人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第2章)

2017年05月31日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第2章

第二の人生

この度、無事にユラクの専務取締役を退任したが、喜びや安堵と共に一抹の寂しさが残る中「少しのやり残し感」も感じていた。「これから先、どうしよう? 」と思いつつ「もう一度社会復帰したい」との思いが次第に強くなって行った。「10の趣味より、1の仕事」と言うが、もう少し「やりがいや充実感」を感じる生活をしたくなった。

人間と言うものは、生きて居ると言う事に、多少の意義が無いと、生きて行けないものであると思う。

自分自身の身の振り方を模索する中、ユラク在職中に担当していた子会社である

「株式会社ほーゆー本店」の株式を譲渡してもらい、独立して自分で経営してみたいとの思いを強くして行った。

この思いをユラクの役員会で承認され、これまで「ほーゆー本店」で苦労を共にして来た私の右腕である田中店長と愚息の長男の3人で、「打たぬ鐘は鳴らぬ」の心境を基本精神に、少し病んでいた「ほーゆー本店」の再建をめざし還暦にして、第二の人生の再出発を決意した。

長男は、大学卒業後は佐川急便の関西支社に採用され、豊岡支店に勤続して8年目を迎えていた。

「ほーゆー本店」の後継者を打診したが、当時は余り良い返事はせずに、説得に時間を要したが、「勤続10年まで待ってくれ」との返事を貰った。

彼の思う勤続10年とは、新卒で採用され入社して、ここまで育ててくれた、会社への恩返しと義理であったと聞かされ、転職が多い昨今に、少しばかり大人になった長男を誇らしく思った。

もし、長男がこの決断をしなかったら、おそらく私は独立を諦めていたに違いない。今後の事は分からないが、何度も何度も粘り強く説得を続けた事は、私の人生最後の選択である。

それから数か月経ったある日に、退職願を提出した事を聞かされた。後任の関係から数か月の時間が掛かったが、渋々ながら円満退職してくれ、取締役社長として入社してくれた。

これは、彼にとっても選択と運である。

これで、代表取締役専務の私と、取締役社長の長男と、田中店長の3人態勢が完成し「新生 株式会社ほーゆー本店」が誕生したが、ユラクグループの一員で有る事に変わりは無い。

代表取締役の私が、何故に専務かと言うと、ユラクの役員は退任したが、顧問として在籍していた関係で、引き続きグループ内では、専務と言う呼称に統一された為であった。

 

 「㈱ほーゆー本店社屋」 

「ほーゆー本店」は、資本金3400万円、社員20名ほどの小さな会社であるが、「ユラク」同様に私の宝物となった。 

その昔、ユラクグループは、㈱ユラクを親会社にユラク通商㈱、ユラクフーズ㈱、ユラク物流㈱、(有)兵庫中央レンタカーの四社の子会社を抱えていた。

これらは、㈱ユラクの全額出資による完全子会社 (後にユラクに吸収合併) である。

 

 「ほーゆー本店事務所内」 

「㈱ほーゆー本店」は平成22年に買収したユラクの全額出資した子会社であった為に、法人名の冠に「ユラク」と言う名前が付いて無いのは、その為である。

「ほーゆー」とは「あなたの為に」を意味する英語に由来する。

その後、病を患っていた「ほーゆー本店」の業績も順調に推移し、見事に再建を果たす事に成る。

こんな穏やかで充実した生活が長く続くと思われたが、その後に私は人生を一変させる大病を患う事に成り、小さな幸せは長続きしなかった。

ご覧いただきありがとうございました。

次号第3章もご覧ください。

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