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――♪♪♪―――――――――――――♪♪♪――
枯草の風受けて風送りけり
――♪♪♪―――――――――――――♪♪♪――
「俳句を遊ぶ」という不遜な態度を許せない人が多いにちがいありません。
けれど、老仁は、他に遊ぶ術を持ちませんので、やっと見つけだしたひとりあそびの俳句の時空を、やはり、遊びたいと思います。小さな小さな世界に棲んできた老仁にとって、俳句は、大きな世界に触れ、こころを、ひとりあそばせることのできる豊かな時空となったのでした。
われ亡くて山べのさくら咲きにけり 森 澄雄
森澄雄さんが俳句を遊んでいるとは思えませんが、
俳句をあそぶこころを大事にする人だなということを感じました。
森澄雄さんは芭蕉に学び、芭蕉さんと共に生きてきた人のようですが、学ぶ力が貧弱で、怠け者の老仁には、そのような精進の心は持てませんけれど、そのような人たちの切ないけれど、豊かなこころに触れることができるだけで、こころがHappyになってゆくのを感じるのです。
行く春を近江の人と惜しみけり 芭蕉
こころをあそばせることで、芭蕉さんも、又、人と自然と宇宙の切ないハーモニーを享受できた人なんだなあと感じます。そんないのちの享受の仕方を、遅まきながら、老仁も学びたいと思うようになったのでした。けれど、それはそれは、なまやさしいことではないのでしょう・・・。
老仁にできることは、ただ、自分に合った老仁流の遊び方を楽しむことです。
気づかなかった小さなことに気づいたとき、とても嬉しいと思います。
そんな小さな喜びを大事にしたいと思えるようになってきました。
よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉
芭蕉さん、ありがとう、と老仁は芭蕉さんに感謝したのでした。
誰も振り向かなくてもいい、小さな小さな自分を大事にしていこうと思えたのでした。
すると身辺の様子や気配が向こうから呼びかけてくるような気がします。
春暁や庭に音して父の在り 仁 (89・06)
何ということもない朝の些末な一事ですが、物音に、「あっ、親父か」と思ったとき、すうっと句になっていました。句になった後、さまざまなことが、ぼんやりと想い起こされて、なにやらしみじみとしたこころになっていました。老いた父への思いと自分の来し方行く末が去来して、そして、これでいいんだと肯う自分がいるのでした。
初めて『毎日俳壇』に投句して、岡本瞳さんにとってもらいました。
魔呼の誕生日の日でした。「誕生日プレゼントだよ」と魔呼に贈って、喜んでもらったのでした。
老仁の俳句遊びの始まりです。
花はみないのちの糧となりにけり あき子
白鳥夫人の句です。
森澄雄さんが不在の時に、突然亡くなられたそうです。澄雄さんの薬袋に書き遺されていました。
森ご夫妻は毎年吉野の桜を見に行かれていました。
白鳥夫人は<さくら夫人>にもなられたのです。
人の世は命つぶてや山桜 澄雄
無常ということを森澄雄さんは説いてきました。
二つの句は共鳴し合って一つの時空を湧出させます。
その一つの時空は、山本健吉さんや芭蕉さんや西行さんと、ワームホールでつながる、多重多層の時空を創生していくのです。その創生された時空はいのちのシンフォニーで満たされています。
「俳句」という窓を開くとそのシンフォニーが聞こえてきます。
無常ということは
人の世の「栄華盛衰」の儚さを意味しますが、もう一つの意味は、「人間」を超えた世界の在り様を意味します。
つまり、<無>が常の状態である世界です。
無常の一つの側面を「色即是空」として把握すれば、もう一つの側面は「空即是色」として把握できます。
森澄雄さんの句の世界は空即是色の在り様を理解させてくれます。
暮れと新年を大阿蘇で過ごしました。
大阿蘇は四季のそれぞれにそれぞれの趣を感じとれます。
蕭条とした大阿蘇の枯野はとりわけ老仁好みなんです。
旅に病んで夢は枯野を駆け巡る 芭蕉
時空のワームホールに入って芭蕉さんの枯野を遊泳することがとても楽しいのです。
枯野は命の結果としての荒野なんでしょうけれど、大地には命が眠っているし、新しい命が産声を上げています。
ひとり来て己ちいさき枯野かな 仁
解かれてなおも行方は見えず
もっと小さくなれば、もっと自在にワームホールを往来できるようになるのでしょう。
「少私寡欲」と老子さんは言っています。
肥大化した自我と欲望をフォーマットしてくれる力が大阿蘇の枯野にはあるようです。
菫ほどなちいさきものに生まれたし 漱石
漱石さんも又肥大化した自我との格闘に明け暮れた人なのでしょうね。
「則天去私」という願いをついに実現できなかったのでしょう。
枯草の風受けて風送りけり 仁
肌の歓ぶ光シンフォニィ-
💠 ゜・。・。 ☆ 青柳仁リンク ☆ 。・。・ ゜ 💠
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われ亡くて山べのさくら咲きにけり 森 澄雄
森澄雄さんが俳句を遊んでいるとは思えませんが、
俳句をあそぶこころを大事にする人だなということを感じました。
森澄雄さんは芭蕉に学び、芭蕉さんと共に生きてきた人のようですが、学ぶ力が貧弱で、怠け者の老仁には、そのような精進の心は持てませんけれど、そのような人たちの切ないけれど、豊かなこころに触れることができるだけで、こころがHappyになってゆくのを感じるのです。
行く春を近江の人と惜しみけり 芭蕉
こころをあそばせることで、芭蕉さんも、又、人と自然と宇宙の切ないハーモニーを享受できた人なんだなあと感じます。そんないのちの享受の仕方を、遅まきながら、老仁も学びたいと思うようになったのでした。けれど、それはそれは、なまやさしいことではないのでしょう・・・。
老仁にできることは、ただ、自分に合った老仁流の遊び方を楽しむことです。
気づかなかった小さなことに気づいたとき、とても嬉しいと思います。
そんな小さな喜びを大事にしたいと思えるようになってきました。
よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉
芭蕉さん、ありがとう、と老仁は芭蕉さんに感謝したのでした。
誰も振り向かなくてもいい、小さな小さな自分を大事にしていこうと思えたのでした。
すると身辺の様子や気配が向こうから呼びかけてくるような気がします。
春暁や庭に音して父の在り 仁 (89・06)
何ということもない朝の些末な一事ですが、物音に、「あっ、親父か」と思ったとき、すうっと句になっていました。句になった後、さまざまなことが、ぼんやりと想い起こされて、なにやらしみじみとしたこころになっていました。老いた父への思いと自分の来し方行く末が去来して、そして、これでいいんだと肯う自分がいるのでした。
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白鳥夫人の句です。
森澄雄さんが不在の時に、突然亡くなられたそうです。澄雄さんの薬袋に書き遺されていました。
森ご夫妻は毎年吉野の桜を見に行かれていました。
白鳥夫人は<さくら夫人>にもなられたのです。
人の世は命つぶてや山桜 澄雄
無常ということを森澄雄さんは説いてきました。
二つの句は共鳴し合って一つの時空を湧出させます。
その一つの時空は、山本健吉さんや芭蕉さんや西行さんと、ワームホールでつながる、多重多層の時空を創生していくのです。その創生された時空はいのちのシンフォニーで満たされています。
「俳句」という窓を開くとそのシンフォニーが聞こえてきます。
無常ということは
人の世の「栄華盛衰」の儚さを意味しますが、もう一つの意味は、「人間」を超えた世界の在り様を意味します。
つまり、<無>が常の状態である世界です。
無常の一つの側面を「色即是空」として把握すれば、もう一つの側面は「空即是色」として把握できます。
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暮れと新年を大阿蘇で過ごしました。
大阿蘇は四季のそれぞれにそれぞれの趣を感じとれます。
蕭条とした大阿蘇の枯野はとりわけ老仁好みなんです。
旅に病んで夢は枯野を駆け巡る 芭蕉
時空のワームホールに入って芭蕉さんの枯野を遊泳することがとても楽しいのです。
枯野は命の結果としての荒野なんでしょうけれど、大地には命が眠っているし、新しい命が産声を上げています。
ひとり来て己ちいさき枯野かな 仁
解かれてなおも行方は見えず
もっと小さくなれば、もっと自在にワームホールを往来できるようになるのでしょう。
「少私寡欲」と老子さんは言っています。
肥大化した自我と欲望をフォーマットしてくれる力が大阿蘇の枯野にはあるようです。
菫ほどなちいさきものに生まれたし 漱石
漱石さんも又肥大化した自我との格闘に明け暮れた人なのでしょうね。
「則天去私」という願いをついに実現できなかったのでしょう。
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