛たちみたいに 僕はこの非力を嘆いている
急げ悲しみ 翼に変われ 急げ傷跡 羅針盤になれ まだ飛べない雛たちみたいに 僕はこの非力を嘆いている
夢が迎えに来てくれるまで 震えて待っているだけだった昨日
明日 僕は龍の足元へ崖を登り 呼ぶよ『さあ、行こうぜ』
銀の龍の背に乗って 届けに行こう 命の砂漠へ 銀の龍の背に乗って 運んで行こう 雨雲の渦を・・・・(作詞:中島みゆき)
中島みゆきさんは私と同年齢(1952年生)で、同じ道産子・・・であるが
かたや若き日より、作詞・作曲という活動を通して『自己』を徹底的に掘り下げていたんだね。
だからこんな詩(歌)を書けるんだろう。
彼女の歌には、仏教の本質・・・つまり『人間の本質』が歌われていると私は思った。
前回ブログで私はこの歌『銀の龍の背に乗って』…は現代の『般若心経』だと言った。
般若心経は『般若智(慈悲と智慧)の到彼岸』(完成)をうたっていて、『龍』は此岸から彼岸へ渡る『飛躍の象徴』に違いない。
『 急げ悲しみ、翼に変われ=慈悲心/ 急げ傷跡、羅針盤になれ=智慧 』・・・は『煩悩即菩提』、『色即是空空即是色』の仏性の本質を表し
『僕はこの非力を嘆いている』・・・というのは、まさに『菩薩の悲願』そのものとして私には映る。
銀の龍の背に乗って / 中島みゆき Cover by 野田愛実(NodaEmi)
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