徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

人の吾ために善なるを恃まず~人間性善説では生きてはいけない~

2020-02-07 16:47:57 | 随想

中国では昔から人間をどの様に見るか二つの考え方があった。

一つは性善説、あと一つは性悪説である。

孟子が言う性善説、荀子が言う性悪説。

要は人の本性、もって生まれた人間という生き物の本性が悪に奔るか、善に奔るかという事ではあるが、

いずれの説であっても教育によって善への方向付けを要するという点では大差がない様な気がする。

その教育の仕方と、対応の仕方を如何にするかが大切という事の差であろう。

性善説の立場に立てば人間の本性は善であるから、その善なる性質を伸ばしてやればいいと考える。

従って、管理し締め付ける厳しい締め付けは必要はないという事になる。

人間という生き物を信頼し、楽観的な人間観である。

性悪説によると人間の性根というものはもともと悪であるという考え方で厳しく管理する必要があると考える。

人間関係にしても、それなりの警戒心をもって対応する必要があり、怠ると嵌められたりひっかけられたり、様々な被害を被ることがある。

よく日本人は楽観的であるという言葉を聞くが、どうしてどうして素知らぬ顔で悪を為す輩が蔓延している。

楽観的であるというのは、海外などのビジネスで信用するあまり、相手の出し抜かれて呆然とすることが多いという事を意味しているらしい。

現代のビジネスにおいて、諸外国はおおよそ性悪説的な立場でものを考えている、すなわち相手をそのまま信頼するという間抜けではないと言事である。

この性悪説、性善説については、中国の孟子や荀子が論じているが、人間という生き物はおおよそ生まれた時かその性根は性悪なものだと考えた方がいいようである。

人間の性根は生まれて以来様々な教育を経て、世間で通用する性質になって聞くのであって、教育なければ悪へ走ることはほとんど間違いないと言われている。

教育を施されても、現実の世間を見れば納得なのだが悪が氾濫している。

厳にひっかけられたり、嵌められたりする事件が絶えることはない。

そうなってしまってから、けしからんなどと喚いてみてももう時すでに遅いのである。

そんな世のなかであってみれば、性悪説流の対応の仕方ぐらいは身につけておく必要があろう。

少なくともビジネスに携わるものであれば十分な研究が必要であろう。

この性悪説にかかわる様々な対応の仕方を解いているのは、同じ中国の韓非子書かれている。

もともと韓非は人間不信の考え方で、人間はすべて利に向かうと考えている。

すべて人間は利益によって結びついているというのである。

その韓非は人間の善意に期待してはダメだというのである。

こちらが善意を示せば相手も善意で答えてくれる、などと期待するのはあまりにも楽観的過ぎる。

 

 

 

 

 

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