ブログなどで、自分の事を『私』と書くようになったのは、多分3年前ぐらいからであろか。
それまでは『ボク』で通していた。何にせよ、読む人にとってはどうでも良いことに違いないと思うが
私自身の心境の変化というのは、『馬骨』として考えてきた『悟学』のようなものを、他人に話す機会を頂いた時
還暦を過ぎた爺さんが『ボク』…というのが、なんだか場にそぐわない気がして、以来ブログやそういった場では『私』を使用している。
しばらく『私』を使って思うのは、自分の言動に責任を負う覚悟の度合いが『ボク』や『俺』に比べてある気がしている。
私(25歳)の最初の恋人はオーストラリア人であったが以来、日本語を話す外国人を身近に沢山みてきた。
そんな彼等を観ていつも不思議だったのは、日本語を話しているときの彼等は、母国語を話している彼等よりも必ず性格が『優しい』。
彼等自身もそういった感覚に気づいているようであった。その点について何度かディスカッションしたことがある。
彼等外国人が日本が好きな理由の一つに『自分が優しくなり』相手の日本人も『親切』で、『優しい関係』が作れる国…ということもあると思う。
日本語を学ぶ初心者はまずいわゆる『標準語』を学び、『私の名前は○○です・・・』が基本になる。
このときの『私』って、無意識にせよ、それまでの自己の『過去』の一切を捨てた『私』になるのではないだろうか?
日本人の私にしても、いつの日か還暦も過ぎた頃『ボク』から『私』という言葉を使うようになるとは想定外であり
使ってみて思うのは、『私』というのはとても『ニュートラル』な『場』であることだ。
以前は『ボク』が一番ニュートラルであると思っていたが、どこか『甘え』があった気がする。
最近出会った日本語が出来る外国人が、『俺』を使って話していて、こなれた日本語を話しているつもりのようであったが
それって、私にとってはカッコイイ…ことでは無い。 自分を『無』にする『智慧と勇気』と言うと大袈裟だが少なくとも
性格をニュートラルにする主語『私』の方が自他をして『清静の場』を醸し出してくれてカッコイイ・・・と思う。
拙者は『馬骨』でござる・・・日本語はそのばその場で、何者にでもなれる『場』があって楽しい・・・
江戸時代の日本人の顔、みたいな感じ。
ところで坐の字の意味
なるほどーです。
納得しました。
というのはまず、クラシックな顔という意味ですからね。
私の顔は整形したような顔?です。
整形した?と何回か言われました。
それ言われると喜ぶべきかどうか、迷います。