私にとって、『禅』とは・・・何だったのか? 何が私を禅の道に導いたのか・・・?
普段、禅々と呼びつけているが、私自身にとって『禅』とは何だったのか…、そこを明らかにしなければにっちもさっちも・・・とは思いながら
いまさら・・・でもあり、同時に今だからこそ観える話なのだ、とも言えそうだ。
『 無上甚深微妙の法は 百千万劫にも遭いおうこと難し 我今見聞し 受持することを得たり 願わくば如来の 真実義を解し奉らんことを 』
最初に円覚寺・居士林を訪ねた時、頂いた手折の修養聖典の『開経偈』の言葉だが、『佛法というのはめったに出逢う事が出来るものではない…』
と言っているわけで、実に北海道の片田舎で生まれ育った山猿の私が、齢(よわい)三十にならんとする時、円覚寺の居士林に通うことになるとは
どう考えても、不思議で不思議で・・・。
まぁ、例えてみれば死ぬまで金に困らないほど大金の『宝くじ』に当たった確率・・・或いはそれ以上(百千万劫というぐらいだから)の確率のところを
パスしました・・・というぐらい『微妙の法』を我今見聞しているわけだ(レベルは不問)。 その意味では色界のビル・ゲイツ・・・みたいなものか?
一方、生を受けた衆生は全員皆、『微妙の法=佛法』と共に生まれ、いつの日か『意』を向ければ『覚醒』すること百%の確率なのが佛法。
だからこそ、山猿・・・というか馬骨である私でも『佛道』に至る事ができた・・・とも言えるわけで。
私の体験から言うと、この『微妙の法』・・・というのが、名は『微妙』であっても、そのじつバカでかい『?』そのものとして、自己内に存在し
自分ではなかなか認識できないゆえに、馬鹿なことをしたりして、もがき苦しみ、そこからなんとか逃れようとした結果が『道』であったような・・・
優れた佛縁を持った人々は、『死とは何か?』とか、『何のために生きるのか?』・・・とか何だかの疑問を持っていたりするものだが
私の場合は、何の不満もない・・・ただボーッとしていた人生であったように思うが、実際は『?』が大きすぎて観えていなかっただけで
それに対する、かすかな違和感というのが、『坐禅』したときに、何だか解からんが『これだ!』という直感が起こったのであろう。
その後の、禅修行で少しずつ少しずつ、等身大の『?』になり、ようやく自分の本当の『問』に直面することが出来たのだと思う。
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