『大連立か小連立か?』
次の総選挙で、自民党敗北ならもちろん下野。予想に反して自民党大勝利でも現在のネジレ状態は解消しない。
解散の無い任期6年の参議院選挙の、自民党大敗北の衝撃的な結果は『自民党の下野か大連立しかない』、が私の結論です。
参議院民主党十数人のグループとの小連立(吸収合併)がベストだが、実現するだけの知恵(策略)が無かった。
だから自民党としては最良の小連立が出来なかった。
しかし下野をするだけの勇気も無い。
進退窮まって残された道は、大連立しかなくなった。
それでも首相の椅子を餌にすれば民主党は食いついたが、今の『福田自民党』には昔の『河野自民党』ほどの踏ん切りがつかない優柔不断ぶり。
これでは大連立の実現は最初から無理。
選挙で大論争していても終われば手の平を返したように大連立する例はドイツなど海外には数多い。
しかしアメリカやイギリスでは大連立の例は無い。
この二つの違い、大連立が成り立つか、成り立たないかの分かれ目は、政策論争ではなく選挙制度に有る。
中選挙区や比例代表の下では各党の候補者選びは問題ないが、小選挙区制では大連立した与党同士で、小選挙区の候補者が決められない矛盾を解決できない。
小選挙区制の下での大連立は、自民党と民主党の合同が実現しないと無理。
しかし合同すると国会で90%以上の議席を有する巨大政党になり正に挙国一致の大勢翼賛会の再来。
これは多分国民が支持しない。
今回の自民民主大連立騒動で小沢一郎が選挙制度(中選挙区制)を考えていたのであれば策士中の策士ですね。(考えていなかったとすれば唯の馬鹿)
一部のメディアは党首会談で『中選挙区制』の話も出たと報じています。
この時、小沢一郎は自民党に公明党を切ることを要求し、福田が断ったらしい。
とはいえ、小選挙区制の実現は『2大政党制を実現させる手法』と宣伝して、小沢が推進してきた歴史がある。
何処までが本当だったのかは定かでないが、本気で『中選挙区制』を導入しようとしていたとすれば、自分で生んだ子供(小選挙区制)を殺す、母親の子殺しの様で、ある意味では小沢らしい。
小沢一郎は過去に、自分で創った新進党を、党主の再選時の票数が過半数ギリギリで、目指していた圧倒的多数の支持が得られないことに怒って、勝手に解党した実績がある。
小選挙区制での連立は自動的に連立した政党の合同に向かいます。
細川連立政権でも与党8党が合同して新進党を結成。このとき衆議院公明党Aは与党として新進党に合流しました。(残りの公明党Bとは分離???)
河野洋平の新自由クラブが合同して消滅した例や、自自公連立政権では小沢自由党離脱後に残留組みの保守党は自民党と合同して消滅する。
唯一の例外は9年も自民と連立している公明党ですが、いみじくも民主党石井一が国会質問で言ったように『公明党から創価学会を抜いたら議席はゼロ』です。
いかに亀田ばりの反則技も可の、何でもありの自民党でも政党で有る限りは、カルト臭い宗教組織との合同は憚られる。
自公は合同しないのではなく、連立程度は出来ても『政権政党』としての面子が邪魔して絶対に合同できないのです。
『憲法違反の宗教政党の存在』
憲法20条の政教分離の原則を日本人は勘違いしているようですね。
日本では宗教(国家神道を含)を国家権力(世俗勢力)が利用してきた長い伝統(歴史)がある。
其の反省から国家が宗教を利用することを禁止しているのが憲法20条だと思っている。
日本の国家権力は常に宗教勢力より上位にあったが欧米諸国は其の逆で常に宗教勢力が国家(世俗勢力)の上位にあった。
欧米と日本では宗教勢力と政治(世俗勢力)との力関係が正反対に為っていた。
今でもイランなどイスラム世界では、アフマデネジャド大統領等の国家権力の上に聖職者の最高権力者ハメネイ師が君臨する。
民主主義が謳われるようになってから、宗教勢力が国家権力の上になる事の弊害を防ぐ目的で造られたのが憲法の政教分離の原則です。
世界基準では、明らかに公明党は反民主主義的な違憲の政党になる。
それにしても創価学会は仏教というよりもキリスト教的な一神教モドキですね。
『創価学会はカルト宗教』
フランスでは法律で、宗教に名を借りた反社会的活動 (カルト)と創価学会(SJI)を認定しています。
SGI(創価学会)はフランスでは政治活動をあまりしていないようですが、在日のカルト教団は強力な権力志向(権力と結託したがる傾向)があるようです。
世界的に見てもイスラエルのユダヤ原理主義、サウジアラビアのイスラム原理主義のワッハーブ派、アメリカのキリスト教原理主義の福音派など何れも権力へ執着心は並大抵ではない。
カルト教団の政治好きは日本独自の特徴では無いようです。
オウムがオウム真理党の名前で参議院選挙に立候補したり、
インチキ霊感商法の統一協会が勝共連合を名乗り政治結社を装って、多くの自民党議員に対して、無料で個人秘書を大量に送り込み活動している。(議員個人の弱みを握れば操れる)
創価学会は公明党。
オウム、統一協会、創価学会の順番にカルトは小さいほど精鋭化し危険になる。
三者では創価学会が一番大きいので一番穏健ですが、選挙戦では民主党など相手陣営へ猫の死骸を投げ入れたり口コミの誹謗中傷、家族への嫌がらせ等カルトならではの違法行為が色々報告されています。
『キリスト教も初期はカルト』
カール・セーガンの『人はなぜ似非科学に騙されるか』やドーキンスの『神は妄想である』によると世界最大の宗教であるキリスト教は今でも(一部は)カルトらしい。
日本では一流の科学者が宗教や宗教行事を批判することは、はしたない、見っとも無い行為と思われていますが、ドーキンスやセーガンが此れほどまでに情熱を傾けて宗教批判を展開しなければならない深刻な事情が欧米にはあるようですね。
アメリカでは進化論を受け入れている人が3割の少数派で、残りが聖書の創造神話を信じている。
無神論者は悪魔の手先、鬼畜扱いで政治家には絶対になれない。
唯一の同盟国アメリカが、『政教一致の神聖国家』である現実(怖さ)を日本人のほとんどが理解していないようです。
『欧米と日本は力関係が逆』
欧米と日本では科学と宗教との立位置、力関係が逆さまになっている。
日本で宗教の受け持つ範囲は、倫理面に止まり、科学とはまったく関係ない。
しかし欧米キリスト教世界では、宗教は政治等の世俗世界の上に位置し、ガリレオの宗教裁判の例のように科学をも支配したがる。
そんなことをするから西欧は、ルネッサン期以前にはオリエントや中国などの東方世界に大きく立ち遅れ、野蛮未開状態だった。
(ルネッサンス三大発明の火薬、印刷、羅針盤は既に1000年~数百年前に中国で発明されている)
なぜ未開野蛮の西欧で、科学が飛躍的に進歩し、結果的に世界支配を実現したかの謎は、宗教改革にあるんですね。
宗教改革の結果、法王や教会の権威は致命的に傷ついた。
聖書の権威も、修復し難いほどに傷ついた。
其の傷を癒す為に科学が利用される。
今までのやり方は通用しなくなった。
スコラ哲学全盛時のように古代の書物の中から真実を探すのではなく、現実世界の探求(科学)が求められた。
人体を解剖したり、世界に漕ぎ出して動植物を蒐集する。
其の目的は唯一つ。
『聖書の記述』が現実世界と合致することを科学的に証明し『聖書』が無謬であることで宗教の復権を考えたんですね。
科学は宗教の僕としての位置では有るが、社会全体の巨大な支援を受けることになる。
西欧世界では、結果的に科学が大進歩する。
そして、その進歩した『科学技術の力』で『世界支配を実現』する。
そんなわけで,神父さまに破門してもらい,現在ではやはり同じ街中のプロテスタント教会へ通っている.違う所と言えば,後者は礼拝が10:15から始まる点である.これならマンションの近くのバス停から余裕で通える.
# いずれ自分のブログで書くが,実は牧師さんからは再洗礼の必要はないと言われている.要するに信仰,つまり心の持ちようが大切だからとのこと.
カトリックにも色んな宗派があって,例えばサビエルが属してたイエズス会などは,はっきり言ってカルトである.世界を福音で宣教しようなどという目茶苦茶に日本も巻き込まれたのだな.
プロテスタントも例えば福音教会の特に Power for the living などはオウム真理教を越えるほどの過激カルト集団である.しかも統一協会同様に資本力があるから,何をしでかすか分からない.ドイツではネオナチ運動と連携したとされて追放されたような集団だ.従って,政教分離は不可欠なものだと私も思う.
プロテスタントになって思うことは,神と対話するのはただ自分一人で,牧師の説教の最中に物凄い孤独を覚えることだ.教会に仲間は集まっているのだけど,神と対話しているのは孤独な個人なのである.
その点,私が職業としてきた科学は違う.科学は万人のもとに開かれている.だから,インチキに利用され疑似科学 (pseudo science) となる危険性 (demarcation problem) もあるし,旧約聖書のモーセ五書を全部真実と信じる「創造科学」creation science の原理主義者を説得したり叩き潰したりする必要も出てくる.
ちなみに,科学とか科学的ということばの意味が分かってない人のために,ちょっとヒントを.
1)演繹的推論と帰納的推論の区別ができること
例えば演繹的推論とは「アメリカ人はみな狂牛病の牛肉を食べる」「マイク君はアメリカ人である」従って「マイク君は狂牛病に罹る(可能性がある)」という論理展開を指します.
反対に「n1+n2+n3=1, n1+n2=1, ∴ n1=1」などのような,高校数学で習う「数学的帰納法」がありますけど,これはウソの塊です.単純に前提の中に含まれない情報を結論で無理矢理n2=n3=0 だと決め付けているに過ぎないのです.これを帰納的推論と言います.
2)帰納主義
枚挙的帰納法 enumerative induction と言って,bottom up な,同種のできごとのくり返しから一般化をこねくり出すことがまず1つ目.上で高校で習う数学的帰納法は「結論の確実性」でデタラメだと書いたのは,これが理由である.これはベーコンなどが厳密な科学的方法として18世紀に用いていました.
もう一つが仮説演繹法 hypothfico-deductive method という方法論で,ある仮説を立て,任意の条件下(初期条件)ではこんなことが起きるはず(観察予測)だ,という予想を立てて,実際にやってみる(観察)ことで,仮説が検証されたか反証されたかを結論づけるものです.
例えばさっきの例を使うと
仮説:アメリカ人はみんな牛肉を食べる
初期条件:マイク君はアメリカ人である
観察予測:マイク君は牛肉を食べる(はずである)
ところが,マイク君はベジタリアンであった(笑)
科学哲学について書いていると長くなるので,ここではこの程度にします.