青年の頃やはり何もできない仁がいました
中年を過ぎても何もできない仁がいました
老年になっても何もできない仁がいます
あの世に行ってもやはり何もできない仁なのでしょうね
どの時代にも何もできなかったけれど生きていけたから
どの時代でももう一度繰り返しても生きていけるんですね
何もできないことをもう気にせずに生きています。何もできないということは何もしないということではありません。仁なりに精一杯やっているんです。けれど、不器用で、無能で、愚図でおっちょこちょいだから、いつも人に笑われているんです。いつも人に笑われているから、それが当たり前になりました。いつの間にか人は仁が失敗するのは当たり前と思い、サポートさえしてくれるようになっていました。当たり前よりちょっとましなことするとすごいと褒めてくれる人さえいるんです。できなくて当たり前。だけど仁なりに一生懸命やっています。やっていることがおもしろいし、やっていけることがあるだけでハッピーなんです。何やってもハッピーでいれるようになりました。小学生の時、小遣いが欲しくて堀に田螺を取りに行きました。握っていた杭が折れてそのまま溺れてしまいました。死んだと思われたその仁はぐるぐるぐるぐる振り回されて息を吹き返したそうです。田螺と引き替えに命を失うような子どもは生きていても役に立たないと思っていましたけれど、役に立たない人間でもそれなりに尊重されて生きていけることを知りました。そんな人たちの中で生きていることをHAPPYだと感じています。いじめる人も差別する人も、泥棒する人も騙す人も、戦争好きもいろいろ人はいるけれど、そうならないように素朴に生きている人たちが仁の周りにはたくさんいるのです。疑い深かった若い頃には見えなかった仁とあまり変わらない普通の人たちをとても親しく感じます。泣いたり笑ったり、怒ったり、悔しがったり・・・普通に生きていることがとてもおもしろいことなんだと感じます。もう、特別なものは何も要らない。普通に生きていけることが奇跡なんだと思い始めました。だからこの普通に生きていける奇跡を奪う戦争にはNOと言い続けていこうと思います。戦争がなかったからこんな仁でも普通に生きていける奇跡を享受できたんです。これからの子ども達にも普通に生きていける世界を持続させていきたいと願い続けます。
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