第8章
恐怖との戦い
腸を20センチほど切り取り、人工膀胱に代用した為に飲食を口にする事が出来ない。40度を超える高熱と脱水、喉を始めとする体中の渇き、嘔吐、幻覚症状と閉所恐怖症に苦悩したが、特に喉の渇きと幻覚症状、閉所恐怖症は表現出来ないくらいの苦しみと恐怖であった。
「菜の花畑」や「山間の滝の風景」、「暗い小さな鉄格子の箱に閉じ込められる」幻覚など、これが「三途の川」なのか、と思えるくらいの苦痛と恐怖であった。「何時までこんな事が続くのだろう? こんな事なら死んだ方が楽だとも考え、泊りがけで看病してくれている家内の目を盗んで、時には夜中に点滴や他の管を抜いて楽になろう」とまで考え実行しかけたが、その時たまたま巡回の看護師さんに見つかり、一命を取り留めた様な事もあったが、そのくらい辛かった。
昼夜を問わず襲って来る激痛と恐怖が、一週間位続いただろうか? その間も24時間体制の家内と12時間体制の兄の付きっ切りの看病は続く。
元々地声が大きく「歯に衣着せぬ」物言いをする兄の私を気遣う世間話や激励は、時には煩わしく感じたが、懸命に足や手を摩ってくれる様は無骨ではあるが、何とか気を紛らわせ、楽にさせてやろうとしてくれる思いが、ひしひしと痛いほど感じ取る事が出来た。元々兄は、過去に腕相撲では負けた事が無い位に力が強く、懸命の思いの強さからか、返って痛む事の方が多かった様に思うが、この強い思いが悲しくも嬉しかった。
少し気を遣い遠慮気味に拒絶すると兄が言った「わしら兄弟は戦友だから」。
今となってはユラクを退任して、別の道を歩もうとしていた私にとっては、生涯忘れられない「宝物」の一言となった。
また、その後も弟や子供達、孫達も再三見舞いに駆けつけてくれ、一人になる事が無いくらいに賑やかで、辛さを忘れる安らぎの一時に感謝している。
現状が理解出来ない孫の「じいしゃん来たよ。ファミマに行こう」と言うあどけない言葉にも救われた。
術後は個室で過ごしたが、窓から病院職員の駐車場が良く見える。
満車の時は安心して落ち着くが、夕方薄暗くなると、一台また一台と車が帰って病院の職員が退社する。20時頃になるとほとんどの車が無くなり、帰って行く様子を見て本当に寂しく不安であり、夜が来るのが怖かった。
「豊岡病院職員駐車場」
特に土日、祝日は病院職員の駐車車両も少なく、私の嫌な曜日であり、何時しかナースコールボタンが、私の心の支えとなっていた。
夜中でも家内が苦悩を見かねて、ナースコールを押してくれる。「地獄で仏に会ったような」看護師さんの対応に、安堵し救われた。
夜も寝られずに、何度も何度も朝を待ちわびて時計に目をやるが、時計の針は止まっているかの様に進まず、10分間がこれほどまでに長く感じた事は、過去に経験が無く、何度も「音を上げそう」になった。
多くの患者さんと接する中で、再起不能と思われる患者さん、植物人間らしき患者さん、お見舞いの無い患者さん。
終末期とは何なのか? 安楽死とは何なのか? 認知症、寝たきり、闘病、介護、独居、こんな言葉を見たり聞いたりしない日は無い中で、大勢の方にお見舞いに来て頂く私は、周りの患者さんを気遣う程、賑やかで幸せ者であった事に気付かされる。
血縁より近くの知人とよく言われるが、私には何より力強い血縁者がすぐ近くに大勢居る事に感謝している。
考えてみると「兄弟は他人の始まり」と言われる中、私達兄弟3人は私が生まれた時から、何時も一緒に人生を共にしてきた。家内や子供でも30数年の付き合いだが、兄とは60年、弟とは58年のユラクを通しての長い付き合いであり、雨の日も風の日も晴れの日も、何をするにも何時も一緒に苦楽を共にして来た特殊な人間関係で有った。
大手術の関係で個室に入院していたが、その間、家内は術後より4日間は連続の泊まり込みの看病と、その後も毎日毎日、朝から晩まで病室で見守り続けてくれ、何時しか夫婦で入院をしているかの様な錯覚を覚えるほどに、一生懸命に世話をしてくれ、ナースステーションでは、「おしどり夫婦」と噂されるほどに成っていた。
こんな病床での生活では身動きが取れずに、15センチ先の物でも取る事が出来ずに、家内の存在無くしての入院は考えられなくなっていた。
「毎日付き添い看病してくれる家内」
何時もは10時頃には出勤? してくるのだが、少し遅いと腹が立ち「今日は何しとるんだ遅い」と、ついつい愚痴も手伝い携帯を鳴らす。「お父さん、子供じゃ無いんだから」と何時もの反撃の返事が返ってくる。
用事も無いし、特に顔が見たい訳でも無いが、やはり彼女の顔を見ると安心する特別な存在だ。
何時ものように持参してくれる弁当を、二人で分けて昼食を取り、晴れていればリハビリを兼ねて病院の外周を、雨天の時は病院内を散歩するのが、何時しか私達の日課となっていた。
昔話をしたり、子供や孫の話をしたり、時には私の余命の話もする。
私も7年前より彼女への感謝の気持ちとして、毎日15分間程では有るが「感謝の肩たたき」を毎日欠かさずに行っている。さすがに術後は無理であるが、安定してからは手術で休んでいた分も取り返す位の勢いで行った。
本当に喜んでくれる笑顔に騙されて、今日になってしまったが、しばしば看護師さんにも見られ、恥ずかしい思いもしたが、私の感謝の気持ちと、自己満足は今も変わらない。
闘病中は、悔しくて、悲しくて、情けなくて、辛くて、嬉しくて「鬼の目にも涙」人目もはばからずに涙を流す事も有ったが、こんな家族や兄弟、親族に見守られながらの闘病生活は、私の大切な財産で有る事を痛感し、深い愛情に感謝すると同時に、人の優しさや愛情とは一体何なのかを考えさせられる、良い機会に成った事は言うまでもない。
「皆さんから頂いたお守り」
そんな闘病生活も日々順調な回復を見せ始め、体内の管も一本また一本と抜かれ出し、ようやく峠を越えた事を自分でも実感出来るようになり、「サイダーとうどん」が無性に食べたくなるほどに回復していった。
「千里の山も一足ずつ運ぶなり」のことわざ通りである。
誰しも人生60年も生きて居れば、一度や二度「死ぬかと思った」経験は有ると思うが、じわじわと迫り来る苦痛と恐怖の時間は、やはり特別な時間だ。
人は皆、人生の終わりの時が決まっていないから生きられるが、時間制限の有る人生の恐怖は計り知れない怖さである。死ぬ事の怖さより、死ぬまでの経過の辛さが怖いのである。
それは、手術前の怖さは有るが、術中の全身麻酔の後は痛くもかゆくも無く終了するが、手術後の治療の辛さは半端ではなく、死ぬまでの経過に似ているのかも知れないが、死んでしまえば手術後の様な辛さは無い。
ご覧いただきありがとうございました。
次号第9章もご覧ください。
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