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1月6日催涙ガス発射で煙るアメリカ合衆国国会議事堂の不可解な映像(チェチェン人イスラム過激派テロリストのモスクワ劇場占拠では密室での催涙ガス使用で百数十人の多数が死んでいる)催涙弾は基本的に野外の暴徒鎮圧用なので今回のようなアメリカ議事堂内のような室内での使用は危険極まる。
(★注、今回射殺された白人女性は自動小銃で完全武装した警官隊と仲良く同居している平和な状態。射殺するような緊迫した状態ではなく、ガラス窓越しの銃撃は殺人事件であり制服組が自動小銃で窓越しの私服を威嚇していた。殺害後に議事堂内に国会警備側によって催涙ガスがまかれ騒乱状態を演出していたので丸々ヤラセ「暴動」である)
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怒りを何に向けるべきか
問題提起の書 20世紀最後の4半世紀、フランスは2人の顕著な思想家を世界に送り出した。ブルデューとトッドである。前者は社会学者、後者は歴史人口学者。
『ディスタンクシオン』、直訳すれば「差別」は、生きられた階級の生々しい体験を分析して世界的に注目された。たとえばアメリカで進められていた大統領選挙の投票集計の状況は不正選挙を疑わせる。ところが、アメリカの主要日刊紙は認めない。選挙は民主主義の根幹。かりに大勢に影響がないにしても徹底的に調査するのがジャーナリズムの責務。それをしないのはおそらく外国からの圧力などではない。トランプ大統領に対する「ディスタンクシオン」が働いているのだ。
高学歴、高収入、高趣味の知識人たち、いわゆるアメリカ東部エスタブリッシュメント(官僚や新聞記者)にとって、不動産で財を成したトランプは政治家としてかなり異質であり、はじめから毛嫌いの対象だった。トランプはポピュリストでありファシストだと貶めることが、この階級にとっての身分証明になった。かくして現実を直視せず、不都合な事実に目をつむるようになったのではないか。
私はアメリカや日本の多くの知識人が「トランプだけは勘弁してほしいね」と吐き捨てるように言うのを見てきた。「私はそれほど悪趣味ではない」と言っているのだ。「美学上の不寛容は恐るべき暴力性をもっている」(ブルデュー)のである。一昔前に「違いが分かる男」との宣伝コピーが流行ったが「ディスタンクシオン」はこの「違い」のことだ。人間は差をつけるか同化するかで、住居、衣服、話し方、それらすべてが階級の「ディスタンクシオン」として機能する。
だが、アメリカ大統領選の混迷と情報の錯綜は、その機能不全をも示す。
アメリカ大統領選が恐ろしいのはその全体がもはや漫画にしか見えないことだ。「クラーケン」とか「マトリクス」とか、飛び交う語がその良い例。
格差社会は1%が99%の富を支配するという現実がある。だが「ディスタンクシオン」理論では、今やこの1%を可視化することが出来ない。「趣味と階級」が変容してしまったからだ。アメリカのみならず中国においても全く同じことが起きているのである。今や反腐敗闘争も漫画なのだ。
ブルデューはこの事態を予見して階級闘争から分類闘争への道を提示したが、時代は加速度がついている。大統領のツイッターは悪趣味に思われたが、今や最重要事項で、趣味の争いは暴力的であるが常に個人的問題に矮小化される。著者は最後の総括で「もっと怒りを!」とするが「怒り」の矛先を何に向けるべきか。
(抜粋)
「もっと怒りを!」
ほぼ書評に名を借りた民主主義を愚弄する組織的不正選挙に手を染めたアメリカの極悪民主党やリベラルメディアの悪事の告発書だったのである。
当たり前ですが一般市民よりも知識があるから知識人なわけで「トランプの言い分の方が正しい」「庶民の信頼感を利用してリベラルメディアが一致して噓八百を垂れ流す」ことは誰よりも良く知っているのである。(★注、一番善良ではあるが基本的に自分が叩かれることを死ぬほど怖がっているヘタレの毎日新聞らしい偽装告発記事だった)
大統領選挙の不正選挙で「トランプの言うような不正はなかった。死人の投票はたったの二人だ」とジョージア州当局の言い分がまさに漫画。小蠅が2匹しか入っていないからラーメンは問題ない「そのまま食べろ」と言い張る調理人と同じで、死人の投票が見つかった時点で即アウト。投票全体を見直す(やり直し)は当然な処置で、汚い蠅入りラーメンなど誰一人食べたくないのである。
止めようと思えば止められた。
トランプ排除の大義名分ができた。
これが国家というものだ。