今現在の日本社会では、冤罪事件が幾つも発覚している。
今回の話は、結果的に最後には無罪になった話だが、冤罪事件ではなく謀略事件と呼ぶほうが適当だろう。
冤罪とは、捜査当局の捜査の不備や間違った見込み捜査等の能力不足の結果、無実の人を有罪と誤認して処罰しようとした事件のこと。
謀略事件とは,最初から無実であることを捜査当局が承知していながら冤罪事件をでっち上げること。
或いは、対象者を嵌める為に、事件そのものを自作自演で作り上げ、冤罪事件を作り出すこと。
冤罪事件謀略事件は,一見すると殆ど区別が付かないが、冤罪は権力の過失による犯罪である。
対して謀略事件は『過失犯』ではなく、権力機関によって意図的に創り出された犯罪行為で、『故意犯』であるところが大きく違うところである。
被害状態が一緒でも、故意と過失では、そもそも犯罪形態がまったく違い、罪の重さ、悪質さが桁違いに重いことは言うまでもないだろう。
52年の駐在所爆破事件で共産党員を逮捕。後に警察のでっち上げ(自作自演)だあることが発覚した菅生事件。
1949年には三鷹、松川、下山と鉄道関係の謀略事件が連続した発生する。
この3事件程有名でないが、良く似た予讃線事件と庭坂事件等が前後しておきていた。
その時政府幹部が、捜査も始まらない初期の段階で日本共産党の犯行と断定し、共産党員や国労組合員を大量に逮捕。
裁判でも有罪が確定し、多数の死刑判決が下りた。
松川事件では、14年後に警察が隠蔽していた無罪の証拠(諏訪メモ)が露見して、全員無罪が確定する。
これ等の事件では、「無罪」であるにもかかわらず、あってはならない誰か(捜査当局?真犯人?)が創った有罪証拠、有罪証言が多数存在する。
白鳥事件では、唯一と言ってもよい物証の弾丸が、本物なら必ず出来る応力歪みが発生していないにも拘らず、共産党員の有罪が確定する。
当時の日本共産党は、結党以来数十年の歴史はあったが、敗戦までは一部知識階級以外で、その存在を知るものはいなかった。
これ等の事件の後ですよ。一般国民の間に何と無く怖い共産党のイメージが定着したのは。
第24回総選挙では、35人の当選者を出していたが、事件後には一人の当選者も出なかった。国労等10万人の首切りも粛々と進められた。
当時の鉄道は、今のアメリカの航空機以上に、国民にとっては信じられないほど重要な交通手段であり、其れを使った、連続テロ事件は、日本人にとっては今日の『9・11事件』以上の大騒動だった。
当時の一番重要な交通手段を使った大量殺人、凶悪な連続テロ事件と9・11事件。
時間的には半世紀(52年)のずれがありますが、余りにも似たところが、数々存在する両事件の謎。
松川事件の犯人は判らずじまいで終わったが、9・11事件ではそうさせてはいけない。
『松 川 事 件』
1949年8月17日早朝、福島県松川町
敗戦から4年たった1949年8月17日、午前2時9分頃、福島県松川町を通過中だった東北本線上り列車が、突如脱線転覆する事件がおこった。
この事件による死亡者は3人、いずれも列車を牽引していた蒸気機関車の乗務員で、発足したばかりの日本国有鉄道公社(国鉄、現在のJR)の職員だった。
事件が起きたのは東北本線松川駅-金谷川駅間のカーブの曲がり鼻地点で 検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットがゆるめられ、継ぎ目板がはずされているのが確認された。
さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、25mのレール自体、ほとんどまっすぐなまま13mも移動していた。明らかに何者かによる意図的列車妨害であった。
『政府が事件を労働運動弾圧に利用』
激しいインフレの中で政府は、公務員・国鉄職員の大量首切りを発表。
また民間企業も占領軍の推奨する「ドッジライン」と呼ばれる超緊縮経済政策によって、大量の人員整理・合理化に着手、これに抵抗する労働争議が各地で激しく闘われていた。
松川事件が起こった福島市・松川町周辺でも、国鉄の大量首切りに反対して国鉄労働組合福島支部(国労福島支部)が、そして財閥解体にかかわる東芝松川工場の大量指名解雇に反対して東芝労連松川工場労組(東芝松川労組)が闘争を展開していた。
当時の吉田茂内閣は、こうした労働争議を「社会不安をあおるもの」と決めつけ、徹底的に弾圧する姿勢を見せていた。
松川事件発生直後、まだ本格的調査もおこなわれていない段階で吉田内閣の増田官房長官は、「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流において同じである」という談話を発表した。
これは「事件は共産党と、その指導する労働運動がおこした」という露骨な偏見を述べたものである。
松川事件の捜査は、この政府中枢の姿勢に完全に拘束されていくことになる。
捜査当局は、当時解雇反対および工場閉鎖反対等の闘争中であった国労福島支部幹部および東芝松川労組幹部ら(いずれもほとんどが共産党員)に目をつけた。まず9月10日、元国労福島支部組合員で国鉄の第一次整理の際解雇されていた赤間青年(非党員)を別件逮捕し、強引な自白強要の末に嘘の自白・「赤間自白」を引き出す。
そしてこれに前後して国労福島支部幹部および東芝松川労組幹部等(ほとんどが共産党員)を次々と逮捕、厳しい取り調べ=自白強要の末、さらにいくつかの嘘の自白を引き出したのである。その間、客観的な立場に立って現場と証拠から事実を解明するという本来おこなわれるべき科学的捜査は全くおこなわれなかった。
おこなわれたのは被告たちへの連日の厳しい取り調べ=自白強要と、それに付随した「裏付け捜査」だけだった。
こうして、最初に逮捕された赤間青年の自白を最大の根拠に、合計20人が列車妨害の「謀議」をなし、あるいはその「実行犯」であるとして起訴された。
『無実の者を殺すな』
1951年12月6日、第一審の福島地裁は検察側の主張をほぼ認めた形で5人を「死刑」、5人を「無期懲役」、10人を有期の懲役とし、全員有罪の判決を下した。1953年12月22日、控訴審の仙台高裁は検察側主張の一部を否認し3人の無実を認めたが、他の17人に関しては死刑4人を含む有罪判決であった。
一方、作家・廣津和郎さんらの呼びかけで多くの文化人も加わった「松川事件救援運動」は裁判の進展とともに次第に盛りあがりを見せ、「無実の者を殺すな」という世論も大きく広がっていった。
こうした中1959年8月10日、最高裁は被告たちによる謀議が存在したという検察側主張と下級審の事実認定に疑問を呈し、また重要なアリバイに関するメモ(実行犯の一人とされていた佐藤一さんが、謀議に参加することが不可能であったことを立証する「諏訪メモ」)の証拠価値を認め、原判決を破棄し仙台高裁に差し戻した。
『検察によって隠匿されたアリバイ証拠』
逆転無罪判決の大きな決め手となった証拠に「諏訪メモ」と呼ばれるものの存在があった。
これは、「実行犯」として一審・二審で死刑判決を受けた佐藤一さんが、他のメンバーと共に謀議をなしたとされる時間にその場所(国労福島支部組合事務所)に行くことが不可能であったこと、なぜなら謀議がおこなわれていたはずの時刻、佐藤さんは東芝松川工場での労使交渉に出席していたから、という事実を証明するアリバイ証拠であった。
労使交渉の相手方である東芝松川工場事務課長補佐・諏訪親一郎さんがその団交の発言等を記録したメモであったので「諏訪メモ」と呼ばれている。
同メモには問題の交渉に佐藤さん(当時東芝労連中央オルグであり、松川工場の争議応援のために中央から派遣されていた)が間違いなく参加し、度々発言していたことがその詳細な発言内容とともに記されていた。
事実究明のために決定的な意味を持つこの重要証拠を、検察は捜査段階から手元に置いて隠匿していた。
上告審において弁護側がこのメモの存在を知り提出を要求し、最高裁もまた提出命令を出すが、そのときに至るまで検察内部で隠し続けていたのである。
そして、佐藤さんが謀議に参加していなかった(そもそも謀議などなかった)ことを承知の上で、「佐藤さんが謀議に出席し列車妨害の実行犯となったのだ」と主張し続けた。
『でっちあげられた物証』
松川事件では、このほかに重要証拠のねつ造までおこなわれていた。
この証拠は、犯人たちが線路の継目部のボルト・ナットをゆるめる際に使用したとして裁判所に提出されていた「自在スパナ」である。それは殺害事件における凶器に匹敵する最重要物証であった。
長さ約24cmの鉄製小型工具「自在スパナ」は、事件現場近くに放り出されてあったのを事件直後におこなった捜索で捜査官の誰かが発見押収した(誰が「発見した」のかは分からないというのだが)ということになっていた。
警察・検察によれば、この「自在スパナ」は元来松川駅の線路班倉庫に1丁だけあったもので、事件当日これを被告たちが盗み出して現場まで持ち込み、これを使って線路の継目部のボルト・ナットをゆるめ、犬釘を抜いて列車を転覆させたということになっていた。
しかし、証拠として提出されていた「自在スパナ」は新品同様で、ボルト・ナットをゆるめたときに印されるはずの使用痕や傷跡が全くなかった。
また、そもそもこんな小型工具では現場のボルト・ナットをゆるめること自体が不可能だった。
重要物証「自在スパナ」に対する疑問が大きくなる中、差し戻し審の法廷で驚くべきことがおこる。
最高裁の差し戻し決定を受けた仙台高裁での審理において、検察側が突如として、証拠として提出されていたものとは別の「小型自在スパナ」を法廷に持ち出した。そして、この新たに提出した「自在スパナ」は「事件直後に捜査員が松川駅の線路班倉庫から『引きあげ』、金谷川駐在所に保管していたまま忘れていたものである」と説明した。
これまで証拠品として提出してきた「自在スパナ」は偽物で、こっちが本物の「自在スパナ」であると。
しかも、被告たちが盗み出して犯行に用い、現場近くに放り出してあったはずの「自在スパナ」は、実際には事件当時まちがいなく倉庫の中にあって誰にも使われておらず、これが持ち出されたのは事件発生後、捜査官の手によってであった、と主張。
仙台高裁も、後から検察が提出した「自在スパナ」こそ本来松川駅線路班倉庫に1丁だけあったもので、第一審以来裁判所に証拠として提出されていた「自在スパナ」は事件と関係ないものであると認定した。
そしてこれらのことからそもそも「自在スパナ」を使って犯行をおこなった事実はなく、自白は信用できない。よって被告人たちは無罪であると認定した。