『修行』の行の字を調べると、 『行』の字は 十字路の象形から成り立っていて、道、行くの意味を表し、転じて『整った列』の意味を表す。
漢字辞典の説明を読んで、私がビビッ!・・・ときたのは ① 十字路で『出会う』という事、
② そしてその後『共に行く』という事
この二つの意味を『行』の字は含んでいるということだ。
昔、テレビで見た四国八十八ヶ所を巡礼するお遍路さんがかぶっている笠に『同行二人』の言葉をみたが、そのイメージが
『行』の字にあるのだと思う。私の場合は『弘法大師』という固有名ではなく、『無我の我』という事になるが・・・。
そうした事を鑑みて『修行』という言葉を考察した時、『修行』とは 『行』を『修』める・・・という意味になる。
仏教の『三法印』である、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静・・・これを体得することは、並大抵なことではない。
特に、涅槃寂静への鍵となる『諸法無我』を体得するのに最も確かな道は『正師』のある修行道場で修行することであろう。
志を共にする仲間と協力しながら『規矩』という縛りの『色』の中で、『天上天下唯我独尊』の『真我』である『空』との出会いの場として
聖俗相合わせた環境で『精進することを学ぶ場』としての『修行道場』というのはそんなにあるものではない。
そこで思い返すのは、『小学校・中学校』の義務教育での私の体験で、これまですっかり忘れていたが、実は大恩恵を受けていたのだとあらためて思うのだ。
私のような者でも読み書きが人並みに出来るようになって、人前でも何か発言出来るようになったのも、50人もの生徒を教えながらも、一人ひとりの生徒の成長を見守って
通信簿に一言書き添えて励ましてくれた教師の存在と、社会生活に飛び込む前にざまざまな体験をさせてくれた学校というシステムのお陰であったであろう。
特に、給食の作業とか教室を自分たちで掃除をしたりとか、そういったお寺の作務的な要素は、西洋の学校システムにはない、『Something』を付加し、『諸法無我』への
指針になっているに違いない。
そこで、『禅修行道場』であるが、仏教の『三法印』つまり、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静に特化し、妥協のない学校が『禅道場』であるといえよう。
人は『規矩』に縛られるのではない、『規矩』を使いこなして『真我のいる郷里』に至るのだ。
『修行』して出会うのが『無我の我』であって、神や仏でなければ一般の教育機関でも、その手の『修行』は取り入れるべきであろうと思うが・・・
日本のニュースで『今年5月の自殺者は全国で1745人・・・』という記事を読んで、つくずくそう思ったのである。
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