拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
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  馬骨版・新説『観世音菩薩』

2023年11月17日 | 東洋自分なり研究所

  禅門を叩いてからこっち、ブルース・リー(功夫)先生のお言葉『考えるな、感じろ!』は、『考えるな、観じろ!』へと昇華することになる。

  何故なら、『感じろ!』では、いまだ自我そのものであるが、『観じろ!』は、『主語』のない境涯であるから・・・。

 

  円覚寺居士林では

  ごく初期に『数息観』を教えられ、吐く息を『ヒト〜ッ、フタ〜ッ、ミ〜ッ・・・ト〜』と数え、再び『1〜10』と約40分の坐禅の間数え続け

  その間に絶え間なく沸き起こる妄想を『煩悩無尽誓願断』・・・の精神で『数息観』でもって、次々と煩悩をぶった斬るわけだ。

  そうした『坐禅』に入る時と出る時に、指導僧によって『鐘』が鳴らされるが、『数息観』が少しずつ『チ〜ン』と響く『音観』へといざなわれる。

 

  こうした事を、数年やっているうちに、『数息観』の『数』が必要でなくなりいつの日か『息観』になった。

  その後、老師より『庭前の柏樹子』の公案を頂き、数年大樹を前に坐禅していると、『静寂の音』を観ている自分に気がついた。

  以来ずーっとその境涯で、私はそれが『観音』であると、『観音菩薩』に限らずあらゆる仏像を観て『観音』の表現・・・と確信。

  芭蕉の『蝉』を詠った俳句などは、まさに『観音』の境涯そのものを表現している。

 

  そういった事をふまえ、『観音菩薩』の観音は、『衆生の苦しみの音声、救いを求める音声を観察して救いの手を差し伸べるという

  働きをもつことから、観世音とした・・・』という説が一般であるが、実際には『救いを求める音声』も『その苦しみを断ち切る音声』も

  自己の内なる観音菩薩の一つの『音声』を『観』ることを意味する、『観音』の境涯なのだ。

 

  そしてその事は、釈尊が存命していた時から『観音』という境涯が重視され、最初の『仏法』の後継者選びに、釈尊は『華』を弟子たちの前に提示し、

  その意を解してただ一人『微笑』んだ摩訶迦葉に伝授された・・・、それが『拈華微笑』という故事の経緯なのだと思う。

 

  大乗仏教は、釈尊死後500年後の紀元一世紀前後頃起こったと考えられているが、そのころには坐禅瞑想による『観音』覚醒は一般的なことであったであろう。

  当時仏教経典としては、般若経、法華経、維摩経、浄土三部経、華厳経、涅槃経、大日経、金剛頂経などがあり、

  般若心経の中に『観世音菩薩=観自在菩薩』として登場、法華経にも『観世音菩薩普門品』として観音菩薩は登場し、日本では『観音経』と独立したお経となるなど

  『観音』あるいは『観世音』というのは、単なる菩薩名ではなく、境涯のレベルを名称にし、それに達した人々を『観世音菩薩』と称していたと私は思う。

  『維摩経』の『維摩の一黙、雷の如し』・・・というも、『黙であり同時にそれが雷音』であるという意味が、『観音』に他ならない。

 

  いま、スピリチュアル系の人達が云々する『クリアオーディエンス』や『耳鳴り』・・・というのは、『観音』であろう。

  そして、『量子力学』系の人達が云々する『観察者』の『観』こそはまさに『観自在菩薩』、『観世音菩薩』の『観』なのだ。

  その意味では、この馬骨説は新説でも何でもなく、本来の意味に帰っただけかもしれないなぁ… 。

 

           

         『観世音菩薩』は『アカシック・レコード』を鑑賞中の図・・・『自灯明、法灯明』というのは観音という形で実現する。

                                       それは『観・波動関数』・・・なのだろうか?

  

  



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