中曽根康弘元首相の葬儀が行われた。内閣と自民党の合同葬という、公私混同の一大セレモニーに1億円近い税金が投入され、多くの反対の声が上がる中、強行された。政権を取っているからといって、一政党と内閣が合同でイベントを行うという違和感と、そこに巨額の公金が流用されるという事態に、国民はただ見せつけられるだけというあしき前例が残されてしまった。
さらには、政府から全国の国立大学に対して弔意を要求するという異常なことも行われた。権力がその力関係によって内心の自由まで侵すという憲法違反を行ったが、納得のいく説明はない。
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町山智浩 @TomoMachi
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第二次世界大戦の真っ最中に行われた北アフリカでドイツ機甲部隊を率いて米英軍を悩まし「砂漠の狐」との異名を持つロンメル将軍の国葬では百万人単位の大勢のドイツ市民が集まって広場を埋め尽くした。
10月25日付け毎日新聞「松尾貴史のちょっと違和感」から、最も違和感を感じた大事な部分を文字起こしすると、
「葬儀の映像を見たが、ただただ不気味だった。灰色の軍服を着た「儀仗兵」がスラーッと並ぶ異様な風景には、まるで「ディストピア」を描いたSF映画のような終末感を覚える。あまりにも時代錯誤で、近くて遠いどこかの国のような光景に、寒気を感じた。
儀仗兵の「兵」は、武器を持って戦う軍人を指す言葉だ。自衛隊は自衛隊員、自衛官と呼ばれて来たが、それを「兵」では無いという意味があった。今回あえてその言葉で呼ぶという意味について、国民は無関心でいてはならないと思う。」
★注、10月25日付け毎日新聞「松尾貴史のちょっと違和感」では「葬儀の映像を見たが・・・」とあるが、毎日新聞など新聞もテレビも同じ挙国一致の大本営発表だった。
今回我が日本国のマスコミは誰も彼も同じでの中曽根康弘の葬式の映像を流していないのである。(特に整列した自衛隊の儀仗兵の映像はタブー中のタブー。最高機密扱いだったのですから気持ちが悪い)
日本のメディアは「歴史の法廷」に立てるか
2020年10月20日 15:01 田中龍作ジャーナル
中曽根元首相・合同葬。「ザッザッザッ」。振り向くと軍靴の足音だった。歴史は繰り返す。=17日、都内 撮影:田中龍作=
戦前戦中にタイムスリップしたのだろうか。そんな錯覚をおぼえた。=17日、中曽根元首相・合同葬の会場入り口に整列した海上自衛隊の儀仗兵=
なんとも奇妙で不気味な田中龍作ジャーナル(時代錯誤のわざとらしい白黒写真)
第二次世界大戦の真っ最中でも先進国のドイツやアメリカは大事な歴史に残る写真はカラーフイルムを使っていたのである。21世紀の今頃になっても報道写真に白黒写真を使う田中龍作の政治的な思惑とは何だったのだろうか。実に不気味だ。大昔はカラーフイルムの使用は高価だったのは少数しか使われていない。
ところが、今が世の中が逆転していてカラー撮影が普通で白黒写真の方が高くつくのである。(★注、ニクソン弾劾とかケネディ暗殺などの写真は大部分は白黒なのは当時の新聞写真だったから)
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75年前の1945年8月19日,沖縄・伊江島を経由し,正式降伏受理の打ち合わせのため,マニラに向かう日本の使節団の白色緑十字の一式陸攻の一連の画像はアメリカ軍によってカラーフィルムで撮影されていた
あざとい田中龍作の露骨な印象操作(一か八かの大博打???)
10月20日付け田中龍作ジャーナル『日本のメディアは「歴史の法廷」に立てるか』ですが、84年前の1936年(昭和11年)の二・二六事件当時の新聞報道を真似て、あえてカラー撮影を古色蒼然とした白黒写真に変えてレトロ感を演出する。
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伊江島の一式陸上攻撃機の白色塗装は学徒動員の横須賀の女学生が塗ったらしい。(白色緑十字の下に薄っすら見える日の丸がもの悲しい)
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読者に知らせず、写真を勝手に加工した田中龍作は最早ジャーナリストとは呼べない
フリージャーナリストを名のる田中龍作は唐突に小説家か映画監督になった心算でカラーを白黒に変えるあざとい演出(脚色)をしているのですから驚くやら呆れるやら。(★注、半世紀前のニクソン弾劾とかケネディ暗殺などの写真は大部分は白黒なのは当時の新聞写真だったからで田中龍作のようにカラー撮影を白黒写真に変えた訳ではない)
小保方晴子さん、手記『あの日』出版へ。STAP細胞論文は「一片の邪心もなかった」
一発退場のレッドカード
「邪心」の有る無しではなくて、個人の創作物である小説とか絵画ではないのですから、客観的な一次資料を(読者が分かりやすいようにとの善意から)説明抜きで無断で加工したら即一発レッドカード。小保方晴子にしろ田中龍作にしろ同じで「捏造」疑惑は避けられない。
少しでも修正を加えたら客観性や史料価値が大幅に減じて終うから駄目なのである。
(★注、ただし、常に普遍的で客観的な科学的事実だけを問題とする科学とか報道ではアウトでも、世間の注目を集めることが目的のエンターテインメントとしてみれば小保方や田中龍作は大成功している)
そして不気味な田中龍作の白黒写真以上に奇妙奇天烈、不気味な代物が実は10月25日付け毎日新聞「松尾貴史のちょっと違和感」である。
もっと奇妙で不気味な松尾貴史(毎日新聞)などマスコミや有識者
「葬儀の映像を見たが、ただただ不気味だった。灰色の軍服を着た「儀仗兵」がスラーッと並ぶ異様な風景には、まるで「ディストピア」を描いたSF映画のような終末感」とあるが、わが日本国のマスメディアの全員が見ざる聞かざる言わざる「挙国一致」で葬儀の映像を流していないのである。(★注、「葬儀の映像を見たが」の意味は「田中龍作の加工した写真を見た」との意味だった)
まさに、あの筒井康隆が描くような脳内妄想(虚構)と現実が入れ替わるハチャメチャなディストピアが現実化していたのである。
★注、
元々不気味なカラー画像を、もっと不気味に見えるようにわざわざ白黒に加工した田中龍作の記事のタイトルが何と『日本のメディアは「歴史の法廷」に立てるか』であることに注意。今の世の中全体が土台事大きく変わろうとしているのである。
(おまけ)
2020-10-19 19:27:40
龍作さんの記事が気に入ったことがあるので5000円寄付したことがあります。
写真を引用したのなら100円でも寄付したらどうでしょうか。
口座も公開しています。
田中氏も生活がかかっているのですから。
特殊詐欺(振り込み詐欺)の被害者(あるいは加害者の田中龍作本人か、その一味か、信者の一人かも知れないが)
今回のあざといスクープ写真と同じような例では
2018年7月13日付け田中龍作ジャーナル『安倍首相の「ヤラセ被災地訪問」 田中は記者クラブに見つからないように息を潜めた』
最初、多くの人々が田中龍作の久々の大スクープだと勘違いしたら、
何と
安冨歩(やすとみ あゆみ)リツイート
川上浩一@koichi_kawakami · 7月21日
この2枚の写真は味わい深い。
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田中龍作氏撮影。かなり離れたところから撮られたのでしょう。この写真だけでも物議を醸しましたが。
イラン国営放送プレスTVの動画から。周囲に被災者の姿はなく、出演依頼されたお二人だけ。
田中龍作の久々のスクープに見えた写真から分かることは、
大マスコミとグルで「悪い警官と良い警官」を二人三脚で演じている悪賢い詐欺師だった事実が発覚しています。
少しだけ引いたアングルなら、「特殊詐欺」の田中龍作の悪賢い手口が丸わかり。
詐欺や手品のネタはそれほど多くない
田中龍作ですが2年前の東日本豪雨被害でのスクープ写真で、政府自民党と大マスコミが実はお友達(大本営発表の寄生虫)だった事実をすっぱ抜く。
その世紀の大スクープの偉業ですが、・・・
ただ、一連の経過から実は田中龍作自身が寄生虫倶楽部の一員だった事実が明らかになっている。よい警官と悪い警官を演じ分けているのでしょう。
そもそもの話。
田中龍作ジャーナル7月11日版(第一報)の写真と記事からは、長年にわたって記者クラブと首相官邸(安倍晋三)とが「お友達」でヤラセ(仕込み)を普通に行っていた事実を田中龍作は熟知していた。とはっきり書いている。
権力とマスコミの長年の慣例を知っていたからのこその大スクープ。
ただし、それなら、なぜ今まで田中龍作が自分の読者に秘密にしていたかが当然問われる、何が田中龍作の秘密を暴く決断をした原因とは何か。
田中龍作は「知っていた」が、2018年のあの時まで「見ざる聞かざる言わざる」で済ましていた
2年前の2018年東日本豪雨の時初めて仕込み(ヤラセ)が行われたのでは無いのです。話は逆で、長年続いていたので関係者なら誰でも知っていた。知らないのは善良な読者だけ。
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上の田中龍作ジャーナルの7月11日版(第一報)でも記者クラブの面が割れるのを恐れたのか、不可解なトリミングをしているのである。(この体育館壇上の記者の顔を出来る限り写らないようアングルを工夫している)
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映画のセットのような光景だった。マスコミは安倍首相の「やってる感」を忠実に広報した。=11日、倉敷市真備町 撮影:田中龍作=(★注、壇上のイランTVの映像から安倍晋三と子供たちは10メートルも遠く離れた位置関係にあるが、田中龍作は望遠レンズなので両者が直ぐ近くだと錯覚する)
思いっきり寄生虫クラブに遠慮した(加工して壇上の記者の顔を消した)田中龍作
7月13日版記事の二枚目の写真が同じネガからトリミングされたものらしいが、明らかに大きく後退。(無関係な子供たちを画面に入れて)報道関係者(記者クラブ)の大部分の『顔を写さない』ことに一番注意して写真をトリミングしていた。
何をかいわんや。呆れ果てた裏切り行為で、そもそもが記者クラブと田中龍作は身内同士。同じ寄生虫クラブだったのである。
イランTVの画像不鮮明なのは動画からの画像だからで、しかも体育館の舞台上から全体を映しているので田中龍作が何をトリミングして消したかが丸わかり。(★注、こんな幼稚な手口に騙される人が大勢出て商売になるとは情けない限りである。それとも私の認識の方が間違いで料金を請求するとか寄附を募るほうが正しい判断なのだろうか。)
(参考記事)
記者の仕事は小説家と同じだった
多くの善良な日本人が誤解しているのだが、新聞記者というのは取材によって事実を集めて、それをもとに記事を書くのではない。
そもそも新聞記者の仕事に一番近いのは小説家であり、記者がある事件について記事を書くということは、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて生き生きと描写するのと同種の仕事(創作活動)だったのである。
あえて明確な新聞記者と小説家の違いを上げれば、
記者の方は取材した『出来事』を読者が注目するように出来る限り誇張して記事として書く。ところが、小説家はリアル感を出すために多少抑え目にして書く程度。
STAP騒動で科学論文の著作権云々がマスコミで議論されていたが勘違いも甚だしい。客観的な正しい科学的事実とは常に普遍的であり誰が書いても100%同一になる。(普遍的事実と少しでも違っている場合には、それは自動的に『間違い』であると証明される)
昨今新聞記事での著作権云々(コピペ)が大問題となっているが、これは新聞記事が『記者の創作物である』から著作権が発生するのである。(科学法則や客観的事実は常に普遍的であり同一。他と『違い』が無ければ著作権の主張は無理)
全て同一であるべき普遍的真実と、他との違いこそ命である著作権とは、原理的に二つ同時には絶対に成り立たないのである。
新聞記事の著作権ですが、これは表現を変えれば新聞社自身が、自分で『客観的事実とは無関係で、新聞記事は小説と同じ』と言っているのであリ、これは『真実を報じている』との建前の報道機関として自殺行為なのである。
(抜粋)
新聞記者はえらい、という話(記者の仕事は小説家と同じだった)June 29, 2006 H-Yamaguchi.net
目からウロコの落ちる瞬間、というのはうれしいものだ。今日もまた新しい「大発見」をして、ちょっと興奮ぎみなので、あまり時間はないが手短に書いてみる。たぶん、皆さんには先刻ご承知のことなんだろうが、私には新しい、そして大きな発見だった。
新聞記者はなぜえらいのか、についてだ。
新聞記者がえらい、という点について、疑問をもつ方はそう多くないのではないかと思う。新聞記者はえらい。えらくなければ旗を立てた黒塗りの車でどこへでも乗り付けたりできるわけないし、記者会見という公の場で人をつるし上げ、なんて大それたこともできようはずがない。もちろん全員がそういう人ではないのは重々承知した上で書いているのだが、「この人はえらい」と考えるしか納得のしようがない人、というのは確実に、それもけっこうたくさんいるように思われる。
私がわからなかったのは、それがなぜか、ということだ。なんでこんなにえらそうにふるまえるんだろう、と。その長年のなぞが今日、一気に氷解したのだ。こんなうれしいことはめったにない。
なぞを解いてくれたのは、某大手新聞社の現役役員の方。私はその方に、「新聞記者というのはなぜ予断をもって記事を書こうとするんでしょうか」と質問したのだった。個人的に新聞記者の方に取材らしきものをされたことが何回かあって、そのうち全部ではないが一部の方がそうだったような記憶がある。新聞記者は取材テーマについて必ずしも専門家であるとは限らない。むしろ専門家ではないからこそ取材に来るわけだが、それでも、書こうとする記事について、あらかじめ結論までの明確なイメージをもってやってくることがある。そういうケースを念頭において、なぜなんでしょうかと聞いたわけだ。
役員氏の答えは明快だった。記者というのはそういうものだと。あらかじめ何を書きたいかは決まっていて、それに添わなければあなたが何時間しゃべろうとも記事には反映されないのだ、と。
あまりのあっけなさに、一瞬ぽかんと口をあけてしまったのだが、考え直して、そうかそうだったんだ!と納得した。いやそうかそんなに簡単なことだったのか。
つまりだ。私は、とんでもない思い違いをしていたのだった。
私は、新聞記者というのは取材によって事実を集めて、それをもとに記事を書くのだとばかり思っていた。それが大きなまちがいだったわけだ。役員氏のいうところを斟酌すれば、新聞記者が書くのは事実ではなく、解釈された事実でもなく、その記者自身の主張なのだ。書かれるべき内容の主要部分は取材対象にではなく、記者自身の脳内にある。記者が取材に行くのは、事実を積み重ねるためではなく、自己の主張に沿った情報をネタとして仕入れるためだったのだ。
これで、新聞記者がなぜえらいかがわかってくる。新聞記者の仕事というのは、事実を伝えるルポライターの仕事とも、事実を解釈する学者の仕事ともちがう。より近いのは、小説家だ。新聞記者がある事件について記事を書くということは、いってみれば、司馬遼太郎が桶狭間の戦いについて生き生きと描写するのと同種の仕事、ということだ。
つまり、「先生」なのだ、彼らは。アーティストなのだ、その意味で。だからえらいのだ。
この理屈なら、なぜ新聞で署名記事が尊ばれるかもわかる。署名のない記事を書いている記者は、つまりはゴーストライターのような立場なのだ。早く自分の名前の入った記事を書きたい。そう記者の皆さんが思うのも当然だろう。小説家なら、自分の名の入った作品を残さずしてなんとする。めざせ論説委員!というわけだ。
そういえば、同じ場で、新聞社の元役員だった別の方が、「メディアとは『真ん中』。取材対象と読者との間に立って情報を伝えるのが役割」と説明していたっけ。その定義からすると、新聞はメディアではないということになるんだが、まあそんな細かいことはどうでもいいや。なにせえらいんだから。メディアであるかどうかなんてことより、自らの「作品」を残すことのほうがはるかに大事なことのはずだ。
日本新聞協会のサイトにある「新聞倫理綱領」というのをみると「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。」なんて書いてあるが、まあ問題ないんだろう。なにせえらいんだから。たとえ100%記者の脳内から生まれたとしても、それは個人の立場や信条に左右されているのではなく、客観的な論述になっている、はずだ。
いやほんと、わかるってのは気持ちがいい。
…あれ?じゃあいったいなんで取材なんてものをするんだ?取材って本当に必要なのか?
井口和基博士の考察
当たっているのではないでしょうか?
その為に「フリージャーナリスト」が使われているということでしょうか?
これの意味が分からない。
厚労省が主導して真っ赤な恥ずかしいデマを流して、わざと大騒動を誘導しているのですから、これは隠れ国策なのですが、「検査抑制が国策である」というのが実はタブーになっているのですから不気味。
わざと騒動になるように誘導しているのですが、意味不明なのです。
ほぼ同じことが中曽根の空っぽの棺桶を守る自衛隊の儀仗兵にも言えて、防衛省の官報にも出ているのに、何故かタブー中のタブーとして秘密にしているのですよ。
1億円もの国費を投入。普通に考えれば大勢を集めて葬儀を行うことが、そもそもの目的のはずなのに、
今回は一般市民もフリージャーナリストも全員を締め出して密葬にしたのですよ。
少しも辻褄が合いません。一番気持ちの悪いのはマスコミ全員が何故か怖がっていて全員がタブー中のタブーとして何も報じないこと。
何かの重大な禁忌に違反する、恐ろしいタブーらしいとは分かるが、その理由が不明なのです。
儀仗の意味は、儀式用の武器のことで儀仗兵は銃剣を付けた小銃とかサーベルなどイギリスバッキンガムの衛兵のように古式豊かな武器を装備しているのが決まりなんです
ところが、儀仗兵と言いながら丸腰。
武装解除されているのですから面妖な。丸っきりポツダム宣言受諾で無条件降伏した後の、哀れな日本軍の兵士の真似だった。
あるいは映画ラストエンペラーに出てくる関東軍の傀儡国家、満州国皇帝溥儀の丸腰の、一切の武器類を取り上げられた情けない衛兵の二番煎じ。
ひょっとしたら今の政府自民党は、
今の日本は敗戦国で、実態はWWⅡの満州国だと言いたいのでしょうか。それなら政界最左翼の日本共産党(志位和夫)以上に左翼的だとの愉快な話になります