上杉鷹山の経営理念を読んでいると、日本人の労働というものに対する考え方が、アメリカ流の労働とは全く違っていることにずいぶんと奇異な感じがする。
鷹山の頭の緻密さには驚かされるが、彼の考えは藩の民が潤うことを第一の目標にしていることに趣旨が一貫している。
現今の政治屋のように、己が潤う事に主眼を置く為政者とは全く違っている。
政治屋は金が掛かると言った阿呆な政治屋もいたが、鷹山は自ら質素な暮らしをしたのとは人間が違うようだ。
人間の器というものがちょっとしたこんなところにも現れる、そんな輩に参政権を行使する阿呆な選挙民もいる。
政治屋は金が掛かるというのは次の選挙の為のもので、要は就職運動、国の政治のために使う金など、微塵もなかろう。
それはさて置き本論は日本の労働の生産性の低いと言われることにある。
生産性の低さは様々な原因が考えられるが、一企業内で解決できる問題ではなかろうと思う。
特にサ-ビス業や大手メーカーの部品納入に関する品質管理の厳しさは、諸外国では想像もつかないだろう。
中国へ逃げ出した多くの企業は、国内で要求するような高い水準の品質管理を要求しても、
とても国内で望んだ様な高い水準の品質を要求することはできないだろう。
日本の国民に後足で砂をかけて出て行った企業がその品質管理の悪さから作られた粗悪な製品を日本に向けて輸出している。
それが安かろう悪かろうの、製品として現われているのだろうと思っている。
様々な製品の優秀性はそれを構成する部品の優秀性にかかっていることは自明であろう。
レストランにしても、ホームセンターなどの大規模商用施設あるいはホテルや航空会社にしても教育関連のサービスにしても、
何にしても、日本ではお金を払ってサービスを受ける消費者は、何から何まですべてやってもらえて当たり前、という感覚になっている様な気がする。
そうでなければ、あそこは不親切のレッテルが貼られて、サービス業が成り立たなくなってしまう。
そして、それほどにもきめ細かく、何でもやってもらえるサービスが日本では当たり前になっているため、
サービス業に従事する人たちの負担は非常に大きなものになっているといっていい。
諸外国では自分の仕事以外はやらなくていいので、サービス業従事者の負担は日本のように大きくない。
職種職種で自分の仕事さえやっていればいい外国との差は大きい。
日本では、外国人から見て行き過ぎとも言うべき、素晴らしいサービスを提供してしても、その分を大幅に価格に上乗せするのが難しい状況では、
消費者にとっては行き届いた素晴らしいサービスを低価格で受けることができると言うことである。
外国のドラマを見ていると、ショップや野外のコーヒースタンドあたりに行列を作っているのを見かけるが、店員が急ぐ風もなく、
ただ淡々とこなしているに過ぎないけれど、客は文句も言わず黙って順の来るのを待っている。
つまり、待たなければいけない、という割りを食うのは客、つまり消費者の側なのであり、ショップやスタンドの店員の仕事はコーヒーを提供することだけだから、
お客が急いでいるかどうかなどの事情は客自身の都合であって、だから店員が急いでくれるということはない。
しかし、日本のように、どんなにサービスが良くて、消費者が満足したとしても、価格に反映されなければ、GDPは上がらないし、
労働生産性には反映されることはない。
(DGP(Gross Domestic Product)一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額のことである。)
店員が笑顔で接客する、きめ細やかな対応をする、お店をキレイに装飾する、掃除するなどの素晴らしいサービスを行って、
いかにお客が感動したとしても売り上げが上がらなければ労働生産性は全く上がらないわけである。
つまりこの現象は日本の労働生産性を下げていると言える。
アメリカではサービス対してはきっちり料金をとるから、日本人が提供しているレベルのサービスを期待するのであれば、
それが価格に反映されざるを得ないシビアさがある。
次に、日本人の労働生産性を下げている次の要因は何でもかんでも上司や周りに確認をし許可を得ないといけないことだろう。
これは日本人は決断力がない、とかいう話ではなく、日本人の労働や組織に対する考え方の構造的な問題と言っていいのだろ。
アメリカでは、ジョブ・ディスクリプションという、あまり聞いたことのない言葉の契約が、従業員と会社との労働契約書のようなものによって、
各従業員の仕事の範囲や責任の範囲、権限が決められているから、担当者はいちいちすべてのことに上司に確認をとる必要はない。
アメリカのドラマなどを見ていると、実にドライに割り切っていることに、日本人は違和感を感じるのだが、よくよく考えてみるとそれが当たり前なのである。
そのため、新しいやり方をすることで、経費が削れ、その分付加価値を生む機会があったとしても、多くの日本の組織はそういったチャンスを潰してしまう可能性がある。
日本の会社で働く多くの人は、ミスは絶対にゆるされない。
お客様に100%の品質のものを提供しなければいけない。
報告書も、プレゼンテーションも少しでもおかしいと思われることがないように完璧に仕上げようとする。
といった様な強迫観念を持っていないだろうか。
先にも述べたように、品質管理における、平均偏差にしても、ずいぶんと高いところに設定されており、延いてはそれが製品の完全性につながっている。
日本の製品の優秀性は下請け企業の部品の優秀性、品質管理の高さにあった。
それを中国の民に要求しても叶えられることはあり得ない。
必然的に安かろう悪かろうの製品が出来上がるが、いつまでの低賃金の雇用が続くとは思われない。
海外の賃金の高騰が問題になる日がすぐそこに来ている。
必然価格に跳ね返るが、そんな粗悪な製品の輸入はお断り願いたい。
後足で砂をかけて海外へ出た企業、それは覚悟してほしいものである。
アメリカの映画やドラマなどで、よく見かける場面は、肝心なところで機器の故障が発生して、思わぬ災難に遭ったりしている。
戦争の場面などで、武器が故障したために、死に至ったり、そうでなくても瀕死の重傷を負ったりするのをよくみる見る。
これは100%のものを提供するという考えから90%で事足りるとする考え方に由来する。
当然製品の品質は落ちる、故障などすればそのときに対応すればいいという考え方がアメリカ流の考え方なのだから、
故障は当たり前といっていいのかも知れないが。
不都合があれば、後で対応すればいいというアメリカ流の思考に由来する。
なぜなら、99%完了しているいるもの、あるいは完成しているものを100%の状態にもっていくには非常にコストがかかり、それは無駄な努力と考える、
不都合があればそのときに対応すれば足りるとする考え方によると言える。
レポート作成にしても、品質管理にしても同じ扱いだろう。
さらに100%というのはほとんどの場合、実際には不可能なことで、一生懸命それに近づけるために、多くの労働者が不必要な時間と労力を使っている。
大手メーカが下請け工場に依頼する部品などの品質管理はとても厳しい、
できあがる製品もアメリカ流に考えて作られたものとは比べものにはならないくらい優秀である。
ところが海外へ進出したメーカーは、海外でそれを要求することはほとんど不可能に近い、無理な事なのではなかろうか。
その結果、安かろう、悪かろうの製品が日本に持ち込まれる。
そんな気がしてならない、というより日本の企業のメイドインチャイナの製品を使ってみてどれほどの損害を被ったか測り知れない。
それでは労働生産性が低いのは当たり前といえる。
アメリカ人は多くの仕事において100%を求めることはあり得ない。
それ故、アメリカのホームセンターで何かを買ったとしても、結構な割合で不良品がああるのだという。
不良品は後から返金すればよいという考えである。
若い頃、外車が欲しくて、物色していたことがある。
そのとき言われたのは、アメ車は故障が多いからやめた方がいい、ということだった。
そのときは何故故障が多いのかなど考えることもなかったが、人種によるものの考え方の違い、則ちこれはアメリカの企業が無理に品質を100%にするよりも、
問題があったときに返金をしたほうが、効率がよいことを理解しているからだと、その考え方の違いに依るのだと分かったのは、ずいぶん後になってからである。
アメリカの企業はそれらの計算ができる、専門家を雇っているので、無駄に人件費をかけて100%を目指すことなどせず、
最適な利益を得べく戦略的生産活動を行っているといえるのだという。
さらに言えば、これもドラマから仕入れたものだが、銀行に代表されるように、一日の締め、レジ締めの際に一円程度間違っていたとしても、
パート2−3人をいやその他全員を残業させて金額が合うまで数えていては、人件費の方がはるかに嵩む。
そのドラマを見ていたときは、おそらくサービス残業だろうとは思ったのだが、無駄な労力を終やするのもだと思ったものだ。
個人個人にとっては正直、日本人の労働生産性などというものはどうでもよく、基本的には「いかに自分に有利に仕事ができるかを考えている。
すなわち楽に、稼げる、昇進するなど・・・・・有利になるように働くか」を考えて仕事をしている。
仮に、イノベーションを導入してやり方をガラっと変えたほうが、将来的に少ないコストで多くを生産できるようになるのだとしても、
企業の1担当者はそんな面倒臭いことをやろうとしないだろう。
それゆえ、本当に日本の労働生産性を高めていく必要があるとすれば、これは国や社会のシステムやルールを変える形で実現する必要がある。
個々の企業の問題ではないように思うのだが。
今の政治屋の頭では、そこまで考えている輩はほとんど皆無と言っていいのは・・・・・
江戸の頃老中が全員早い時間に退出する慣習になっていたという。
これは彼らが残っている内は、他の役人が下城することがはばかられるという、配慮であった。
現代の会社などで、上役が残っていると、用もないのにぶらぶらしているものは居ないだろうか、これなどはサービス残業とは言えないが、
サービス残業を強いられる伏線になりかねない。
国がサービス残業をもっと厳しく取り締まることなどによって、労働者の仕事時間がすべて価格に転嫁される状態を作ることが急務であろう。
ところが今の惚けた政治屋や官僚では、働く者にとって有利に作用する制度に手を付けることはあり得ないと言っていい。
日本という国の特徴であろう、すなわち弱者優遇はできうる限り差し控える、それが日本という国の支配層の頭の中の構造である。
労働者に無理を強いればなんとかなってしまう以上、経営サイドからすると、イノベーションを用いた効率化などによって生産性を上げていく必要性を感じなかろう。
仕事内容を特定せずに、会社側が従業員に何でもやらせたり、全くそれまでと関係のない職種の業務をさせたりできるシステムは、おそらく日本特有のものと思われる。
今はどうかは知らない、昔見たドラマはそんな風に描いていた。
それが世間一般の企業のあり方であったのだろう。
新入社員だから、かかってくる電話を全部とらなければいけないとか、社員全員で朝の掃除をするとか、日本の企業の多くで見られる風景ではなかろうか。
そういったことは専門性がある仕事ができる人の時間を無駄に使って効率を下げていいることにすら気がつかない、
アメリカあたりはそんな細かなことにもシビアな態度で臨んでいると言うことなのだろう。
当たり前ではあるが、アメリカではどんな仕事でもジョブ、ディスクリプションに基づいて従業員は仕事をしている以上、
上司は仕事を自分の判断だけで部下にさせることはできないだろう。
一部、日本の会社でもジョブ、ディスクリプションがある会社もあると聞いたことはあるが、これも真似ごとで、実際にはJDにない、
掃除やお茶汲みをさせられることが多いと聞いたことがある。
日本でJD制を定着させるには、法律でJDにない仕事を労働者の同意を得ずにさせた場合には、罰則を設けるなどする必要がある。
これとても、今の政治屋の能力では、いつになる事やら、永久にならない可能性の方が高い。
企業や、上位管理者の考えは、それが嫌ならやめればいい、それが切り札である。
ケネディーが惚れ込んだという鷹山に今、日本の国を預けたらどんな施策を行うだろうと常々思う。
日本の企業は江戸の商人の商売の仕方がそのまま姿を変えて現代に現われている、そんな気がしてならない。
だとすれば生産性の低さなどは取るに足らないことなのかも知れない。
鷹山の優れた頭脳の中には、さすがにアメリカ流の経営術はなかったろう。
だが鷹山の残した伝国の辞は単なる経営の指針ではなく、国家の指針であった。