先日、フェイスブックを流し見していたら、看過できない記事に出会った。
タイトル:量子論と意識の奇妙な関係 と題した、ランザ博士の著書からの紹介記事
生命中心主義:いかに生命と意識が宇宙の本質を理解するための鍵であるか(という著書名)によると
物質ではなく、生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であると断言・・・
意識は肉体的な死とは別物である以上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張しているのだ!
ランザ博士によると、量子力学の『二重スリット実験』を例にあげれば簡単に理解できるという。
(・・・略)
この実験では、二つのスリット(細長い穴)を通った電子が壁に衝突して作る痕跡をもとに電子が波なのか粒子なのか確定
されるはずだったが、
観察者がいない場合、電子は波の性質に見られる干渉縞を作り
観察者がいる場合、粒子にみられる痕跡を残すという・・・非科学的な事態が生じたことで大問題となる。
つまり、電子は『波であり、波じゃない』 『粒子であり、粒子じゃない』という矛盾する性質を抱えている事が判明したのだ。
ここで、問題となるのは『観察者』の存在だ。
物理的世界に直接の影響力を持ちそうにない『観察』という意識的な行為がどういうわけか、量子レベルでは大きな影響力を
持ってしまっているのである。・・・・
まぁ、引用はこの辺までにしようと思うが、これを読んだとき、ボクはつい先日アップした写真と短歌のことを考えていた。
必撮無眼流的に一撮する時には必ず『気合』が入っているものであるが、これが『意識』なのだと思う。
鍼灸を学んでいた頃の話だが、先生が患者の肉体に触れずに手をかざしてツボを気で探っていた時、そばで観ていた
ボクもはっきりツボを感じたが、意識を向けたときのみ感じるという経験をしたものだ。
禅にしても無意識の時に感得できる『意識』の体験ではないだろうか・・・などと愚考した。
だから、無関心は良くないと思う。自分が関心を持ったからといって何にも変わりはしない・・・と社会で起きている事柄に
無関心では、心は枯れてしまうだろう。意識を向けるだけでも『変える』一助になっている。
タイトル:量子論と意識の奇妙な関係 と題した、ランザ博士の著書からの紹介記事
生命中心主義:いかに生命と意識が宇宙の本質を理解するための鍵であるか(という著書名)によると
物質ではなく、生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であると断言・・・
意識は肉体的な死とは別物である以上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張しているのだ!
ランザ博士によると、量子力学の『二重スリット実験』を例にあげれば簡単に理解できるという。
(・・・略)
この実験では、二つのスリット(細長い穴)を通った電子が壁に衝突して作る痕跡をもとに電子が波なのか粒子なのか確定
されるはずだったが、
観察者がいない場合、電子は波の性質に見られる干渉縞を作り
観察者がいる場合、粒子にみられる痕跡を残すという・・・非科学的な事態が生じたことで大問題となる。
つまり、電子は『波であり、波じゃない』 『粒子であり、粒子じゃない』という矛盾する性質を抱えている事が判明したのだ。
ここで、問題となるのは『観察者』の存在だ。
物理的世界に直接の影響力を持ちそうにない『観察』という意識的な行為がどういうわけか、量子レベルでは大きな影響力を
持ってしまっているのである。・・・・
まぁ、引用はこの辺までにしようと思うが、これを読んだとき、ボクはつい先日アップした写真と短歌のことを考えていた。
必撮無眼流的に一撮する時には必ず『気合』が入っているものであるが、これが『意識』なのだと思う。
鍼灸を学んでいた頃の話だが、先生が患者の肉体に触れずに手をかざしてツボを気で探っていた時、そばで観ていた
ボクもはっきりツボを感じたが、意識を向けたときのみ感じるという経験をしたものだ。
禅にしても無意識の時に感得できる『意識』の体験ではないだろうか・・・などと愚考した。
だから、無関心は良くないと思う。自分が関心を持ったからといって何にも変わりはしない・・・と社会で起きている事柄に
無関心では、心は枯れてしまうだろう。意識を向けるだけでも『変える』一助になっている。
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