逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

子供は嫌いだ

2013年06月17日 | 社会

    (今の橋下徹とは見かけが違う、「橋下徹 公式HP」の写真)

『手品(詐欺)の種明かし』(子供政治家橋下徹は嫌いだ)

あっと驚く大掛かりで奇想天外な手品でも、どれ程巧妙で大胆な詐欺でも同じで、常に騙しのネタ(原理)は馬鹿馬鹿しい程簡単な構造になっている。
分かって終えば『その程度のアホ臭い「子供騙し」だったのか』と、騙されていた人々が驚くほどである。
大手のメディアで、自分が今まで感じていた疑問点に対する考え(答え)とか訴えたい主張、強調したい事柄に対して簡単明瞭『まったく、その通りである。!』と明解に指摘している文章に出会うと、滅多に無いことなので実に嬉しいのである。
摩訶不思議な超難問に対する解決の糸口とか一番大事な『真実』の断片とかが、何でもない些細な出来事の中に隠されていることが良くある。
6月16日付け赤旗への外部有識者からの投稿コラム『波動』は私が以前から思っていた事実を分かりやすく説明していて素晴らしい出来上がりである。
書きうつして、『全文』を掲載したい。

『「ぼく」への違和感』

6月16日赤旗「波動」 
『あの「従軍慰安婦発言」とその後の騒動については、既に多くのところで論じられているので今更改めて書くことも無いと思いつつ、かねてから気になっていたあの人の言葉使いについて少し考えてみた。
橋下徹大阪市長は大阪府知事時代からずっと、つまり政治家になってから一貫して自分のことを「ぼく」と言う。
もちろん公の場で、だ。
ええ歳して、知事が「ぼく」かいな。最初の頃の印象だ。
わたしの周辺で市長の「ぼく」をどう思うか聞いてみた。「まあ、タレント時代からですしねぇ」「もう慣れましたよ」「あれが親近感を呼んでいるのでは」と、あまり気にならないとの反応が多かった。
いやしかし、やっぱり違和感をぬぐえない。
試しに手元の現代新国語辞典で「ぼく(僕)」を引くと〈おとなが使う場合は、「私」よりもくだけた言い方で、対等または目下の者に向かって使う〉。
また広辞苑では〈今はおもに成人前の男性が同等以下の相手に対して使う〉。
辞書の説明を振りかざして「可笑しい」と指摘したいのではない。
橋下市長の「僕」は単に言葉使いの問題ではなくて、政治家としての姿勢に直結する根深い問題をはらんでいると思えてならないのだ。
囲み取材の最中に激高して記者を罵倒する。あるいは拗ねて「もう囲み取材は受けない」と打ち切る。気に入らない人間を「バカ」と罵る。自分を批判する相手を勉強不足と決め付けて「もっと勉強せよ」と言い放つ・・・。
ところ構わない感情の発露。自分は何でも知っているという全能感。
公人中の公人、政治家が公の場でみせる態度としては、わたしにはいずれも信じられないのです。
だがしかし、これが「成人前の男性」の態度ということなら合点がいく。あきらめる。
「ぼくは何も悪くない。悪いのはまわりなんだ!」と駄々をこねるこどもがいたら、「まあまぼく、そういわんと。ちょっとおとなしくしとき」。そう言って終わるんですけどね。
相手は「大人」、それも強大な権力を持つ政治家なので、なだめ方わからないのです。』
 (桜宮純一 在阪テレビ局報道記者)

『ピーターパンシンドローム(症候群)』

島崎藤村の代表作『初恋』で、『まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけり ・・・』は髪を結い上げたばかりの少女の初々しい姿が生き生きと描かれている。
未熟でまだ大人に成れないが、かといって最早子供でも無い。不安定で摩訶不思議なモラトリアム状態なのです。
藤村の『初恋』の大事なキーワードは間違いなく若い女の『前髪』であろう。
少女だけではなくて少年にも『前髪立ち』の言葉があり、元服前の少年がその前髪をまだ残していることを指す。
何れも『大人に成る直前の子供』を表す大事な象徴的な言葉として『前髪』がある。43歳にもなっているのに『大人に成れない』可哀想な橋下徹は、以前は前髪を垂らしているのが彼のトレードマークであり『ぼくは何時までも子どもだ』と暗に主張していたのでしょう。
一地方政治家として大阪地域で好き放題に暴れまわっていた橋下徹だが、全国政党である『日本維新の会』を立ち上げて最初の党首として引き抜こうとした(ヘッドハンティング)のが自民党元総裁の安倍晋三現首相だった。
ところが自民党総裁選前だったので、老舗の自民党に未練があった安倍晋三に断られる。
安倍晋三の次に橋下徹が目をつけた相手が尖閣国有化の大騒動の火付け役の東京都知事の石原慎太郎である。
党首のヘッドハンティングでは『全国区の有名人』なら誰彼見境が無い橋下徹。
橋下さんちのトオル君は『日本維新の会』の党首にと、わざわざ大阪から慎太郎に会いに行く。ところが東京に待ち受けていたのは慎太郎だけではなく『立ちあがれ日本』の老獪な平沼赳夫であった。
石原慎太郎と平沼赳夫という、日本を代表するエスタブリュッシュメントの(昭和の妖怪的な)『老人パワー』の前では、何時もなら無敵のトオル君の『子どもパワー』の威力が半減、まったく効き目がなく完敗してしまった。
大阪から東京に向かう橋下徹は何時ものトレードマークの前髪立ち(正しくは前髪垂らし)だったが、石原と平沼に恥ずかしい子ども姿を厳しく注意されたのだろう。
なんと、帰りは前髪を上げて自分のおでこを晒していたが大笑い。
以後は前髪を上げて現在に至っているが、トオル君が改めるべきは前髪ではなくて歳相応の大人としての言動である。
子ども以上だが大人未満でどちらでも無いしどちらでもある不思議なモラトリアム状態を最大限利用していた橋下徹だが、今回は完全に壁にぶちあたり身動きが出来ないが自業自得である。

『子どもは大嫌いだ』

皆さんは御自分が子供だった時のことを完全には覚えていず、『過去の事実』ではなくて『こうであって欲しい』との願望を優先しているから『子供は嘘をつかない』とか『悪いことはしない』『無垢である』などと勘違いする。
事実は正反対ですよ。 羞恥心や責任感などを明確に自覚している子供を連想してください。
他人を思いやる心が有る子供。自分を相対化して見れる子供などは、大人とは大違いで極少数の例外でしか無い事実に気がつくべきです。
自分のことしか考えず、恥じも外聞もない。
判断は周りの大人(親や教師)など権威有る存在に丸投げしているのが子供の真の姿であり、大人から比べれば決定的に劣った存在で有るにも拘らず、苛め問題の続発と深刻化から判るように、自分よりもっと弱い存在の子供に対しては実に残酷である。
無垢な子供は神話であり事実ではない。 長い時間と努力でやっと社会性の有る大人が出来上がる。
その逆(無垢な存在が段々と劣化して大人になって仕舞う)では絶対にない。
疎開先では都会者は例外なく苛められるが家財全部を米軍の機銃掃射で失い着たきり雀、我が家は誰よりも貧乏だった。隣の家では餓死者まで出るような有様。飢えと寒さで弱っている幼い子供に対して何も知らないくせに親の受け売りで『アカだ』『貧乏人だ』と平気でイジメを行うのが子供である。
『子供達を責めないで』の‏伊武雅刀ではないが、 私は自分がまだ小さかった時から無知で卑劣で鈍感で残酷な子供が大嫌いだったが、橋下徹のように子どもを装い悪事を働く大人は最悪な存在で許される限度を超えている。


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どこまでが引用なんだか?! (JUNSKY)
2013-06-17 10:19:47
『ピーターパンシンドローム(症候群)』

『子どもは大嫌いだ』

も赤旗の引用なんでしょうか?
著者名は書いてないけど・・・

それとも、あなたの御意見?

返信する
今の赤旗編集部にわずかの知恵があれば・・ (宗純)
2013-06-17 15:37:41
JUNSKYさん、コメント有難う御座います。

何故この記事が、赤旗記事の引用だと思われたのでしょうか。実に不思議です。
何か、類似する内容の記事が他にあったのでしょうか。
私の捜した範囲では見つかりません。
今の赤旗ですが少しも面白く無い。
見出しやタイトルを見ただけで完璧に内容が一字一句分かる内容の記事しか見つかりません。
日本のマスメディアで一番良心的で読んで面白い記事を書いているのは毎日新聞ですね。
これは、毎日新聞自身が良心的で良い記事を書いているの意味ではなくて、
毎日が他紙よりも外部の有識者の意見を多く載せているのですよ。
この中に極少ない一部は素晴らしいお宝が含まれているのです。
新聞社に所属する記者が書く記事は、赤旗から産経読売に至るまで、クロスオーナーシップと日本独自の奇習の記者クラブ制度のお蔭で完全に金太郎飴状態なのです。
何処も違いが無い挙国一致の大政翼賛会が今の日本ですよ。
今回引用した赤旗コラム『波動』も、(桜宮純一 在阪テレビ局報道記者)とあるように、新聞社とは別の外部の有識者の一人。
自分自身が所属するテレビ局ではタブーとして口外出来ない真実を、外部のメディア(赤旗)を使って語っているのです。
この『逝きし世の面影』ブログでは開設以来一貫して、橋下徹に対しては政治家で無くて、二流のテレビタレントの『政治遊びである』(本物の政治ではない)との立場で論じてきた。
今回も同じで『子どもの政治ごっこ』であるとの独自の視点から論じています。
この視点は赤旗を含めて一般のマスメディアではゼロですよ。
唯一の例外が、今回の赤旗への投稿コラムの桜宮純一 在阪テレビ局報道記者の『「ぼく」への違和感』 なのです。
だから、わざわざ書きうつして『全文』を掲載したのです。
赤旗の他の記事はネット上にあり、コピーが可能なのですが、この『「ぼく」への違和感』 に関しては何故かネット上には無い。
仕方が無いので、私が紙面から書き写してネット上に公開したのが真相です。
この記事に関しては最初から最後まで、ネット上には類似記事が多分ゼロですよ。
『ピーターパンシンドローム(症候群)』や『子どもは大嫌いだ』が赤旗の引用なら、今の日本は何の心配も無いのですが、残念ながら全ては私のオリジナルなので、心配なのです。
多くの人が未だに気がついていないが、共産党や赤旗ですが、何故か20年ほど前から独自の主張を止めているのです。
だから負け続けているのでしょうね。何とも残念なことですが官僚化が究極まで進んでいるのでしょう。
返信する
他愛なさと恐ろしい子供 (くまごろう)
2013-06-17 21:40:17
「子供が嘘をつかない」という錯覚は、大半の子供の嘘が大人にとってはあまりに「明白な」他愛ない稚拙なものだからでしょう。その返礼としてか、しばしば大人も子供に対して他愛ない嘘を教え、結構な歳になるまで信じていたという話をよく聞きます。
一部の子供は周囲の空気、大人の期待を敏感に汲み取って意識無意識的にそれに応えますが、21世紀になり相当に先鋭化された形が、テレビタレントとして出現しました。
返って将来が心配になる彼ら程ではなくても、テレビや様々な情報によって、「周囲の期待に応える」タイプの子供が異常にしっかりしてきている。
ところが大人の世界では逆に幼児退行しているようです。或いは大人を装っていたが化けの皮が剥がれたというべきでしょうか。長いものに巻かれれば特段苦悩も思惟もせず、精神的成長を停止して生きることができる、そうしないと生きること自体が困難な社会の宿痾なのでしょうか。生まれつきのポテンシャルにはかなり優れ、相当に努力もした筈の橋本徹は、日本社会の宿痾の象徴として相応しいのかもしれません。
返信する
子どもと大人の違いとは (宗純)
2013-06-19 14:09:08
くまごろうさん、コメント有難う御座います。

43歳にもなる本来なら立派な成人が子供の真似をするのを拍手喝采していた、不思議の国日本。
それにしても大人と子供の違いとは何であるのでしょか。
『大人としての条件とは何か』を考えると面白いですね。
法的に14歳以下は一切刑事罰が課されない。18歳以下なら死刑が適用出来ない。20歳以下の未成年は刑事訴追されても、一定程度減刑されるなど、
参政権の無い分、責任も大目に見てくれて、ある程度は悪事を許してくれる。
民主主義の原則では権利と責任が一体構造なのですが、
橋下徹は、権利だけを主張して、一切責任を取る気が無いのですから困ったものです。
ところがこの、『大人として当然の、自分の言動の責任を取らないで、曖昧に誤魔化して済ます』のは、日本の伝統芸ですよ。
68年前には東京裁判はあったが、天皇ヒロヒトを筆頭に誰一人責任を取ろうとはしなかった。
2年前の未曾有の原発事故で、誰も責任を取っていない。誰一人訴追も処罰もされて無い。
無茶苦茶なのです。
ところが世界基準では国連拷問委員会は日本に対して70年も前の従軍慰安婦で関係者の訴追と処罰を求めているが、これは逆の意味で無茶苦茶。
甘すぎるお子様社会の日本ですが、これでは厳しい国際社会では生き残れ無いでしょう。
日本の場合には子供に甘すぎると言う訳ではなくて、
責任ある大人が誰も彼も、子供の真似をしているのですから情け無いですね。
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