徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

ギリシャ神話の死生観 その弐

2020-02-01 13:37:51 | 随想

ギリシャでは死についてどの様に考えていたのだろうか。

神は永遠で人間は死するという一線は厳として守られているのだが、人間は死後の世界についてどのように考えていたのだろうか。

誰であろうと古代の人々であろうと現代の我らであろうと死について考える時、死んだ後どんな世界が己の魂を待ち受けているのだろうか。

本当に地獄極楽などと言うものがあるのだろうか。

人間が死ぬと同時に魂が肉体を抜け出す。

そしてその魂は冥界のハデスの館へと向かう。

何にしても例外はあるものだが、死に関する例外とあっては事は重大である。

ただ一つの例外は、

ホメロスは西の果てのオケアノスの側にある地、ヘシオドスは世界の遥か彼方にある島、至福の島があるという。

そこへ行く資格のあるものは、神々の恩寵を受けた英雄や正義の人、あるいは神々と縁を結んだ者など、人によっては確かではないが楽園へと誘われる、

ピンダロスなどによるとその至福の島には、アプロディテーの娘ハルモニアを娶ったカドモス、海の女神テティスを娶ったアキレウスの父ペレウスが住んでいるという。

彼らは姻戚関係によって神の一族になって、永遠の生を得たのである。

とは言ってもそのペレウスの子、アキレウスの魂は半神ではあっても冥界で過ごすことになる。

この冥界でアキレウスとオデッセウスとの会話はホメロスのオデッセウスにあるが、何故か心に響くものがある。

そのオデッセウスがテイレシアスの予言を求めて、ハデスへ降りたことがる。

その時アキレウスと出会い話し合うのだが・・・・・

これはケルトの神話にもある死の門を通らずに、異界へ旅することなのだが様々な神話や伝承に取り入れられている。

ホメロスのオデュセイア十一歌で出会った時の会話を引用してみよう。

これは叙事詩なので形容が多すぎて煩雑なのでその様な部分は省く。

オデッセウスも冥界で知り合いも多く様々なものと話しているところへ、アキレウスの霊が友と共に現れる。

オデュッセウスよ何たる無茶をする男か、これよりもさらに大それたことを目論むことは出来まい。

どうしてまた冥界などへ降りようなどと言う気を起こしたのだ。

ここは何の感覚もない骸、果敢なくなった人間の幻に過ぎぬ者たちの住む場所であるのに。

答えて曰くアキレウスよ私はテレウスの預言を求めて此処へ来た。

如何にすれば故郷へ帰ることが出来るのか、その方策を授けてくれはせぬかと思って・・・・

アキレウスよこれまでもおぬしよりも幸せな者はいなかったし、これからもそれは変わるまい。

おぬしが世にあった時我等は皆おぬしを神同様に崇めていたし、今は又この冥府に在って、死者の間に君臨し権勢を誇っているのではないのか、

さればアキレウスよ死んだとて決して嘆くことはないぞよ。

オデュッセウスよ私の死に気休めを言うのはやめてくれ。

世を去ったし人全員の王となって君臨するよりも、むしろ地上に在って、どこかの土地の割り当ても受けられず、資産も乏しいどこかの男に雇われて仕えたい気持ちだ。

それよりも生の世界に残してきた父や息子のことを聴かせてくれ。

――ホメロス オデュセイア 松平千秋訳 岩波文庫――

 

翻訳の通りではないが大筋この様な会話が為された。

アキレウスの思いと、たまたま冥界に降りてきた生の世界のオデュッセウス考え方の相違が如実に表れている。

死んで後も世に残してきた、本来己が守らなければならない者たちの事が気にかかる。

守るべきものを持つ人間の死に対する恐怖は半神の人間、英雄アキレウスと云えど冥府にあっても気にかかると見える。

アキレスの様に死者の魂を相手であっても安穏に暮らしている。

生の世界から死後の世界は判らないし、死後の世界から生の世界の事は判らない。

だれも経験したことのない異界への旅を恐れるのはその様なところにあるのだろう。

それは、ギリシャ神話の神の血を引く者であっても、人間と同じなのである。

この生の世界での苦しみに耐えかねて、次の世の安寧を求めるものも、いまの生の世より悪くはなかろうという一途の望みを託して、

自ら次の世を目指すものの心情も判る様な気がする。

この神話の様に、冥界を経験することが出来るのならば、人間の死生観も随分と変容を遂げるだろうと思う。

ギリシャ神話の中にはオルペウスとエウリディケの死の世界の説話があるが、どれも一概に生の世界いわゆる此の世がいいとは言えないところがある。

要は死して後の魂の住む世界が如何なる世界であるかわからない、それが死生観を決定づける最大の要因であろう。

このオルペウスの伝承もいくつもあり綺麗な話ばかりではない様である。

我が国の神話の中の伊弉諾の様なおどろおどろしい話もオルペウスの話を範にしたのかも知れない。

 

人間長生きを望むのは単に死を回避するのを一刻でも遅くと望むからであろうが、始皇帝の様に絶大な権力を手にしたものは、

何時までもその権力にしがみつきたいという願望、それが長生きと言うより不老不死、ギリシャの神々のような存在でありたいと願うのであろう。

このギリシャ神話における至福の島は生の境と接しており、キリスト教などの言う天国とは様相を異にする。

死を経由しないで異界への旅をするケルト神話の世界とどこか似ているような気がする。

キリスト教の天国、地獄はダンテの神曲でも書かれている様に地獄は地中深い地球の中心へ向けての九層の奈落であり、

天国ははるか上空の天を意味し垂直方向の設定である。

ギリシャ神話のホメロスやヘシオドスの前八百年頃は地球は平板であり無限に広がるオケアノスに囲まれていたと思われていたためかもしれない。

ギリシャ神話における地獄はキリスト教の言う地獄とは様相が違う。

キリスト教における地獄は生の時代、大罪を犯したものに懲罰としての責め苦を課すものであるが、

ギリシャ神話における地獄に類するもの即ちタルタロスは罪人に対する懲罰的な制裁を科すものではなかった。

 

ヘシオドスの神統記の世の原初の生成にある様に、まずカオスが生じ、ガイアとタルタロスとエロスが生じたと。

このタルタロスは大地の奥底にあると言っている。

尤も、このヘシオドスにしてもホメロスにしても、このギリシャ神話自体いい加減な語りが多くみられる。

我が国の古事記や書紀にしても神々の生成は限りなく書かれている。

だが人間がどの様にして生まれ出たのかは一語も書かれていない。

先にも書いたように、このヘシオドスの神統記にしても、カオスの生成からガイア、タルタロス、エロスが生じた後、

次々にガイアが交わって神々が生まれるのだが、人間が生成されたことは一語もない。

突如としてアプロディテーが泡の中から生まれたことが記されているのだが、その時の情景に人間どもなどの表現があり、既に人間が存在していたことが知れる。

 

そこに書かれている言葉を引用してみよう。

泡から生まれた女神 麗しい花冠をつけたキュテレイアと・・・・

神々も人間どもも呼んででいる。

泡の中に生まれ育ったのだから・・・・・

                       ――神統記 ヘシオドス 広川洋一訳 岩波文庫――

 

古代の伝承や神話の類を真面に受け取ること自体馬鹿馬鹿しいと言えば言えるのだが。

それはさて置き、ギリシャ神話におけるタルタロスは聖書や仏教における様な生の時代の悪行に対する制裁的体罰の報復ではなかった。

ホメロスにしてもヘシオドスにしても同様であった。

タルタロスはガイアとタルタロスが交わって生まれた怪物やゼウスが戦って滅ぼしたテイタン神族の隔離場所でしかなかった。

 

ゼウスに対する反逆、オリンポスの神々に逆らったものなどの隔離場所でもあったとされている。

ところが時代が下ってくると、ダンテの神曲に出てくる様に、ウェルギリウスの時代になるとタルタロスは生の時代の大罪に対するお仕置き場に変わっている。

ホメロスやヘシオドスの時代はタルタロスが仕置き場でないとしても、神々にとってもタルタロスそのもの自体が怖いところではあったらしい。

ゼウスは神々に対して、ゼウスに逆らうものはタルタロスに送ると宣したと書かれている。

時代が下がってくると、ギリシャ神話にしても、生を終えた魂の行く先は決まっており、それを判断するのは生の世の行いに依ってであるとする。

ウェルギリウスはそのアエネイスで地獄の模様を描いている。

そこで行われている刑罰は実に過酷なものであるように書かれている。

いずれも、生に時代の行いを平穏にさせるための一つの方便、いずれの人間と言う生き物も考える事は同じらしい。

ギリシャ神話にしても神話そのものは人間が創り出したもので、因果応報を誰も経験したこともない死後の世界に持ち出した浅薄な考えとしか言いようがない。

どんなに反論されても絶対に確かめようがない世界であるからどんなことでも好き放題言える。

それが宗教と言う不可解なものの恐ろしいところである。

人間と言う生き物がこの世に生じて以来、自然の脅威に対する恐怖から生じたアニミズム辺りに根を発するのだろう。

長い長い歴史の間に様々な権威、即ち神官、巫女、呪術師などに好き放題脅かされ、潜在意識に刷り込まれて死後に対する恐怖が現代にまで、

いや未来永劫続いていくことだろう。

 

キリスト教の何時訪れるともわからない最後の審判を畏れて生きざまを制限されては、折角の短い生の旅路を無駄に過ごすことになる。

一時間の後、明日と言う日、一年の後は誰も経験したことのない未知の世界であり、同じように、死んで後の魂が逝くあの世とやらも、

誰も経験したことのない未知の世界である。

折角生まれたこの世の生、いずれ終わるとは分かっていても何も特別懼れる事はない。

それまでの生を存分に楽しむことである。

神を拝み、懺悔し、念仏を唱えて、心が休まるならそれはそれでいい。

死後の世界を恐れてするのであれば、それは無意味と言うものである。

人間一度は必ず死に直面する事だけ分かっていればいい、ただ早いか遅いかの差だけである。

 

神に召されたなど馬鹿な事は考えない方がいい。

嫉妬に狂ったヤハウエーの脅しに過ぎない。

折角の人生の旅路は己の思うように、思う存分楽しむことである。

 

旅などというものは、家に帰り着いての事を慮っては、せっかくの旅も楽しさは半減してしまうだろう。

旅の終わりに辿り着いたとき、やれやれ長いようで短い旅であった。

それもようやく終わったわい、よきかなよきかな、ゆっくり休もう、人間などの楽園願望などわれには関係ないと思えれば天国地獄など物の数ではない。