(´・ω・`)ショボーン

いろいろと…

坊主は地獄に堕ちる

2011-04-20 | Other
坊さんは衆生を救う為、即身仏や即身成仏という荒行をされる。 私は思うのだ。 即身仏とは、自らの命を絶つ行為であり、それは決して仏に許されるものではない。 この世に生まれ落ちてより天寿を全うするまでが自然の理なのである。 しかし、自身の命を自身で決めるこの行為は自然の理に反し、人の『傲り』である。

しかし、わたしはこうも思うのだ。 傲るのは人の性。 その罪は真摯に受け止め、自らの命を絶つ事で『自ら地獄に堕ちよう』という行為が、即ち『即身仏』になる事なのであると。 そして、地獄に堕ちた後にも、地獄で苦しむ者達に救いの手を差し伸べるのだろう。 地獄に堕ちたら永遠に苦しみ続けなければならないのだろうか? 永遠に極楽浄土へと後生することはないのだろうか? 昔の坊主はそう考えて『即身仏』なる荒行をしたのだろう。 現在の坊主達はそれを理解し、昔の大僧正の考えを知るべきだと私は思う。 無知である事は人の性。 それに気づくことで新たな未知が切り開かれる。 『即身仏』は衆生も救い、地獄に落ちた者達も救う。 それが真の『即身仏』の意味である。

酒井雄哉殿の荒行は衆生を救うでしょう。 しかし、地獄に落ちた者達を救う事はできない。 いかにして地獄の亡者を救うか? 即身仏ではなくとも、また新たなる未知を切り開かれていかれることを…。

宗教は神への冒涜である

2011-04-14 | Other
『神』とは人それぞれの心の中に存在する。 その形は様々であり一箇として同じではない。 それを知らずして神の存在を語る偽りを教え広める宗教は、その存在自体が『神』への最大の冒涜であると悟りなさい。

この世の宗教は全て、仏教にしてもキリスト教にしても、その他様々な『宗教』と名のつく物は、ある一箇の人の神の姿であり、また、それは他人では全く意味のない神である。 それを信奉することなど自分自身の『神』への冒涜であり、まさに地獄に堕ちるだろう。 それを人々は知らなければ、心に平穏はない。

まやかしの心の平穏に安堵せず、自分自身の『神』を信じること。

それが、本来の『万物の理』である。


『天上天下 唯我独尊』

皆、この意味をきちんと理解しているならば、宗教などと言う団体は築かれないはずなのだが…。 人の弱さが小鳥の群れのような団体を作り上げているならば、それは本来の人間の弱さであり自然なことである。 しかし、それを克服したいと願い、心の平穏を願うならば群れていては悟りは開けないのです。

この世に一人として同じ人は存在しません。 皆が個性があり、人それぞれに悩みがあり、この憂き世を生きています。 心は弱くて良いのです。 皆が弱く、どんなエライ人であってもお金持ちであっても最高権力をもつ者でも、誰一人として心の強い者などいないのですから。 人は弱い。 ただそれだけが真実です。

その弱さを知り、そこから新たな芽を育むのです。 己の弱さを知る者こそ、既に真に強い心を持つ糧を得ているのですから。


『怒り・憎しみ・妬み・悲しみ』

そのどれもが人を懊悩させる。 一生、楽しく笑って生きていきたいと願う気持ちは誰の心にもある。 しかし、その4つの感情は現れる。

私はこう思うのです。

どんどん怒りなさい。
どんどん憎みなさい。
どんどん妬みなさい。
どんどん悲しみなさい。 と…。

愚かなる感情は隠せる物ではない。 また、消え去る物でもないのです。 『悪い気』は溜め込まずに吐き出し続けること。 己の器量を知りなさい。 溜め込みすぎて器量を超えて溢れだした『悪い気』はどこに行くのでしょう?

貴方の器を破壊しかねない状況にしないこと。 これが肝心なのです。 普段から、どんな些細なことでも良い。 負の感情はどんどん小まめに吐き出すことです。


最後に、宗教団体のトップとでも言いましょうか、『教えを広める者』に対して箴言があります。


「人として…傲りは己を苦しめる事になりましょう。
 神の代弁など各神への冒涜を神は決してお許しにはなりません。

 無に帰す前に…過ちを正すことで、
 貴方たちの教えは真に人々の心を救うでしょう」