『赤い糸』…で結ばれている。
この言葉『赤い糸』、本来男女の結びつきを意味しているようであるが、それだけではもったいない…というのが馬骨論。
男女の仲、以前にもっと大事でより本質的なものを『赤い糸』は結びつけている…というのである。
馬骨に言わせると全ての言葉には色と空があって、男女の仲を結ぶ赤い糸は『色』で、自分を真実の自己に結びつける赤い糸は『空』の働きとなる。
この世に生まれい出て、自分て何?という『問』が我々の遺伝子に組み込まれていて、それに真っ向から立ち向かう者もいれば有耶無耶にして終える者もいる。
この『問』と『答え』こそが、意伝子の『赤い糸』となって、初めから結ばれているモノを成長と共に『糸をたぐり寄せて』自分を真実の自己に対面させる働きがある。
馬骨は『悟り』を『郷里(さとり)』と読むことを提唱しているが、それは『赤い糸』を別な言い方で『最初から結ばれている』ことを表しているにすぎない。
『 悟りこそ 心の郷里(さとり) What else? 赤糸たぐる 再結の旅 』
私は30歳になるまで、宗教的なモノとは無縁であると考えていたが、後々自分の『赤い糸の記憶』をたどると、結ばれていることを知った。
一番最初?の記憶は、たぶん私が4 , 5歳の頃のこと、北海道の片田舎の秋祭りの日、大通りには奴さん群が槍をもって『下に〜、下に〜』と言って
前進してくる脇で、獅子舞の人たちが子供達の頭を口に咥えるながら迫ってきていた様子を見て、私は盲目の母にそれを伝えようと
家に続く路地を走って戻るとき、涙が出てきて、『あれ、なんでボクは泣いている?』とふと思ったことを、未だに記憶している…
そういった自分に気づいたこと、記憶していたことが後々重要になってくる。 誰もがそういった記憶、経験があるはず。
ちなみに、宗教を意味する英語は『Religion』・・・これには『再び結ぶ』という意味がある。
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