9・11事件から十周年目の9月13日、朝日新聞の紙面審議会委員の肩書きの内田樹が、『わたしの紙面批評』欄に『情報格差の拡大』と題して、『インターネットの出現で情報貴族と情報難民の階層化が進んでいる』ので『情報の無政府状態が出現しかねない』とネット世界の拡大と、相対的にこれまで国民世論を一極支配していた新聞報道が衰退していく現状を憂える論説をしている。
(内田樹の『情報格差の拡大』を要約すると、)
横並びで均質な『日本の特徴だった「情報平等主義」がいま崩れようとしている。』
理由は、インターネット情報の出現であり、新聞情報の相対的劣化である。
『インターネットでは「クオリティーの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」に良質な情報が排他的に集積する傾向がある。・・そこに良質の情報を求める人々がリンクを張る。(情報貴族の出現)
逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。(情報難民化)』
良否の判断ができない(能力が低い)ネットユーザーの特徴は『話を単純にしたがること』である。→その結果、『最も知的負荷の少ない世界解釈法である:陰謀史観:に飛びつく』ことになる。→
この『陰謀史観』では、『自分は世の中すべての悪の根源を知っている。』という全能感を持つことが誰でも簡単に出来る。→
この陰謀史観の『全能感』に浸てしまうと、それ以外の解釈可能性を認めなくなる。→
そして『マスメディアからの情報』を、世論操作のための『うそだ』と退ける。→
彼ら(陰謀論者)の不幸は、自分が『情報難民』だということを知らないという点にある。
と主張していて、
『私は階層社会の出現を望まない。もう一度「情報平等社会」に航路を戻さなければならない。そして、その責務は新聞が担う他ない。』と結んでいる。
内田樹は何時でもですが普通の一般論としてなら、一見すると実にまともな意見に思える仕組みなのですよ。
うっかりしていると誰もが内田論説の裏に隠されている邪悪で薄汚い真相は見えないので、全員が賛成しそうである。
『狡猾な内田樹の姑息で卑劣な陰謀』
ミッションスクールの元教授内田樹の手口ですが、相変わらず手際が良いので大勢の善良な人々が騙される。
内田樹は、例によって話の『枕』のつかみは良く出来ていて、皆さんが『なるほど!』となるのですが、その後が良くない。
内田樹の情報難民の例として出すなら、当然小林よりのりの漫画で真実の歴史を学んだと勘違いして、今まで長い間日本社会や大人や日教組の教師に『騙されていた』と怒り狂い、『自分だけは真実を知っている』と思っている嫌韓嫌中(ネットウヨ)の可哀想な若者たちがピッタリですよ。
『情報難民である。』との内田樹の指摘は、全ての客観的な科学事実に対応しており、誰にでも実に良くわかる。
インターネットの仮想空間だけに蔓延る、我々の様な大人世代では理解不能な存在である嫌韓嫌中(ネットウョ)の不思議が、内田説の『これは情報難民である』との解釈では、核心部分を突いており科学的に的確に解明されていて素晴らしい出来上がりである。
ところが世間知らずの、この内田大先生は『ネットウョ』とはいわないで突然『陰謀論』と仰られるが、今のネット世界で陰謀論とは粗9・11陰謀論に話が限定している事実は御存知ないらしい。
しかも9・11から10周年である。
世間の誰も彼もが、今は対テロ戦争の原因の9・11を思い出している時期ですよ。
そして今ではアメリカ政府の方が、何らかのインチキ(謀略)をして戦争を始めていて、最初は胡散臭いと思われていた陰謀論の方が『正しかった』と判ってきた。
しかし大手新聞しか読めない情報難民は、可哀想にWTCはツインタワーだけであると思っていて新聞が絶対に書かない47階建てのWTC7が9・11で崩壊した事実さえ知らない。
『正誤や善悪の勝敗が逆転した現在の世界』
9・11では、10年で『正論』と『陰謀論』の立場が正反対に180度逆転して仕舞ったのです。
今では大新聞のマスコミ世界だけは例外ですが、一般市民層では例外なくアメリカが何らかの謀略を企んだのは知っているので、過激派の自作自演説を筆頭にして世界の市民全員が例外なく過激派か穏健派かの程度の差があるだけで五十歩百歩の認識である。
今では一般市民全員が、『みんな仲良く陰謀論者』なのです。
陰謀論をもう一つ指摘すれば、今の日本社会で、このインチキ臭い陰謀論といえば、40年間反原発を貫いた原子力学者の京大の小出助教も、安全神話の原発村からは『陰謀論まがい』であるとか『とんでも』扱いであり、政府・経済産業省・保安院、原子力学会、電力会社、マスコミなど総ぐるみのイジメにあっていた。
しかし、半年前の3・11から世界が180度変っている。
正論が正しい平和な『安全安心』の時代は遠く昔に過ぎ去り、今では9・11陰謀論だけではなくて3・11でも正邪の勝敗が逆転する下克上の戦国時代に我が日本国は突入してしまったのです。
ところが例によって、この御仁は人一倍悪賢い。
何時ものことですが実に巧妙に批判されないように具体的な実名を絶対に出さず、わざと読者を迷宮に誘い込む手口は鮮やかである。
例によって、自説に一番ピッタリの『漫画中毒』であるとも『ネットウヨ』とも、一言も書いていないのですよ。
『9・11から10年目、3・11から半年』邪悪すぎる内田某
『恨みに報いるに徳をもってなす』と被害者側が言えば高貴な素晴らしい発想だが、加害者側なら逆にとんでもない傲慢で下劣な主張となる。
反原発の立場で清貧に甘んじた小出助教が『大事なのはお金ではない』と言えば納得するが、同じ言葉でも大金持ちの孫正義が言えば嫌味に聞こえる。
ましてや税金を払わず資産世界一になった西武の堤義明や政府の規制緩和委員会議長で濡れ手に粟の大儲けをしたオリックスの宮内義彦が言えば、これ以上に腹が立つことは無い。
『男は顔ではない』は私の口癖だが、同じ言葉をSMAPのキムタクが言えば絶対に賛成出来ない。
『お前が言うな。!』
幾ら正しい社会正義や正論でも言う場所や人物、時期によっては正反対の意味になる。
それなら、あっと驚く空中大回転。
今のネット世界の大勢である『政府や原発学者やマスコミが真っ赤な嘘を付いている。』とする反原発の風潮を苦々しく思っている既存の原発利権集団にとっては、この内田樹の今回の『不思議な主張』はピッタリなのですよ。
今の日本国民全員に蔓延する反原発の風潮を一纏めにして、乱暴にも『陰謀論』と呼んで攻撃する不思議な何とも腹立たしい、とんでもない主張なのです。
『一般市民の自然な反原発を陰謀論扱い』卑劣な印象操作
この内田樹の今回の主張は、特定の問題について述べているのではありませんが、書かれているのは9・11から10年目であるが、それ以上に日本人全体に関係していて未だ収束の目途さえ立たない3・11原発事故から半年目の節目である。
今の日本人全体の最大関心事とは嫌韓嫌中(ネットウヨ)でもないし、9・11から続く対テロ戦争でも無い。
3・11以後半年で、今や普通の日本全体の一般市民の価値観は、根本的な大変化を起こしている。
行政やマスコミへの不信感が極度に高まっている。
今まで常識であるとして一度も疑っていなかった前提条件や常識、すべてを疑う全否定の姿勢が、初めて我が日本国でも生まれたのです。
常識の根本が疑われているのですから、政府や大手マスコミとしては危機的な状況であるとも考えられる。
この内田樹の主張する、『全否定の単純化に陥ることを、一番警戒しなければなら無い。』とは何の意味か。
半年前の3・11とは、日本の政府やマスコミ等の絶対の確信だった『原発安全神話』が崩壊して全否定された、とんでもない『特別の日』であるのです。
ところが福島第一原発は爆発しても未だに原発安全神話の信者の御用学者たちA級戦犯達は誰一人も、逮捕拘留も公職追放にもならず現職のまま留まって実権を握り続けているのです。
内田樹は、電波芸者の香山リカが『反原発は引きこもり』と具体的に名指ししての、お馬鹿極まる主張をネットで行って袋叩きにあって大失敗した先例を良く知っている。
あるいは3・11直後に原発の危険性を長年訴えていた広瀬隆を『とんでも』であると個人攻撃して、その現実離れした非科学性を自分の信者からも呆れ返られたニセ科学批判教の菊池誠教祖の大失敗を知っているのですよ。
それで能天気で世間知らずの香山リカや菊池誠よりも桁違いに賢い内田樹は、このような悪質な印象操作を行っているのですね。
何とも腹が立つ忌々しい話である。
コメントで、小学生低学年では定理である、『アホ言うものが阿呆や』といった直ぐ後に、
ぽちさんは、『陰謀論者』であると主張するのですが、『陰謀論という者が陰謀論者』なのですよ。
大笑いですね。
残念ですが、
『不愉快である』との不満のマイナス感情は理解出来ますが、コメント内容が抽象論に終始していて意味不明です。
それはご自分の感情論ですよ。
ですから論評のし様が無いのですよ。
客観的な科学的事実には興味がありますが、無関係な誰かの内心には何の興味もありません。
今3・11の影響で、マスコミとか政府の信用度は極度に低下して、昔のように丸々信じている人等は誰もいないのですよ。
幾ら他人を口汚く罵倒しても、事実の指摘が何ら無いので、主張自体の意味はなく客観的事実に変わりが無いのです。
唯一の具体的な記述であるのは、
>『例えば、あなたは「一般市民層では例外なくアメリカが何らかの謀略を企んだのは知っている」と書いています。しかし、一般市民層は、そのようなことを思ってなんかいません。』<
それは残念ながら、ぽちさんの勘違いが脳内妄想ですよ。
事実はアメリカのブッシュ大統領さえも、自分自身の間違いを認めているのですよ。
ぽちさんの主張するように、誰もが、マスコミの公式発表を本当に信じていると仮定するなら、
困った事にぽちさんの今回のコメント(この記事への意味不明の不平コメント)自体が不要なのです。
客観的な事実は逆で、
当方の記事が主張するように、今まで信じられていた『マスコミの公式発表』が地に落ちて仕舞い、誰も信用していないから、読んで腹がたつから嫌がらせコメントを書いているだけなのです。
ぽちさんは、御自分が何をしているのか、論理的に考えることが出来ないので、矛盾点にまったく気が付いていないのでしょう。
具体的な批判・批評なら大歓迎しますが、内容が無さ過ぎます。
本来なら落書き(低級な嫌がらせ)として即刻処分する対象ですが、反省を求める為に暫くこのまま掲載して置きます。
「テレビ新聞等マスコミで語られている内容は実は嘘で、真実は他にある」
常識人は、このようにはまったく思っておりません。
インターネットにどっぷりはまった人のみが、このように考えているように思えます。
例えば、あなたは「一般市民層では例外なくアメリカが何らかの謀略を企んだのは知っている」と書いています。しかし、一般市民層は、そのようなことを思ってなんかいません。
どのようにしてあなたがそう思ったのかは知りませんが、ネットでの意見で大勢を占めていたからといって、それが一般市民層の考えと同じとは言えませんよ?
ネットには様々な刺激的な内容が書かれており、より刺激的なものへの賛同が大きくなってしまうのです。そこに信憑性はついてきません。
あなたの意見は、まさにインターネットの世界にありそうな「興味深い」話でしたが、
つまらない話を「興味深い」設定を加えてしまうのが、まさに陰謀論者では?
ちなみに、私の中での情報に対する強者の順番は、以下のとおりです。
1.「マスコミ・インターネット両媒体の情報の中から、知りたい情報だけを得る」
2.「新聞から情報を得る」
3.「インターネット上で大勢を占めている意見を世論だと思い込む」
あなたは3です。現実世界との意見の差に気づけていませんから。
友人からの噂話を鵜呑みにしているのと同レベルですよ 気をつけてください。
それは話の筋道、原因と結果が多分逆様ですよ。
マトリックスさんが、普通なら当然感じてはずの『疑問点』を口に出して相手から『陰謀論である』と一蹴され、悔しい思いをした経験があるから、その様に思うのですよ。
これは、最初から勘違いですね。
ネットウョの落書きコメントの嫌がらせと、その意味が同じなのです。
彼等は、別に会話がしたい訳ではなくて、その逆なのですね。
恥知らずにも消されても消されても、汚らしい捨て判コメントを飽きずに繰り返すのは、相手と会話したいからではなくてその反対。
相手の発言を何とかして妨害したいのですよ。
私も自分のブログに残せるようなコメントは極力残しているのですが、汚物並の水準を放置するのは、来て頂いている他の真面目な読者に対して失礼だから涙を呑んで、仕方なく不掲載にしているだけなのですよ。
中には捨てるのは惜しい大笑いも沢山混じっているのですが、汚すぎるので不掲載にして、残念に思っているのですね。
この、『それは陰謀論である。』との言葉の意味ですが、
一昔ぐらい前ならそれは、『見解の違いである。』と我々の世代では言っていたのですよ。
どちらも意味するところは同じで、『その話はしたくない。』の意味なのですね。
何かの討論で相手に言い負かされて返答に詰まり本当なら、『私の勘違いでした。』、『貴方の言うとおりで間違い有りません』というべき所を悔しいので『負け惜しみ』のインチキですね。
勝敗無し、意味不明の泥仕合に持ち込むのです。
そもそもの本来の陰謀論ですが、我が日本国では粗ユダヤ陰謀論に限定されていて、無責任な酒席ならともかくまともな大人が素面で言うような水準では無いのですよ。
勿論知識人が口に出す言葉ではない。一般社会では陰謀論などの言葉の使用例は皆無ですよ。
事実ネット世界でも大学教授など所謂知識人で陰謀論などと口走るのは、ニセ科学教の菊池誠と、今回の内田樹程度で例外的な少なさなのですね。
社会科学の知識が少しでも有れば誰であれ使用が憚られる恥ずかしい不思議な言葉なのですね。
小学生低学年で、『阿呆言うものが阿呆や』というはやし言葉があるのですが、この話では何とぴったりと当て嵌まるのですから面白いですね。
小学生低学年では『定理』であるのですが、『陰謀論という者が陰謀論者』なのですよ。大笑いですね。
話す問題を木に例えるなら、問題自体(木)を見ずにたった一つの言葉(葉)から木を見ずに全てをわかったと思い込んでしまうようです。
『真実論』と言い換えられるという話しからも、せめて『陰謀論』ではなく『陰謀説』と名付けられていたら真剣な印象を受けるし、『共同謀議追求』とでもいうなら厳粛で真実味を持った印象を受ける気がします。
実際に自分の中学時代の話しですが、当時、クラスで『大貧民』というトランプのゲームをしていた時に、カードを配る番の時にインチキをして強いカードが自分のところにくるようにしていないか、「お前、陰謀家だろっ」との冗談や、教科書の中の日本史の出来事で、「鹿ヶ谷の陰謀!」とふき出したり、とるに足りない話しという扱いであったのが一般的な世の中の感覚という雰囲気でした。
『陰謀論』という響きというか語感とでもいうか、無理なことをいう『暴論』に通じるような感じで連想してしまい、聞く前から否定的な印象を持ったり、マイナスのイメージの先入観で聞くことになっていると思われます。 印象操作で選ばれ広められた言葉でしたら、日本語的に絶大な効果を持った「陰謀隠しの陰謀論」ということでしょうか…
太宰治の『斜陽』の中で『ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ』といいながら大酒を飲むと言う何とも悪趣味な話なのですが、
これは、処刑道具を拝むキリスト教に対する皮肉であるとも拡大解釈できるのですよ。
仏教でも年老いて死ぬ間際のブッダの涅槃像はあるのですが、これは何故か日本では全く流行らない。
日本の特異な、不思議な現象(心象風景)だと思いませんか。
これと正反対の考え方がキリスト教で、キリストの殺害に使われた磔台を信者たちはありがたがって拝んでいるのですよ。
これは他の宗教では絶対に有り得ない不思議な話であり太宰の『ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ』と似ているのです。
処刑方法が斬首刑だったならキリスト教のシンボルは今の十字架ではなくてマサカリとか刀とかの刃物になっていたのです。
ただ当時の磔台は後世のローマ時代の十字ではなくてT字型であったらしいのですから、本来なら十字架は間違いですね。
釈迦やマホメットは処刑されていないが、例え処刑されていても処刑道具を拝むなどは趣味が悪すぎる。
内田樹ですが、彼の言説を現在の政治や経済の話をしていると思うから腹が立つのです。
彼は神戸の4年制女子大のプロテスタント系のミッションスクールの教授であった事実が一番重要であり、
実は今でもキリスト教のミッション(伝道)を行っているのですよ。多分。
ええっ?!そう来るのか!という、意外性と、好奇心にドライブされて弄ばれている感じの心地よさ。
どこに着地するのかわからない文章に翻弄されている心地よさは、ジェットコースターの快感に共通するものです。
良く出来た落語の魅力にも通じます。
普通一般に価値があると思われているコトに疑問を表明し、それに反する常識的な意見を提示し、さらに、そのやり取りをワヤ(無価値)にするエピソードを提示する(落語のオチ)。
こういう話術(文章術)が魅力なのだと思います。つまり、高尚な(に見える)落語であると思えばよいのです。
政治や経済のシステムをどうすれば良いのかということを、内田先生から学ぼうとしても無意味です、というか有害です。
『内田先生の言説は役に立たない』という意見があったと記憶していますが、役に立たないどころではありません。
庶民にとっては有害です。人畜無害の、あっても無くてもどうでもいい言説なんかではありません。
弱者、敗者、さらに庶民にとっては積極的に有害な言説です。
内田樹先生の魅力は、一つには、その文章のグルーブ感だと思います。
ええっ?!そう来るのか!という、意外性と、好奇心にドライブされて弄ばれている感じの心地よさ。
どこに着地するのかわからない文章に翻弄されている心地よさは、ジェットコースターの快感に共通するものです。
良く出来た落語の魅力にも通じます。
普通一般に価値があると思われているコトに疑問を表明し、それに反する常識的な意見を提示し、さらに、そのやり取りをワヤ(無価値に)するエピソードを提示する(落語のオチ)。
こういう話術(文章術)が魅力なのだと思います。つまり、高尚な(に見える)落語であると思えばよいのです。
政治や経済のシステムをどうすれば良いのかということを、内田先生から学ぼうとしても無意味です、というか有害です。
『内田先生の言説は役に立たない』という意見があったと記憶していますが、役に立たないどころではありません。
庶民にとっては有害です。人畜無害の、あっても無くてもどうでもいい言説なんかではありません。
弱者、敗者、さらに庶民にとっては積極的に有害な言説です。
内田樹を見ていて腹が立つのは、第二次世界大戦時の日本のインテリ層と、何ともそっくりだからですね。
日本の戦争の意味が判らなかった連中もいるのですが、一般市民層とは違うのですよ。
そもそも、一般市民層とは大きく違い抜きん出た知識があるから知識層なのですよ。
ですから、これ(知識や判断力が一般水準で戦争に賛成していた)は本当の意味の知識層とは言えないでしょう。
彼等は情報を手に入れることが出来るので、帝国の敗北を、事前に知識人たちは予想していたのですよ。
ところが何もしなかったばかりか、実は正反対の発言をしていたのです。
極親しい身内には本心を告げた可能性もあるのですが、仲間内の小さな集まりでは戦局の不利を嘆き、もう少し多数の会合では当たり障りの無い一般論を述べて、もっと大きな世間に向かって発信する時は八紘一宇とか滅私奉公であるとか一億玉砕とかの陳腐な戦争スローガンを、誰よりも大きく声高に叫んでいたのですよ。
一般市民でも不誠実なのですが、彼等は指導的な立場にありしかも他の人とは違い正しい情報も握っていたのですから、許される範囲を逸脱しているのです。
内田言説を役に立つ立たないという視点で見ること自体に違和感があるのですが、どのような視点で見るかは人それぞれですので、まあ、それもありでしょう。そして、その視点から見るならば、「役に立たない」という結論はその通りなのでしょう。
(但しこの視点そのものが、役に立てる構えがないと私などは受け取るのですが、まあ、それも人それぞれですから。)
いつものことで申し訳ありませんが、ふと思ったのは、役に立つ立たないの視点で見るならば、内田言説は『水からの伝言』ではないのか、ということです。あれも実用的かと言われればテンで役に立つものではないし、それどころか害悪である。そういった視点から様々な批判が繰り広げられたことは、もうすでにかなりが忘却の彼方へと消えていきましたが、記憶の片隅には残るところです。
あの騒動のなかで思い出すのは、結局、ニセ科学批判と、批判批判とがどこまでいっても噛み合わなかったことです。というのも、両者の「役に立つ」の視点がまったく平行線だったからです。科学的な視点で見るならば、どうみても『水から』は役には立たない。しかしそれは承知の上で、何らかの役に立てようという勢力もあった。「何らかの役に立てよう」と思っている者に「科学的に役に立たない」と言ったって、通じる訳はない。そういった意味では、ニセ科学批判はほとんど役には立たなかった。それどころか、別の次元での害悪を振りまくことになった。その当たりは宗純さんが詳しくご存知だと思いますが。
私は内田言説批判にもそれと同じような構図を感じます。内田は役に立たないという批判もまた、何らかの役に立てようと捉える者には役に立たない。で、実際に何かの役にも立たないかというと、それはそんなことはないのです。実際、強者は役に立てることが出来る。そして子どもに教育を施す者は、教え子を「未来の強者」として接するのが当然の心構えです。
結局何が言いたいのかと言いますと、内田言説が役に立たないという批判をするのは構わないが、そう批判をするならば、その批判自体が何の役に立つのか自問するべきだ、ということです。内田判がもともと内田言説に批判的な者の共感しかえらないのであれば、それは似た者同士の結束を強めるという以上の役には立っていない。そんな程度でいいのか? ということです。
とはいうものの、私も最近、内田批判に転じつつはあるのですが。ですが、ここで行なわれているような批判には同調できないと思うわけです。
それそれ。それです。
自分が言いたいことを、誰かがぴったりの表現で説明してくれると、実にすっきりとしますが、『抽象的な役に立たない水準の語りで煙に巻いているの』とは素晴らしい視点です。
話の枕とかは実に判りやすくて誰でもが引き込まれるのですが、途中で何か(難解な哲学?)を騙しているらしいのですよ。
これが吉本隆明では、
『指示表出と自己表出を構造とする言語の全体を、自己表出によって意識からしぼり出したものとしてみるところに、言語の価値はよこたわっている。あたかも、言語を指示表出によって意識が外界に関係をもとめたものとしてみるとき言語の構造につきあたるように』
見たいな最初から最後まで意味不明で煙に巻いている。
ところが善良に出来ている多くの人々は『自分が良くわからないのは→自分の理解力が足らないから』と善意に解釈して『吉本隆明は凄い思想家』だと勘違いする。
坊主の説教とかキャリア官僚の答弁書と同じで、実は誰にも判らないようにとわざわざ不明瞭に書いてあるのですよ。
ところが内田樹はその正反対で、主張が斬新で視点が鮮やかであると同時に、言葉遣いが実に判りやすくて誰にでも『なるほど』と思わせて信頼を獲得する。
普通の善良な人々は、内田樹が素晴らしい人物に見えてしまうのですね。
人間とは一度信頼してしまうとその後の話も信頼するのですよ。途中から疑うことは普通は行えない。
馬鹿高い高級羽毛布団を売る前に餅焼き網とか笊を無料で配るプレゼント商法とか、高齢者に親切にして不必要な工事を契約するリフォーム詐欺の手口の言論版。
実に悪賢いというか一筋縄では理解出来ない人物ですね。
内田樹が有名になったのは内田流格差論なのですが、これは当ブログでも厳しく批判しています。
俗論、内田流格差論が流行った理由
2008年02月24日 | 経済
俗論、内田流格差談義の腹立たしさ
2008年02月23日 | 経済
彼の語りはいつも常識と反対方向へ一度振って読者を引きつけて、最後には抽象的な役に立たない水準の語りで煙に巻いているので、哲学を齧った程度の連中には好まれますけれども、役に立たないですね。
役に立たないことは内田さんの本を読んで分かりました。
まあ役に立たないものから深い意味を見出すのが能力の高い人間であり、実益を追及した結果が大学の崩壊に繋がると彼は適当に語るでしょうけれど。
『一面は、「年内に冷温停止」で、「さよなら原発」記事はたったの15行。』というのは面白いですね。
炉心溶融した後の冷温停止などナンセンスの極みであり、空っぽの圧力容器が100度になったとしても意味は無い。
政府の『昔に戻れる』との嘘が通用しなくなりつつあるのでしょうか。?
今後の動きに注目ですね。
『戦後最大の思想家?」とマスコミが喧伝した吉本隆明氏』という話は、少し前の安倍晋造の、『国民的人気の政治家』と同じ意味であり、言葉自体には何の意味も無い日本語の『まくらことば』ですね。
吉本某ですが、戦後最大の思想家どころか薄汚い二流のペテン師にしか私には見えませんね。
その意味では吉本隆明は到底逆立ちしても内田樹の知恵には届きません。
吉本ばななの父親だったお気楽な極左の成れの果てです。
一流のペテン師である内田樹とは大分出来が違うように思いますが、今回の朝日の記事ですが、自分が一般の信用があることを思い上がって、上手のてから水が漏れたのですよ。
記事で言っている主張とは、
喜界島に流された俊寛僧都の同じ発想であり『栄光の昔に返せ~え。!戻せ~え。!』と嘆いているのですが、決して昔には戻れない。
内田エージェント説とは、そもそもご自分の説であり私のこの記事の説ではありません。
原発を日本に押し付けた読売の正力オーナーはアメリカのエージェントで間違い無いでしょうが、石原慎太郎はエージョンと違うのですよ。
これはキッシンジャーがエスタブリッシュメントのエージェントではなくて自分自身がエスタブリッシュメント(特権階級)だと思っているのと同じで、内田樹は自分自身をエージェントなどと一回も思ったことは無いはずです。
エージェントではなくて正規のメンバーであると思っているのですね。
弱者の救済の話も、お釈迦様が地獄で苦しむ亡者に蜘蛛の糸をたらした話になぞらえれば、その欺瞞性と腹立たしさは明らかですよ。
内田樹の手口ですが上手な手品師とか詐欺師の技術ですよ。
普通の善意の人々はまさか大学教授ともあろうものが手品をする筈が無いと思い込んでいるのでしょう。だから簡単に騙される。
3流の詐欺師は嘘で客を騙すのですが、1流の詐欺師は嘘は付かないのです。
嘘で騙すと直ぐ客が騙されたことに気が付いてしまう欠点があるのですね。
嘘ではなくて真実で上手く間違いに誘導するのです。
真実の一部を相手の常識であるとか今までの経験を利用して『真実の全部である』と相手に勘違いさせるのですね。
嘘で騙すのは知識も経験も無い人相手でしかも短時間ですが、内田式だと、なかなかインチキが見破れないし、知識や経験がある層でも上手く騙すことが出来るのです。
相手の知識とか経験を土台にした知性の総合的な判断力を誤らせる(騙す)のは難しい。
長い間の努力が必要な知性は一度出来上がると間違いに誘導するのはなかなか困難なのですが、彼等一流の詐欺師達は、相手の知性を利用して価値観を狂わすのですよ。
相手の力を利用して投げ飛ばす、柔道の引き技のような話なのです。一種の異種格闘技戦ですね。
考えなおす切っ掛けは湧泉堂さんのコメントでした。
>エッシャーの騙し絵のように、部分部分は正しいのだけれど、全体の構図はどうにも異様に変容している。
私にはこのようには見えません。全体と部分とは適正に構成されています。このように見えてしまうのは観察者の「バイアス」の所為です。すなわち【強者の味方 vs 弱者の味方】という「バイアス・メガネ」をかけてしまっているから全体の像が歪んで見える。
内田氏が一貫して言っているのは“強者になれ”です。強者になるための「正しい態度」を伝授しようとしている。それは、現に強者たる内田氏の経験に裏打ちされているのですから、正しいに決まっています。
しかしその主張は決して弱者の味方にはならない。当たり前です。“強者になれ”が弱者の味方になるわけがないのです。でも、「弱者の味方」でありたい読者はそのように読みたい。部分は強者や弱者の分析であり、そこは「弱者の味方」であっても適正に読めますが、部分が統合されると「弱者の味方」の読みとは食い違う。氏が提示しているのは弱者救済法ではないのです。
そのように解釈すると件の記事も多少スジが通る。どういうことかというと、“みんなで新聞を読んでみんなで強者になろう”です。昔はそうだった、国民総中流だったといっているわけです。
とはいうものの、これはやはり“多少”です。そういったメッセージを読者に送りたいのなら朝日に掲載すべきではなかった。せめて東京新聞か中日新聞にすべきだった。そうすれば読む側の印象はかなり違ったものになったはずです。「学ぶ力」などという文章が教科書に掲載されてノーテンキに悦に入っているのと、同様の誤りです。危険察知能力が鈍っているとしか言いようがありません。それが「売り」だったのに。
しかし、今回はさすがにその誤りに気がついたのでしょう。ブログで書き足しを行ないましたが、でも、朝日に書いてしまった誤りは到底補い切れていない。それどころかドツボに嵌っている。
内田樹氏の賞味期限も切れつつあるのかもしれません。
『内田氏のブログの方へアップされた後半部分』ですが、読んで見た感想ですが、・・・新聞記事を批判した当人としては???ですね。
新聞記事と同分量なのですが、出来上がりが全く違う。
読めば誰でも気が付く『不思議』ですが仰られるように、『朝日に掲載された前半と、書き足しとの整合性がとれていない』のですよ。
新聞に投稿されていた前半部分は、何とも良く出来ていて読者を意識していて誰にでも分かりやすく書いてあるのですが、ブログの付け足した後の半分は大違い。
全く反対な出来上がり。
同姓同名の別人の内田樹が書いたのかと思うくらいですね。
普通は何度か読めば必ず真意が判るものですが、この文章ばかりはお手上げです。
読めば読むほど意味がぼやけて来る摩訶不思議な代物なのですよ。
この内田ブログ記事の後半部分は、何かに似ていると思って考えていたら、キャリア官僚の作った文章と意味するとことが、そっくり同じですよ。
矢張り私が常々主張しているように、菊池誠や香山リカ、作る会や原発御用学者なんかとは大違いで、自分が何を主張していて、本当は何を行っているか、そしてその影響とは何か、まですべての事柄を把握しているのです。
内田樹は、池田信夫の1万倍は賢いのですよ。
朝日新聞での自分の主張の酷さに気が付いているのですね。
ですから突然キャリア官僚そっくりに変身して必死になって責任追及を逃れようと策動しているのです。
ブログの文章が意味不明なのは当たり前で、そもそもブログで記事を倍にした理由が、判りやすさではなくてその逆。
何とかして新聞記事の内容を曖昧にすることに狂奔しているのですから悪賢い。
悪意ある薄汚い知恵には感心するばかりです。
鉢呂大臣の顛末ですが、日本のマスコミが政府や大臣なんかを赤子扱いできるほどの巨大権力である事実をまざまざと見せ付ける凄まじい出来事でした。
例え事件発生前に記事を書いていたとしても、これだけの象徴的な不思議な事件であれば、鉢呂の問題を無視出来ない。
自分が新聞で書いた記事内容と矛盾するので何かを書き足す必要が必ず生まれるはず。
ところが完全無視するのですから、これは意識的な何かの隠蔽に近い話ですね。
鉢呂発言が大問題になってしまった原因とは前の記事で『パンドラの箱(夢や希望こそ人類にとっては最大の災難)の呪いである』と書いたのですが、内田樹の不思議すぎる態度を見ていると全く別の視点も見えてきました。
いや~あ。面白いですね。
対する『中日新聞』の一面は、「〈3万トン〉地下水流入か。汚染水減らず」。
「さよなら原発」記事は、一面、三面にぎっしり。
まあ、そもそも『情報の平等主義』なんてお笑いでしょ。国民には平等に教える(教えない?)主義ということですかね。「同じ情報」または「オラクル」の共有ですかね、御神託の…
「公共的な言論の場」も「公共的な」であって「公共の」ではない。マスコミは「公共的な言論の場」であり、つまりは疑似環境ですよね。これ、ちょっと、主権在民じゃあない。
もちろんネットも擬似環境で、そもそも、言葉はヴァーチャルだから、言葉による情報とか言論とか、みんな、もう信頼なんかしていないでしょう。あの大爆発、大失敗が社会の嘘とホントを炙りだしているから…原子炉4個が壊れて膨大な放射能が撒き散らされている。
この現実は否定できない。誰も忘れることのない現実。被曝から逃げるか?逃げないか?逃げられないのか?ここから価値判断の基軸が立ち上がるでしょう。さらなる様々な情報は気安めですよ、言葉による癒しに過ぎぬ。
とにかく暇なら、道場なんかよりも、東北でボランンティア活動、どうか皆さん如何でしょうか。
>ただ、相手を間違うように巧妙に誘導するだけである。
嗚呼、そうですそうです!内田樹先生の言説の違和感を端的に言い表そうと試行錯誤してきたのですが、これでした。
なんて頭の良い、正しいことを仰っているのに、導かれる結論は、一方的に弱者に不利で、強者に利するものである。
なんじゃこりゃ???
エッシャーの騙し絵のように、部分部分は正しいのだけれど、全体の構図はどうにも異様に変容している。
これです、これ。
>何しろ、内田樹は少しも『間違っていない』のですよ。
>ただ、相手を間違うように巧妙に誘導するだけである。
素晴らしいご指摘、ありがとうございました。
まず朝日に掲載された前半と、書き足しとの整合性がとれていない。後半で「中立的メタ認知能力」を失ったというが、そんなものはもともと大部分の日本人にはない。そんなものあるなら欧米のようにクオリティ・ペーパーを読む階層と大衆紙を読む階層とに区分されているはず。日本はハイコンテキスト社会であるがゆえに、中立的メタ認知能力など要請されない。内田樹ともあろう者が、そんなことをわかっていないはずがない。
さらに、最悪なのは宗純さんもご指摘の時期の問題。内田氏のこの文章がいつ書かれたのかは定かではないが、もし鉢呂氏の経産相辞任騒動の後だとすると、私もエージェント説に与せざるを得なくなります。
(騒動勃発は9日、辞任は11日、内田朝日掲載は13日)
内田氏の言う情報価値判定の基準が奈辺にあるのか私にも想像がつかないのですが、高くはなくてもそれなりの情報リテラシーがあれば、鉢呂辞任に官僚組織・メディアが一体となった陰謀の臭いを感知することになる。そんなことを感知も出来ないなら「歩哨」たる資質などまったくないと言わざるを得ないが、タイミング的に考えると、どうしても内田氏に一応の嫌疑はかけざるを得ません。
それにしても、今回はお粗末すぎる。私がノーテンキと批判した前回の記事(『学ぶ力について』)も頂けないものでしたが、今回はそれと比較になりません。
この新聞離れは、日本だけの現象ではなくて世界的な傾向のようですね。
ただ、他の国よりも日本国は、新聞など活字の影響力は絶大だったんです。
しかも外国とは違いオピニオン紙と大衆紙が同じであると言う特徴もあったので朝日など大新聞の世論形成に占める影響力は絶大な力があった。
ところが今、その一大権威の退潮は、誰の眼にも明らかなのです。
今回の内田樹の記事のように喜界島に流された俊寛僧都のように『栄光の昔に返せ戻せ』と嘆くのも理解出来る話ですね。
この話は朝日などだけではなくて新聞赤旗も同じであるのですよ。
購読数が減った為に9月からは500円も値上げするそうですが、根本的な間違いですよ。
自分たちが何の為に赤旗を発行しているかの使命の根本的な自覚が無いのですよ。
話がそもそも、逆であるのですよ。
今、日本の勤労者の所得は減り続けているのですから何かを節約する必要がある。
その最初に削られる経費とは新聞などであることは誰でもが思いつく。
赤旗の購読数が以前よりもい減ってしまったなら何故、料金を下げるとの発想が生まれないのか不思議である。
情けなさ過ぎる。
これでは赤旗は、財政再建の為に消費税などの増税を主張する財務官僚と同じ発想ですよ。
今の共産党執行部ですが、根本的な発想が狂っているのですよ。
あるいは完璧に骨の髄まで官僚化しているのですよ。
新聞購読数の場合には、勿論活字離れの昨今の風潮も確かに影響していると思いますが、それ以上に新聞記事の内容の劣化が大きい。
まったくの横並びであり、新聞社の違いが無い。新聞記事とテレビニュースの違いも無い。
それならわざわざ金を出すだけの値打ちが無い。
特に悪いのは赤旗で、他の商業紙との違いは極僅かで大概は同じ論調なのですよ。腹が立つ。これは自殺行為ですよ。
他紙が書かないことを積極的に書いていた20年以上前の赤旗を知っている身には毎日毎日が失望の連続なのですね。
漢字が読めない首相として有名だった麻生太郎が『新聞は見出しだけを読む』と自慢していたのですが、今の赤旗記事は見出しを読めば自動的に内容が一字一句分かる記事が多すぎるのです。
これでは購読者は減る筈であり、自業自得の側面が大きい。
朝日などの大手新聞が読者の信用を落としたのは、3・11以後の大本営発表を流し続けた影響が大きい。
これも自業自得であり、責任は全て新聞側にありネットや読者の責任を言う今回の内田樹の説は腹立たしい責任逃れの姑息な言い訳ですね。
定期購読の新聞でも同じであり、今までの大事な読者が金を出してまで読みたい記事を書く必要があるのです。
定期購読と再販制度に守られて、今の新聞社には緊張感が足りないのですよ。
この朝日新聞の記事ですが、普通にうっかりと読めば(善意に解釈すれば)なかなか良いことを書いてあるのですよ。
その点が、似ているようでも香山リカとか菊池誠なんかとは根本的に違うところですね。
この内田某という男は、知的レベルが各段に高いのですよ。
ですから善意の護憲左派なんかには今での信奉者が大勢いるのですから、何とも情け無い思いを毎回しています。
これでは左派は絶対に勝てない。
皆さんは致命的に善良で世の中には自分よりも遥かに頭が切れる悪党がいるとの認識が無いのですよ。
平和な時代だから仕方が無いとも言えるが、警戒心を惰るなど許されない怠慢であり、昔なら命が幾らあっても足りませんよ。
先ずお聞きしますが、このブログ記事の元ネタになっている朝日新聞の内田樹の『情報格差の拡大』を読んだことがあるのでしょうか。
新聞の記事内容とは違いすぎるのですよ。
コメントですが、何とも事実と合致しない不思議な発想です。
ここの9記事を読んでから、もう一度朝日新聞を読まれることを薦めます。
それは間違った解釈ですよ。
ネットが無い時代の新聞は、今とは大違いで大多数が読んでいたし新聞に匹敵する情報源も無かったので世論形成には絶大な威力があったのですね。
特に日本では欧米とは大違いでオピニオン紙と大衆紙との違いが無い。
日本でも有名なニューヨークタイムズやワシントンポストは実は数十万程度の日本なら問題にもならない程度の地方紙でしか無い。
普通の国民はそのような新聞は読まないのですね。
ところが我が日本は世界に例が無い巨大新聞が、これまた世界的に珍しい記者クラブ制度とクロスオーナーシップで完全に同一の横並び記事を書いている。
しかもご丁寧に一番影響力があるテレビと、一番信用度が高い新聞が、寸分の違いも無い同じニュースを流すのは日本だけの珍現象なのですよ。
結果、新聞等マスコミの信用度は世界的に見て異常な高さなのですね。
公共のマスコミの誰に聞いても、何処を見ても同じであるので、一般市民が『間違いない』との誤解を起こすのですね。
ところが現在は、その信用度が明らかに落ちている。
新聞記事で内田樹は、新聞の復権を明確に主張しているのですよ。
これはある意味当たり前で、紙面審議会委員の肩書きの人物が、新聞の紙面で書いているのです。>『今の新聞に書かれている情報が正しいなんてヒトコトも書いてません』<
ではなくて、まさにそう内田樹は言いたいのですよ。
ご自分で書いたコメントを何遍も読んで、自分自身の話の前後が完璧に矛盾している事実に気が付いてください。
確かに『言葉』としては、『今の新聞に書かれている情報が正しい』とは書いていないが、その意味のことが明確に書いてあるのですよ。
私は内田樹が陰謀論者であるとは、それこそ一言も主張していないのですよ。
内田某ですが、『間違っていない』と何遍も何遍も繰り返し書いているはずです。
書いていることは間違っていないが、読者に間違った解釈をさせている。間違いに誘導していると主張しているのですよ。
一言でいえば悪党のペテン師ですね。
いるかさん、
最も知的負荷の少ない世界解釈法は、何だと思っているのでしょうか。
みなさんは内田に騙されて陰謀論だと思っている筈ですが、
実は一番知的負荷の小さい方法とは、一番信用度の高い新聞紙面の、例えば社説の論調をそのまま採用することであることは、誰にでも分かりますよ。
ところが何故かこの誰もが思っている常識を内田樹は、不思議にも失念しているのですね。
しかし、忘れる筈が無い。
今までの多くの日本人は政府やマスコミなど権威ある存在は間違いがない。白々しい嘘は絶対に付かないとと信じていて、その為に大手の新聞論調などに判断を丸投げしていたのです。
ところが、3・11以後にはその丸投げが出来なくなったので世間で大騒ぎが起きているのですよ。
内田樹は今回それを嘆いているのですね。
もう少し現実世界で起きている客観的な科学的な事実に注意する習慣を身に付ける必要があるでしょう。
残念ですがコメント内容が、朝日の記事とも違いすぎるし、勿論私の記事とは違いすぎていて論評の限りではありません。
意味不明です。
たとえば、最近引っ越したマンションでは、誰も新聞を取っていないようです。新聞雑誌などの提出日に、共同ゴミ捨て場に古新聞が出ているのを見たことがありません。ちなみに、このマンションの住人は若い世代ばかり。
一方、以前住んでいたマンションは、古く、住人も年代の高い方ばかりでした。ほとんどの住人が新聞をとっているらしく、ちり紙交換の日には、各家庭の古新聞で共同玄関が一杯のありさま。
新しいマンションの方たちでも、テレビは見ているようですが、元住んでいたところで(たとえば、同居していた親元で)新聞を取っていたとしても、引越しと同時に、新聞の方は気楽に辞めてしまえるようです。
テレビの方はまだ皆さん見ていらっしゃるようですが、馬鹿にしつつ視聴している感じ。そういう番組をスポンサーして、どれほど会社の信用が上がるか、企業としても考えるべきでしょう。
しかし、インターネットの情報だけでは物足りないことも確かです。ある情報が出て、それに対するカウンター情報が出た場合、どちらが正しいか、あるいはどの程度信用できるか判断するには、そうとう時間や労力を費やす必要があります。専門的な知識と取材力を持つ信頼できる報道機関にフォローしてもらいたいところです。
この内田発言も、そういう方向に舵を切る自省の言葉になってくれたら良いのですが。まず、無理でしょうね。
内田樹ですが、この人物が今の日本では御用学者としては一番出来が良いので、一番影響力も大きいでしょう。
何しろ頭が良い。
香山リカや菊池誠なんかと比べたら数段抜きん出ている。
御粗末な自称マクロ経済学者の池田信夫に比べたら(橋下撤言わせたなら)1万倍は賢い。
昔の巨大ざめの恐怖映画のジョーズや宇宙人のXファイルでは、なかなか実物を出さないのですよ。
観客は何時出るか何時出るかと思いながら最後まで飽きさせない見事なつくりになっている。
香山リカや菊池誠が失敗したのは最初から巨大ざめや宇宙人を出したからですね。
そういうのは実物が出た途端に、見ている全員が興ざめするのですよ。
池田信夫などはアホ臭い宇宙人の地球侵略を現実であると喚くので、余りに発想が馬鹿馬鹿しくて批判もしたくない。
その点この内田樹は素晴らしい出来で、うっかりと聞いていたら『なるほど。』と全員が信じ込みそうなほど良く出来ている。
その秘訣ですが、内田樹には一つも具体例が無いので、大概の実際の色々な実例に合致する可能性があることなのですね。
何となく、高位の有名な聖職者の説法を聞いて言る思いです。
あるいは評判の高い占い師の話であるとか。
聞く方は『言葉』を善意に解釈するので、話を自分の個別の事例に当てはめれば、『なるほど。なるほど』と全員が信じる仕組みなのですね。
私のように、マスコミなどの印象操作による世論誘導やプロパガンダに常に目を光らしていなければ滅多に見破れない位に巧妙なやり方なのです。
何しろ、内田樹は少しも『間違っていない』のですよ。
ただ、相手を間違うように巧妙に誘導するだけである。
ですから反論されても、『そんな意味ではない』とか『間違えたのは自己責任』であると言い逃れできる。
内田樹節は話の内容は正しいのだが、間違えているのは『時期』なのです。
だから皆さんがうっかり油断して騙される。
この記事が9月13日で無かったなら私もこれ程怒る必要性は無いのですよ。
この日は福島県では原発から最初の放射能の大放出されている、住民が大量被曝してから半年目のとんでもない日なのです。
しかも、この半年間も朝日を含むマスコミは『放射能は安全です』との摩訶不思議な有り得ない宣伝広告を、飽きずに繰り返し繰り返し続けた為に信用度は地に落ちている。
今の一般市民は例外なく、『政府やマスコミが嘘を付いている』との、内田樹風に言えば陰謀論の毒に犯されているのが現状なのです。
しかし、この責任は決して市民の側でなくて、3・11以後に今までとは正反対の記事を流し続けていたマスコミ側にあるのです。
今のように、ネットを信じてマスコミを信じないなどの、新聞記事の権威が地に落ちたのはマスコミの自己責任なのです。
その『白を黒』と正反対に、巧妙に責任転嫁しているのですよ。
3・11以前に、お馬鹿記事で有名な産経でも『放射能は安全』なんてアホ臭い記事はただの一度も掲載されたことなど無かったのですよ。
市民の側にほんの僅かの良識とか記憶力があれば、その程度は誰でもが気が付くのですよ。
この内田樹ですが、知恵が働く悪党のペテン師詐欺師の類ですね。
「新聞が担う」などと言われても市民は誰も期待していないのです。
「新聞が担う」のは市民を騙したい側の大本営発表ですから。
内田樹なかなかの工作員ですね。(笑)
決して「新聞情報を鵜呑みにすること」を薦めているのではなく、より多くの情報に接して、その中から比較検討・取捨選択することを求め、国民が基盤となる情報を共有できる手段として「新聞」というコンテナが一番便利ですよ、って言ってるんでしょう。今の新聞に書かれている情報が正しいなんてヒトコトも書いてませんし。
だから例えば911でアナタの言う「陰謀論信者(内田は最も知的負荷の少ない世界解釈法を『陰謀史観』と呼んでいるのですけれども)」が多数派になったとしたらば、それは新聞が機能してないわけですから、ネットに対する「新聞情報の相対的な劣化」であり、もっと新聞がしっかりしなきゃダメじゃないか、って言ってる訳です。
あなたのいう「内田論説の裏に隠されている邪悪で薄汚い真相」は陰謀論にもなってない。まずは記事をしっかり読んだらいかがですか。
センチネル(歩哨)。人知れず、賞賛も報酬も求めることなくみんなのために雪かき仕事をする者。
感謝もされず、対価も支払われない。でも、そういう「センチネル」の仕事は誰かが担わなくてはならない。
(内田先生は、著作の中で、家事労働者とセンチネルを巧みに混同させて読者を誤解に誘導している。家事労働は感謝もされるし、対価も支払われる)
センチネルの仕事には価値があり、必要であると言う。
しかし、そういう人物を特定して賞賛しようとか、報酬を与えるべきだとは言わない。
そういうことにしか価値を見つけられない弱者は弱者のまま、共同体に奉仕していればよろしい。
心の中で漠然と感謝はするが、それ以上のことは私はしない。内田先生はそういう立場である。
弱者(能力も無く、魅力も無く、財産も権力も無い者)は弱者のまま、その位置に貼り付けられていれば良い。
しかし、弱者をあからさまに排斥しようとすることは、強者に利することではない(弱者が滅びれば強者も滅ぶ。強者だけが存在する世の中などは無い)。
ゆえに弱者もまたそれなりに生きられるような制度は保つべきである。強者のために。
弱者は本当のことなど知る必要は無い。弱者は弱者のままでいなさい。そのほうが身のためである。雉も鳴かずば撃たれまい。弱者のみなさんは、“陰謀論”などを言い募って権力に逆らいなさんな。内田先生は、そう仰っておられるのです。
そして、お仲間の強者(支配者、権力者、所有者)の皆さんに対しては、「ほら、弱者が真実に目覚めないように、私はこんなふうに頑張ってますよ!」
と、アピールしていらっしゃるのです。