今年、世界は思いっ切り『諸行無常』に突入した。
それに我々はどう対処すればいいのか? そういった視点をもって新たに観自在してみたい。
このブログ名を『拈華微笑』としたのは、多分10年ぐらい前になるようだ。
ある日、お釈迦様が何時ものように弟子達の前に現れた時、話を始めるでもなく、ただ、華を手に持って
弟子たちにお示しになった。弟子たちは、それが何を意味しているのか全くわからず、ただぽか〜んとしていた。
よく見ると、摩訶迦葉という名の弟子が、ただ一人微笑んでいた。お釈迦様は彼にその華を渡し、我が法は彼に
伝授した…と言われたという。・・・そんな逸話が禅を修行する時の公案(問題)になっている。
ボク自身修行中(昔のこと)、この公案をもらったわけではないが、この話を聞いた時からずーっと気になって
いつも心の片隅に在った。・・・ 不思議なことに、歳を重ねるごとに、理解が深まるような気がしている。
大切なことは、常に意識をそこに向けていること…だと思う。
この一幕の出来事って、ようするに『以心伝心』。言葉を変えると『非言語コミュニケーション』
結局そこに行き着く。俳句にせよ日本の伝統文化は何にせよ、深いが、最小限のモノで最大の効果を。
みたいなところを重視する文化である。
だから『拈華微笑』はその究極の状態を示している。もう言葉がいらないくらいの状態。
そして、ボクは長い間、この時釈尊のが手に持って示したのが『華』であったが、まぁ、実際
これは、華でも何でも良かったのであろう・・・と思っていたのだが、ある時からいやいや、
これは『華』でなくてはならなかった、と考えるようになった。
この『華』あらゆる事の象徴であるが、問が『人生の意義は?』であれば、『花を咲かし、実をつける事』…
で、人間にとって『花』は何か『実』は何か、それが分かれば・・・『拈華微笑』なのだ。
非言語コミュニケーションは その問に対して 必須
それに我々はどう対処すればいいのか? そういった視点をもって新たに観自在してみたい。
このブログ名を『拈華微笑』としたのは、多分10年ぐらい前になるようだ。
ある日、お釈迦様が何時ものように弟子達の前に現れた時、話を始めるでもなく、ただ、華を手に持って
弟子たちにお示しになった。弟子たちは、それが何を意味しているのか全くわからず、ただぽか〜んとしていた。
よく見ると、摩訶迦葉という名の弟子が、ただ一人微笑んでいた。お釈迦様は彼にその華を渡し、我が法は彼に
伝授した…と言われたという。・・・そんな逸話が禅を修行する時の公案(問題)になっている。
ボク自身修行中(昔のこと)、この公案をもらったわけではないが、この話を聞いた時からずーっと気になって
いつも心の片隅に在った。・・・ 不思議なことに、歳を重ねるごとに、理解が深まるような気がしている。
大切なことは、常に意識をそこに向けていること…だと思う。
この一幕の出来事って、ようするに『以心伝心』。言葉を変えると『非言語コミュニケーション』
結局そこに行き着く。俳句にせよ日本の伝統文化は何にせよ、深いが、最小限のモノで最大の効果を。
みたいなところを重視する文化である。
だから『拈華微笑』はその究極の状態を示している。もう言葉がいらないくらいの状態。
そして、ボクは長い間、この時釈尊のが手に持って示したのが『華』であったが、まぁ、実際
これは、華でも何でも良かったのであろう・・・と思っていたのだが、ある時からいやいや、
これは『華』でなくてはならなかった、と考えるようになった。
この『華』あらゆる事の象徴であるが、問が『人生の意義は?』であれば、『花を咲かし、実をつける事』…
で、人間にとって『花』は何か『実』は何か、それが分かれば・・・『拈華微笑』なのだ。
非言語コミュニケーションは その問に対して 必須
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