逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

安倍首相訪米の手土産が痛すぎる

2018年04月16日 | 政治

写真は、国立公文書館が開示した『731部隊』の名簿

「731部隊」隊員らの実名開示 3607人分、公文書館 2018年04月15日 (西日本新聞)

戦時中に中国で人体実験を繰り返したとされる旧日本軍の「731部隊」の隊員ら3607人の実名が記された名簿が国立公文書館から開示されたと、滋賀医科大の西山勝夫名誉教授が15日までに記者会見して明らかにした。

 西山氏は「隊員ほぼ全員の実名が明らかになるのは初めて。研究に役立ててもらうため、今後ホームページで公開する」としている。

 開示されたのは、731部隊を中心とする「関東軍防疫給水部」の「留守名簿」。1945年1月1日付で作成され、軍医52人、技師49人、看護婦38人、衛生兵1117人などの実名や階級、連絡先が記載されているという。



『安倍晋三首相、17日訪米 トランプ大統領、米朝首脳会談に向け助言を期待』2018.4.15

【ワシントン=加納宏幸】トランプ米大統領は日米首脳会談で、5月か6月初旬に開くとしている北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長との米朝首脳会談に向け、安倍晋三首相からの助言を期待している。トランプ氏は核・ミサイル開発だけでなく、日本人拉致問題についても首相の意見を参考に米朝会談への対応を決める意向だ。
米政府高官は日米首脳会談を前に、「大統領は北東アジアの安全保障に関する安倍首相の見識に、大いに敬意を払っている」と述べるとともに、トランプ氏が北朝鮮を含む地域情勢について首相の見解を聞きたがっていると強調した。
(以下省略)



『アッと驚く、予想外のトランプ大統領のby May米朝首脳会談(3月8日)で浮足立つ日本(安倍晋三)』

2016年11月8日のまさかのアメリカ大統領選のトランプ当選では、まったく予想していなかった日本政府は大慌てで安倍晋三首相が急遽訪米してトランプタワーで次期大統領のドナルド・トランプ氏に謁見したのですが、・・・慌て過ぎて手土産が(スポーツ店で一番高価だった)店頭見本(店晒し品)を持っていく大失敗を犯している。(そもそも、翌年1月20日の大統領就任までトランプは私人なので、この時期での訪米自体が掟破りの『禁じ手』だった)
国立公文書館が今まで敗戦後73年間も隠し続けていた中国大陸で人体実験を繰り返した悪名高い旧日本軍の731部隊(石井部隊)の全隊員である、3607人の実名が記された名簿が今回開示されたが、4月17日に訪米で歴史修正主義の安倍晋三首相のトランプ大統領への手土産である公算が一番大きい。

『今まで悲願だった「歴史修正主義」を、今回(180度逆に)嫌々修正する?』

これでは安倍晋三の支持基盤である嫌韓嫌中ネットウヨの落胆や猛反発は必至である。

南京大虐殺や従軍慰安婦と並んで、昔の日本の悪い歴史を否定する安倍晋三としては一番否定したい『悪い歴史』の筆頭が人体実験の『731部隊』の存在だったのですから痛すぎる。
これはアメリカ(トランプ)への全面屈服『73年ぶり2回目の無条件降伏』ですね。
(★注、南北朝鮮の首脳会談開催決定に続く3月8日のアッと驚くトランプ大統領の『by May』米朝首脳会談で、無理やり日米首脳会談を4月27日予定の南北会談以前にねじ込んだのは良いが、やはり『土産』があまりにも高くついた)


怯えきった岸信介の表情が印象的(1960年7月14日 東京・首相官邸)



『昔の見世物小屋の口上「親の因果が子に報い」よりもっと禍々しい・・・』

安倍晋三首相の祖父でA級戦犯容疑者であった岸信介(東条英機内閣の通産大臣)が収容されていた巣鴨プリズンを釈放されたのは、東條英機が絞首刑に処された翌日だったという。『鬼畜米英』から180度転向し親米売国の道をひたすら推進した岸信介の原点と見れば、何とも分かり易い話である。
親米売国の岸信介が、1960年安保条約改定後の総理大臣退陣表明後、右翼に襲撃されて刺傷して秘書官などに担がれ首相官邸から避難している。
歴史修正主義なのに逆に73年間も必死に隠していた過去の悪行『731部隊』を今回全面的に表面化(公開)してしまった安倍晋三ですが、『歴史は繰り返す。一度目は悲劇として二度目は喜劇として』とのマルクスの言葉が不幸にも現実化するかも知れません。自業自得とはいえ本物の右翼は全員が例外なく安倍晋三のことを怒っているでしょう。
(★注、2007年に国会での所信表明演説の直後に政権を放り出した前代未聞の恥ずかしい過去がある安倍信三ですが、今回は日米首脳会談直後に政権を放り出す可能性が非常に高い)



『自民党政権に一番近い読売新聞系列のNNN世論調査で初めて2割台まで低下した安倍内閣支持率の怪』

同時期の朝日新聞の世論調査では31%。共同通信の数値は読売系の日本テレビ(NNN)よりも10ポイントも高い37%である。
安倍内閣の不祥事続出で全ての世論調査で支持率が低下しているのですが、その中でも突出しているのが読売系列の日本テレビ(NNN)の数値であり、今回NNNだけが危険水域である2割台に突入していた。


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日本軍の生体実験や南京大虐殺に怒った三笠宮崇仁、無かったことにしたい安倍晋三
  2015年12月23日 | 政治


1943年 中国勤務時代に内蒙古を視察、包頭(パオトオ)南方で黄河を渡る三笠宮殿下。軍による検閲で、同行者の肩章を消せとの指示が写真に書きこまれている。皇族軍人であることを秘匿するため、お印にちなんだ「若杉参謀」の偽名を使っていた(朝日新聞社)

『ネトウヨ・B層・反知性』

今の日本国で大流行している嫌韓嫌中ですが、お馬鹿なネットウヨの子供たちは中国の悪口を書く心算なら、本来なら中国語(漢字)の使用は駄目だと気が付かない。
(1970年代以降の韓国や北朝鮮ではナショナリズムが高揚した関係で、ほぼ自国語から表意文字の漢字を追放して表音文字のハングル一本にしてしまう。ところが、朝鮮語は同音異語が多い日本語と同じ構造なので人々は大いに不便をしている。無理やり漢字を追放した結果は、不便で有るばかりか子供達の知識水準も低下するが、そもそもナショナリズムとは『そのようなもの』なのです)
また、韓国の悪口の場合は文化も宗教も経済も社会も人種も、すべての面で世界中で一番『日本に近い』のが(大好きな)アメリカではなくて(大嫌いの)お隣の韓国なので困ったことに、自動的に『日本の悪口にもなる』ことに気が付かない。
汚らしい在日ヘイトスピーチのネットウヨですが、そもそも『在日』朝鮮人の全員が日本にとって他者では無くて、みんなが仲良く『帝国の臣民』だった事実に気がつかない。
安倍晋三など日本の右翼国粋主義者が大好きな(理想とする)70年前の大日本帝国にそっくりなのが実は今の北朝鮮である。うり二つ。何から何まで『同じ』なのです。(昔の大日本帝国のカリカチュアが今の北朝鮮の真の姿であると考えれば分かりやすい)北朝鮮の悪口の場合には自動的に大日本帝国に対する悪口になることに気がつかない。
日本の右翼の北朝鮮への悪口三昧ですが、これ、そのまま自分たちが褒め称える大日本帝国にもぴったりと当てはまる。嫌韓嫌中、ついでに嫌北朝鮮ですが、まさに反知性の極み。
中国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に申請した南京大虐殺文書の記憶遺産登録に対して、我が日本国政府(安倍晋三)が南京大虐殺を真っ向から否定する『新しい歴史教科書を作る会』の札付きの歴史修正主義のお馬鹿学者高橋某ををユネスコに派遣していたことが発覚しているが、まさに国辱的『ネトウヨ・B層・反知性』の見本である。

『真っ向から否定する心算だったのに!。』

『仕方なく南京大虐殺を「歴史の事実」と渋々認めるネトウヨ(安倍晋三)日本政府の大失敗』
12月11日参院文科委員会、南京大虐殺のユネスコ記憶遺産登録の審査で、日本政府が大虐殺否定派(歴史修正主義)の鼻つまみの阿呆学者を派遣していたことを共産党の田村智子議員から『日本政府は南京大虐殺に対する態度を変えたのか』と追求されている。
外務省アジア大洋州局長は『非戦闘員の殺害や略奪行為等は否定できない』、『歴代政府は繰り返し痛切な反省と、心からのおわびを表明してきた』と南京大虐殺(1937年)について今までの日本政府の立場を繰り返した。馳浩文科相も『これまでの政府見解と同様の立場だ』と変化が無いことを確認している。
2006年に当時の安倍政権が始めた日中歴史共同研究でも、日本側の防衛研究所によって『日本軍による集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した』との論文がだされ、これが南京大虐殺についての日本の歴史学の共通認識になっていた。
ところが今回ユネスコに政府が派遣した高橋史朗明星大学教授は、侵略戦争を全面否定する極右の国粋主義組織『新しい歴史教科書をつくる会』創立メンバーで、『南京大虐殺は中国のプロパガンダ』だと、日本政府や歴史学会の歴史認識とは180度逆の主張をしていた。



(資料)『南京大虐殺に怒った三笠宮崇仁』2015/12/9(水) 河信基の深読み

今月2日に百歳になった三笠宮が陸軍少佐とした赴任した南京で見聞した日本軍の数々の残虐行為に驚愕し、南京大虐殺に怒った事は意外と知られていない。
その事実は兄の昭和天皇にも知らされており、兄弟共に暴走する日本軍への不信感を募らせていたことがうかがわれる。

南京大虐殺を否定する歴史修正主義者には写真がどうのと重箱の隅をつつくような些末な議論に流れ、旧日本軍を庇う傾向が認められるが、精神の貧困と言わねばならない。
『二人のプリンスと中国共産党』で、軍部に操られた昭和天皇は実は反戦主義者であり、海外侵略にのめり込む軍部に不満を強め、ポツダム宣言を受け入れる「聖断」に繋がったと書いたが、三笠宮の証言からも改めて裏付けられた。

三笠宮は結婚70周年の2011年10月に発表した感想で「結婚の時、私は陸軍大学の学生だった。間もなく戦争となり、支那派遣軍総司令部の参謀として南京に赴任した。帰国後、大本営参謀などを務めているうちに、敗戦となった。空襲で屋敷が全焼し、経済的な労苦は大きかった」と回想している。戦後は東大でオリエント史を学び、学者の道に進んだ。生物学の研究に打ち込んだ兄の昭和天皇と似た経歴である。
問題の南京赴任時代について自著『帝国と墓と民衆』(1956年光文社)に付した「我が思い出の記」で以下のように生々しく触れている。

「わたしの信念が根底から揺り動かされたのは、じつにこの1年間であった。いわば『聖戦』というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とは思いもつかない結果を招いてしまった。
この失敗は軍および日本政府首脳に真剣な反省をうながし、新たに対華新政策なるものが決定され、わたしが南京に赴任していた1年間は、司令官以下この方針の徹底に最大の努力をした。
新政策が発表されるや、軍司令官はただちに『四悪』を禁止するという厳重な命令をくだした。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦のことである。ある第一線の大隊長のいうことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼きはらって進んでいた・・。ところが放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。まったく笑えないナンセンスであった。正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」

三笠宮はコードネーム若杉参謀として南京に赴任していたが、帰任直前の1944年1月、将校らの前で講話し、軍紀の乱れや残虐行為を厳しく指弾した。
それは1994年に「支那事変に対する日本人としての反省」として公表された。

しかし、三笠宮自身、罪悪感に長く苦しんできた。
「紀元節復活に反対運動を展開してはどうか」(毎日新聞1957年11月13日)と呼び掛け、『紀元節についての私の信念』(文藝春秋1959年1月号)で次のように心情を明かしている。
「昭和15年に紀元二千六百年の祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。架空な歴史を信じた人たちは、また勝算なき戦争を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人として大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨事に陥れないように努めることこそ、生き残った私の責務だと考える」

さらに、「今もなお良心の苛責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです」(自叙伝『古代オリエント史と私』1984年学生社)と告白し、南京の実態について赤裸々に明かす。
「ある青年将校ー私の陸士時代の同級生だったからショックも強かったのですーから、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突き刺させるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画を見せられました。
その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国連から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかったと語っていました」

当然、南京大虐殺を否定する一部の歪んだ風潮については批判的であり、「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。人数は関係ありません」(『This is 読売』1994年8月号)と厳に戒めている。
注目すべきは、兄の昭和天皇とそうした認識を共有していたことをうかがわせる次の部分である。
「中国側は日本軍の残虐行為を『勝利行進曲』という映画にしていましたが、それを日本側が重慶あたりで没収してきたものを手に入れた私は、東京に連絡で戻った時に、その映画を持っていき、昭和天皇にもお見せしたことがあります。宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だったろうと私は考えております」(同)。

南京大虐殺を否定する保守系メデイアは三笠宮を「赤い宮様」などと揶揄し、その発言を封じようとしてきた。
だが、現場を踏んだ証言の信憑性はいささかも揺るぐことがない。

『二人のプリンスと中国共産党』で、昭和天皇夫妻は「キリスト教の“秘密の洗礼”を受けた」と、タブーを明かした。戦前から聖書の講義を定期的に宮中で受けていたと『昭和天皇実録』に記述されており、キリスト教界の内部証言等で裏付けたが、三笠宮と共有していた罪悪感も心理的に作用したと思われる。
昭和天皇の人間宣言は、GHQに強要されたものではなく、自発的、必然的であった。


12月2日に100歳を迎えられた三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下(大正天皇の4男で、長兄の裕仁「昭和天皇」とは14歳離れている)

『南京虐殺は“人数に関係はありません”のお立場「三笠宮殿下」』12月17日発売週刊新潮2015年12月3日号

12月2日に100歳を迎えられた「三笠宮崇仁親王殿下」で思い出されるのは、皇族らしからぬ「斬新なお言葉」の数々である。例えば1956年に上梓された『帝王と墓と民衆』(光文社)に付された『わが思い出の記』の中で、1年間ご赴任された南京で見聞した日本軍の行状をこう嘆かれている。

〈一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった〉
〈内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか〉
同じ頃、世間では48年にGHQの意向で廃止された祝日・紀元節を復活させようとの気運が高まっていた。
そんな中、57年11月13日付「毎日新聞」は、ある歴史学者の祝いの席でなされた三笠宮さまの発言を報じている。

〈二月十一日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが、カンジンの歴史学者の発言が少ないのはどうしたわけか。紀元節問題は歴史科学に影響するところが大きいと思う。(中略)このさい、この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ、二月十一日・紀元節反対運動を展開してはどうか。(中略)この問題は純粋科学に属することであり、右翼、左翼のイデオロギーとは別である」〉
学者の立場から「紀元節に科学的根拠なし」との論陣を張った三笠宮さまは、その後も、

〈紀元節についての私の信念〉(「文藝春秋」59年1月号)と題した論文を発表。
〈日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である〉
そう強調され、以下のように結んでおられたのだ。
〈昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。
もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。
だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている〉

■「毒ガスの生体実験をしている映画」

こうしたお考えの集大成ともいえるのが、84年に刊行された自叙伝『古代オリエント史と私』(学生社)である。そこでは、

〈今もなお良心の苛責にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです〉
と前置きしつつ、南京での実態をさらに詳述され、
〈ある青年将校――私の陸士時代の同級生だったからショックも強かったのです――から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。
また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。
その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。
「聖戦」のかげに、じつはこんなことがあったのでした〉

■〈昭和天皇にもお見せしたことがあります〉

南京から帰任する直前の44年1月、三笠宮さまは“若杉参謀”の名で将校らを前に講話をなさっている。
軍紀の乱れや現地軍の独走を激しく指弾する内容は「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられ、94年には半世紀ぶりに公表された。
当時、月刊誌の取材でご自身は、いわゆる「南京虐殺」についても、
〈最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。
辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係はありません〉(「THIS IS 読売」94年8月号)
そう断じており、
〈中国側は、日本軍の残虐行為を『勝利行進曲』という映画にしていましたが、それを日本側が重慶あたりで没収してきたものを手に入れた私は、東京に連絡で戻った時に、その映画を持っていき、昭和天皇にもお見せしたことがあります。
もちろん中国が作った映画ですから、宣伝の部分も多いでしょうが、多くの部分は実際に行われた残虐行為だっただろうと私は考えています〉
老境に差し掛かってもなお、決して節を曲げることはなかったのである。
「特集 『三笠宮殿下』百寿祝いで思い出す『紀元節反対』と『南京虐殺言及』」  
週刊新潮2015年12月3日号 12月17日発売

『何故か政府べったりの保守的な政治姿勢が特徴の二者が、同時期に同内容の記事を書く不思議』

読み比べれば誰にでも分かるが、12月17日発売の週刊新潮2015年12月3日号と『南京大虐殺に怒った三笠宮崇仁』2015/12/9(水) 河信基の深読みの二つですが、完全なコピペではないが内容的に瓜二つである。
同一人物が書いたのではないかと思われるほど似ているのですよ。しかも、書かれた時期がまったく同一なのです。
(ただし、週刊誌とネットのどちらが先かは不明だが、)
今回の三笠宮の驚きの記述ですが、70年以上前に終わっている話ですよ。しかも書かれたのは最近ではなくて何十年もの昔の話である。
今生きている日本人にとっては、それほど大きな意味を持っていない。
しかも改めて取り上げて、わざわざ書く程の話ではない。左翼知識人なら一般常識に近い『誰でもが知っている知識』程度であろう。
ただし、三笠宮の話はマスコミでは忖度して(自主規制して)なるべく取り上げない種類の話なので、頭が空っぽで目が節穴の可哀想なネットウヨがまったく知らないだけなのです。
書いた河信基は以前には北朝鮮人脈だと思われていた人物ですが、現在は韓国の政府与党やパク・クネ大統領に限りなく近い在日朝鮮人知識人である。
もちろん週刊新潮の方は最初から与党自民党や安倍晋三首相にべったりの右翼週刊誌の代表的存在なのです。その権力(政府)べったりが特徴の、そっくり同じ二者が同一記事を同一時期に書いている。
多分これは赤いニシン(間違った結論に誘導する偽の手がかり)の疑いが高い。
70年以上前の日本軍が悪かったところで、今生きている日本人にとって痛くもかゆくもない些細な話なのですが、(何十年も長い間マスコミが自主規制して隠していたのですから、)今の事態は深刻で、70年ぶりの2度目の日本の敗戦が目の前に迫っているのでしょう。



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